「おい、どうした」
 とくに反応を示さないのをふしぎに思ってか、きょとりとして首をかたむける。
 ぶっちゃけそれどころではない。間近で先ほどのあれを見てしまったははっと我にかえり、無意識に右のこぶしを突き出していた。
「う、わ」
 不意打ったにもかかわらずにひょいと避けられる。しかしその拍子に政宗は体勢をくずして地面に手をつくも、勢いを殺しきれずに情けなくも尻もちをついた。
 その隙にはぱっと立ちあがり、脱兎のごとく走りだす。
「は、ちょ、えぇえええ !?
 目の前で起きた珍事にあせりきった青年の声にもふりかえらずに往来を駆け抜ける。だれにもぶつからなかったのは奇跡としか言いようがない。いつもの小袖だったらこうはいかなかっただろう、走りだす間もなくつかまっていたはずだ。
 一体どれだけ全力疾走したのか、気がつけば城と城下とをつなぐゆるやかな坂の入り口が見えるところまで来ていた。
 防備の役目もなす田園を一本だけ舗装されたあぜ道が通っており、見通しはひどくいい。
 あぜ道に差しかかったあたりで足をゆるめ、クールダウンにしばらく歩く。呼吸がそこそこ落ち着いたところで二重の意味で真っ赤になっている顔を覆ってその場にしゃがみこみ、深々とため息をつく。
「ええー、なにあれ。なに今の。ときめき? ときめき胸きゅん? いや、いやいやいや。ないない、ありえない」
 はきゃーとふざけた悲鳴をあげた。いまだに熱を持っている頬をぱしぱしたたき、ふたたび顔を手にうずめる。さっきのが照れだとしたら今は羞恥が勝っている。ツンデレてみたほうが良かっただろうかというくだらない考えは自分で思いついたことながらスルーする。あまりにもくだらない。
「変な女って思われたなあ……あー、失敗。抵抗力さがったのかな」
 肩を落とし、右の頬を腕に押しつければ三人ならんだ地蔵が見えた。そういえばあぜ道の中腹くらいに六体の地蔵が両端にわかれて向かい合わせになっていたのを思いだす。配置は変則的であったとしても六地蔵――六道において衆生の苦患を救うとされるものだろう。それがどう転じてかは知らないが六連銭のルーツになったらしい。
 城へ向かう人などそういないのをいいことに、道のど真ん中に座りこんだままは頬杖をつきなおして地蔵をながめやる。
 だんごでもあればそれぞれに供えただろうが今はあいにくと手ぶら、花で代用するとしてもそこらに咲いているのを摘んだのではナンセンス。そもそも植物とはいえ、地蔵の前で殺生するのもおかしな話だ。
「そこで、なにをしていらっしゃるのですか」
「うわぅ!」
 あまりにとうとつなそれに肩がはねた。同時に奇声をあげたことに気がつき、穴があったらはいりたいむしろ田んぼに飛びこんで埋まりたいなどと思いながらもそのようなことをしでかしては十割不審者だからと理性的に踏みとどまりつつはおそるおそる首を正位置にもどす。
 声の主は鴇色の小袖を着た女だ。手甲をした手には古びた金物の杖を持ち、くたびれた脚半を巻いていることから旅人だとおぼろげにわかる。市女笠をもう一方の手でかたむけ、垂絹からわずかに透けて見える涼しげな目もとは奇妙なものを見るかのようだ。
 実際に奇怪な行動をしてしまったと自覚しているはへらりと笑んでみせる。それでは成実と同じだということには気づかない。そして思いのほか動揺が大きかったのか、本来ならば気がつきそうなことも見落としていた。
 女が旅人だったとして、このような町はずれにいかなる用があるというのだ。迷ったというには場所がおかしい。市でにぎやかな町はすぐそこだし、この先にあるものは米沢城くらいだ。その城を訪れるのが目的だとしても大手門よりも手前で止められてしまうだろうに。
 それ以前に、この女はどこにいたというのか。
 女がいるのはこちらから見て前方。しかし視界にはちらりともはいっていなかった。いくら木々の葉が落ちていようともこのような場所に鴇色が映えるのは言うにおよばないことだ。町のほうから来たというのであれば女はの背後にいなければならない。
 ようやく再起動した回転率をあげはじめる。
 そうする間にも女は笠に手をやったまま一歩、また一歩とこちらに近づき、三メートルほど離れたところでうっすらと微笑んだ。先のほうで結われたゆたかな黒髪が垂絹とともにさらりと揺れる。
「かようなところにいらっしゃるとは思いませんでした」
 まるでを見知っているかのような口ぶりに軽く眉を寄せて首をひねった。
 声からしておそらくは二十代なかば、しかしその年ごろの女で知り合いなど城内外でもそういない。基本的に男所帯である米沢城であるから知り合いも当然男が多い。なにより城の女には一部をのぞいて好印象を持たれていないのだからなおさらだ。かといって町の女衆ともそうつきあいがあるわけでもない。
「どちらさまでしょう」
「まあ、おわかりになりませぬか」
「……どこかでお会いしましたか」
 まさかナンパの古典的常套句を口にする日が来るとは思わなかった。しかもこのような流れで。
 今の一連を第三者が見ていたとすれば明らか非があるのはのほうだ。顔は見えなくても声色から女が気落ちしたのは容易にわかる。これだから美人は得だよねまったくと思わず八つ当たりじみたことを考えてしまう。
 微風が流れ、垂絹のすき間であざやかな紅を差したくちびるが弧を描く。
「さすれば、これならばいいかがでござりましょう」
 ふ、と声の調子や質が先までとはちがう女のそれとなった。外観はわずかなりとも変じていないのに、人間がその人と断定するすべての要素ががらりと変わったように見える。
 さらに女は垂絹を手でのけて顔をさらしてみせた。
「――ああ。かすがさんでしたか」
 蜜を滝にしたような髪ではなく、また原材料不明なレオタードすがたでもなかったが女はたしかにあの雨の晩に奇縁を結んだ女忍だった。あれ以来見かけたという報せもなかったから安否はわからないでいたのだがこの様子ではとくに不自由なことにはなっていないはずだ。気にかかるのは傷跡の有無だがそれを訊くのはさすがにはばかられた。
 ちなみになぜが彼女のことを覚えていたかといえば――いくら出会いが衝撃的であったとしても案外忘れてしまうものだ。政宗とのファーストコンタクトでさえも高校入学前のことだったから覚えていられたのだから――あの晩のことが今の状況をなす契機になったからだ。かすがを助け、それが政宗に知れかけてクロエでごまかし、可直が側役になって可続とも接触し、今では奥州の財政事情に首をつっこんでいる。何度辞退を申しでても使えるものは使わなきゃ宝の持ち腐れだと筆頭みずからに言われてははたらくよりほかはなく、そう言われてしまえばただ飯食らい同然のが拒否できるはずもないのだが。
 けれどはこの顛末を悔やんだりはしていない。むしろここで彼女のせいだと責めては責任転嫁もはなはだしく、またそんな軽い気持ちで金勘定ができるかという話だ。会計関係に関しては多少かじったことがあるだけにそのあたりは心して大まじめだ。
 ずっとあの場にいたのではわる目立ちするからと移動し、手ごろなところに手ぬぐいを敷いてふたりならんで腰かける。
「して、このたびは奥州にどのような用向きで参られたのですか。まさかまた」
「ちがう」
 皆まで言わせずにかすがはひと言で切り捨てた。
 クロエがひと目見ただけ所属がわかるような忍だ、おそらくは上杉忍の中でもかなりの手練れであるはずだ。その彼女がこうもきっぱりと言い切るとは――信用の値は五分五分だが――米沢城はよほど忍びにくいのだろうか。
 クロエによれば、わざわざ忍びこんで探るということはよほどの事情を有するときのみであり、忍が忍として潜入することはままないそうだ。たいていは諜報活動専門の忍が料理人や商人となってその場に根づいていくのがふつうであり、とにかく入念に時間をかけて行う。城攻めをするのであれば築城や改修の際に工夫としてもぐりこみ、戦があれば足軽兵に混ざって武功をあげては順当に取り立てられていく。しかしこれは人手を多く必要とするため、単独で動くクロエたちの一派はべつの手段を用いているらしい。
「では、なぜ」
 たいくつしのぎに聞いた話を思いだし、はふたたびたずねた。
 彼女の言い方からして答えられぬようなことでないのはわかっている。これで答えがかえってこなかったとしてもだめでもともと、目的がわかれば御の字だ。もちろんそれを政宗たちに伝えるかどうかは別件だ。
 すると、先ほどの切れ味はどこへやら、かすがは顔をうつむけてしまった。なにやらぼそぼそとつぶやいているがやたらと歯切れがわるい。
「あの、言いたくないでしたらむりに」
 やんわりと遠慮しかけたところでかすががを捜している風だったことを思いだす。このようなところと言ったのは、おそらくは一度城のほうへ赴いているから。そうだとすれば用件を聞かないことには話にならない。
「礼を、言いに」
「はい?」
「け、謙信さまが、いま一度礼を言ってこいとおっしゃったから……!」
「……まじで」
 思わず口調がすっぽ抜けた。
 上杉謙信といえば越後の龍、軍神――さまざまな異名を持ち、武田信玄とならんで織田信長に一目置かれていた戦国大名だ。天険の地春日山を本拠とし、上杉憲政から名跡と関東管領をゆずり受けた人物。謙信は戒名であり、初名はたしか長尾景虎。しばしば後北条氏や武田信玄と戦い、なかでも有名なのはやはり川中島合戦だ。
 合戦自体は五度あり、実際に総大将同士の一騎討ちがあったのは一度きりだが、その第四次川中島合戦において敵陣に単騎で特攻かました上に馬上から武田信玄を罵倒した逸話は高校古典の教科書に載るほどだ。ニュアンス的には「この臆病なガキが!」だった気がする。何分教科書をぱらぱら見ていたときの記憶なので本当にニュアンスだけだが。
 ちなみに上杉謙信と武田信玄の子孫同士でオセロ勝負をしたところ、上杉謙信方がみごとに勝利した。勝因は第一戦目を敗北してすぐさま読んだオセロ必勝読本にある。
 先の一件とはまたちがった意味でテンパるが無言でいたおかげか、なんとか平静をとり戻したかすがはひと呼吸置いて口を開いた。