初見の相手の力量を見たり、親しい相手をそれとなくリラックスさせたりするには怒らせることが一番効果的だと言ったのは今年の三月にぶじ卒業した委員会の委員長だ。常にだれかを怒らせることを生き甲斐としているようなあの人が言うのだからすんなり信用できるし、なにより怒っているときほど地が出る。人によってはときどき理性もふっ飛ぶ。 人間たまにはくだらないことで藁って怒って泣いておかないと肩ががちがちになってしまうから、このようなやり取りはなりの気づかいだ。そして立場的に政宗はこういった軽口を望んでいる節がある。トップに立つ人間は汪々にして孤高であり孤独だ。自分と同じ力量の相手でも見つけられればまたちがうのだろうが彼にはまだいないようだ。おそらくはこれから出会うのだろう、陰陽道でいうさだめの星があるのならば。 ひょいと首を伸ばした瞬間に見つけた香具師はずいぶんとひっそりとしたところで荷を解いていた。 ならべられているのはどれも素朴な雰囲気の、けれど細工は精巧なかんざしや帯留、帯締などなどだ。色合いも淡いものから鮮やかなものまで各種取りそろえており、かといって似たような品がないところがなんとも憎い演出だ。手づくり系の一点ものに弱い女性心理をよくわかっている。 だいたい見世のかまえ方からして素人ではない、あれは客を選んで売るタイプだ。第一条件は単純に知覚すること、しかしそれだけでは買うにいたらない。現に立ち寄る人もいたがとくになにかを購入した様子はなかった。 なんともなしにそちらを見ていたら政宗が頭をこづいた。痛くはないが地味に後が残って、そこを撫でさすりながらはあまり大差ないところにある彼の顔を見やる。 「 「は? ……あー、あれ。そう、なんとなく目についたの」 「寄ってくか」 「まあ、せっかくだし」 その露店は今歩いている人の流れとは反対側にあり、まるで縁日のようにごったがえすそこを泳ぐようにして渡る。女にしてそこそこたっぱのあるではあるがさすがに難儀して、けっきょくは政宗に手を引いてもらった。ぐるりと手首をつかんだ彼の手は大きく、指も長いようで多少の余裕があることに気がつく。どうにか流れを脱し、ふたりならんでひざを抱える。 接近に気づいていたらしい香具師の青年は愛想良く笑んだ。 「や、いらっしゃい」 もにこりとする。政宗の顔が引きつったのが視界の端に映ったが今は保留しておく。 まずはジャブ程度に。 「こんにちは。おにいさん見ない顔だけど、ここははじめて?」 「まあね。今まで野州あたりにいたんだけど、ちょっと物見遊山かねて足伸ばしたみたわけ。よかったら見てってよ」 「勉強してくれる?」 「えー、おれ負けないよ」 「あはは、望むところ」 周囲が見ればなにごとかと思うような笑顔で攻防戦。 普段意識していない筋肉を使って笑っているので明日には頬が筋肉痛とかいう情けないことこの上ない状態になるかも。しかしそうと予想できてもにやめる気はさらさらない。 値段が時価ということはあれこれ指摘したりなだめすかしたりで値切れるということだ。日曜日に公園などで大々的に行われるフリーマケットでも、散歩ついでに顔を出してはよくこうして値切っていた。その点で見ると彼はなかなか強敵かもしれない。商売人にはありえない口調も人心をつかむための手段と思えばみごとなものだ。場ちがいなフレンドリィさを好印象と受けとめるかうざいと一蹴するかは相手によりきである。彼の場合は明らか前者。 と青年が娯楽じみた心理戦を展開するかたわらで我関せずと物品を吟味していた政宗が赤っぽい丸玉が通った白い革ひもを指に引っかけた。 「これ、瑪瑙か」 「お、兄さんお目が高いねえ! 加州や能州で採れた品でね、ほら、赤と白の縞がきれいにはいってるだろう。ここまで織物みたいな模様のが出るのはめずらしいんだ」 「あ、こっちは翡翠?」 「みたいだな」 「もー、なんなのおふたりさんっ。目肥えすぎじゃない?」 ふざけたように青年はしなをつくった。 それを政宗はさらりと流して目についたべつのものを指差す。 「この青いのは?」 「さあ、おれにもよくわかんない。仕入れ先に聞いたら翡翠と一緒に採れたっていうんだよねえ」 「ああ? 翡翠はみどりだろう」 「だよねー」 中央に穴を開け、管玉状に磨かれた青い石を間に談笑するふたりにはひっそりと笑った。 翡翠と聞いて真っ先にイメージするのはたしかに名の通りみどり色だ。しかし実際のところは多色存在する。日本で産出しないのは橙や赤橙系統の色だ。日本で好まれるのは落ち着いたみどり色のそれで、次に人気のあるラベンダー色は含有物質の関係で青みがかっている。ちなみに青い翡翠は糸魚川石という新鉱物であるということが最近わかったと鉱物をとりあつかった雑誌で読んだ。 だがそんな理屈が通るはずもない。化学式がどうだ結合がうんたらと言ったところで頭がおかしいと思われるだけだ。地動説を説いたコペルニクスしかり、ガリレオ・ガリレイしかり。 「ああ、今は天動説か」 でも日輪信仰のある日本だから案外地動説かもしれない。 つややかな飴色をした櫛を手に、爪を細かい歯に引っかけて遊んでいると青年がそれを取りあげた。 「なあに。なんか言ったかい、お嬢さん。てか売りもんで遊ばない。折れたらどうしてくれんの」 「そのときはきちんと買います」 「だったら買ってから遊んで」 「櫛はひとつあれば十分。梳かす以外つかわないし」 「まとめるとかすればいいじゃん」 「むりむり。そこまで長くないもの」 はこれ見よがしに布で隠しきれなかった耳のあたりの髪を引っぱる。 ショートとボブではだいぶ伸びたと思うが時代的にはまだ短いほうだ。この年齢で尼そぎ髪は見っともないとあまりいい顔をしなかった喜多のアドバイスで 「ていうか、本当にひとつくらい買ってよね。こんだけ長話しといてはいさよならとかされたらおれ商売あがったり。ねえ、兄さん。こっちのお嬢さんになんか買ってあげたら? さっきの翡翠とかどう」 「こいつにみどりが似合うか」 「じゃあ瑪瑙は? お嬢さん肌白いから赤が映えるし、惚け色だったらまけてもいいし」 「は! 妻でもねえのに夫婦の和合願ってどうすんだ」 「あらま。知ってたんだ」 「ばかにしてんのか、てめえ」 「や、ちょっとやめて! そこで刀抜いたりしないでよっ」 「だれが抜くか!」 ぎゃあぎゃあと騒ぐふたりはいつしか言い合いに夢中になったようだ。 自分の太ももにひじをつき頬を手でくるみながらそれを見物しているはふと目についたそれにひとつふたつまたたく。 「……びらびら 本体は二又の、なんの変哲もない金属製の簪だ。装飾として一様でない模様をした布の切れ端を組み合わせて花をつくっており、中央にはうすい色をした飾り玉が据えてある。これだけならば玉簪と花簪の複合体だ。しかし花の下からさらに細い鎖――しかもところどころにガラスに似た管玉がついたものがいく筋も垂れていては時代錯誤もはなはだしい。友禅染や赤絵など目ではない、なんと言っても登場したのは寛政期。 が見ていたもの以外にも荻や菊――季節はずれにも藤があるのは藤原氏伊達家を意識してだろうか――などがあり、そのほかにも蝶や鳥といったオーソドックスなものまである。 もともとが遊女や芸者が飾るためのものであるだけにかなり派手め、さらには京阪の裕福な家の女子が用いただけあって相当値が張るだろう。少なくともこのような趣の市で売りさばけるものとは思えない。 しかし、数ある商品の中でも贅沢品に分類されるであろうそれらはほかと同じようにくたびれた筵に置かれている。櫛ひとつにも気をやる――たしかにあれはがわるかったのだが、取りかえした後ためつすがめつしていた青年にこれらの価値がわからないはずがない。むしろわからなければ商人やめればいいと素で思った。 かといって直接たずねてみて、逆になぜそんなことを知りたいのかと訊きかえされたらうまくごまかせる自信は五割弱だ。ふつう気にするような点ではないだけにあやしまれるのは確実だ。痛くなくもない腹を探られてはかなわない。 一応の決着がついたのか、政宗と青年は言い合いをやめてなにやら物騒な笑みを浮かべている。青年のほうはわからないが、政宗のあれはろくでもないことを考えている証拠だとわかって思わず目をそらす。 「あれ」 さっきまであった赤い牡丹の簪が消えていた。 ほかに客でも来たのだろうかと青年のほうを向こうとして、あごをつかまえられた。 「へ」 「動くな」 言われるまでもなく瞬間冷凍した脳は身体へ信号を送らず、状況整理すらなかば放棄している。 人知れずパニックを起こしているをよそに、政宗は固定したあごをわずかに反らせ、もう片手でもてあそんでいた花簪を左のこめかみに差しこむ。そのまま耳に引っかけ、手を放すと口笛を吹いた。 「なかなか似合うな」 そのときの顔といったらなかった。ああ整っているんだなと再認識させるような、いたく満足した表情を浮かべている。青年の賛辞も耳にはいらず、ぼけっと見つめてしまうほど魅力的だった。思えばこれほどまじまじ彼の顔を見たことはなかったかもしれない。 |