がこん、と硬い物が後頭部に当たった。
 にぶい痛みで覚醒したは腕まくらに突っ伏していた顔をあげ、そば立つ襲撃犯を認めて文句を言おうとしたが次いで頬に押しつけられた冷たさに悲鳴をあげた。
「あっはは。起きた、起きた。おはよー」
 のん気すぎる声にいらだちが募り、当てられたまま動かない武器――アクエリアエスの五○○ミリ缶をわしづかんで投げつけてやろうにも、それを手にしたときにはすでに反対側にまわりこまれていた。くやしくては思いきり舌打つ。同時に相手もまた青い缶を持っているのに気がつき、断りもしないで自分の持つそれのプルタブを引いた。
 喉を鳴らして半分ほど一気飲み。昼寝をするとどうにも喉が渇いて仕方がない。内容量が激減した缶をちゃぷんと揺らして残り具合をたしかめ、ひと息ついてそれを机に置く。それから一連をながめていたクラスメイトをにらみつけた。
「なにすんのよ、この宇宙人。寝こみ襲うたぁいい度胸じゃない」
「はは、愛がないなあ。せっかく起こしてあげたのに」
「あってたまるか」
 ため息を隠さず、は頬杖をついた。
 カーテンを揺らしてすべりこむ風が汗ばむ身体に気持ちいい。
 缶をかたむけてはちびりちびりとアクエリアスを飲む。そのさまがまるでビールを飲んでいるようだと笑われて、言われ慣れたことであるのにもかかわらずほぼ脊髄反射の速度でちょうど空になったそれを投げつけた。
「うわ」
 すかーん、と中身のない衝撃音。与えた役目をみごと果たした缶はころころと転がって足もとに帰り、はそれを拾いあげるついでに席を立つ。
「あれ、帰るの」
「うん」
 適当にかえしながら机のわきに置いてあった円筒型の赤いスポーツバッグを持ちあげ、肩にかける。
「ん?」
 今日はただの登校日であり、教師からのありがたくない話をされたら学園祭の準備で午後がつぶれる。去年だか一昨年だかに発覚してしまった履修単位云々をなんとかするための補習があったとしてもそれは午前だけで、教科もふたつかみっつくらい。だから持ってくるものなどそうないはずなのに、肩にかかる負荷は相当以上だ。
 予想していたよりも重いバッグに違和を感じ、は一度それを机に置きなおして中をあらためる。資格検定のテキスト、ルーズリーフ、ペンケースのほかに、中身が半分残っているステンレスのタンブラー、読みかけのハードカバー、タオルにティッシュにポーチがふたつ、その他いろいろ。入学当初にくらべてかなり改善された持ち物は重量に相応しない気もするが手提げ部分の長さを考えれば妥当だろうか。
 ひさしぶりに肩が重い。その妙な感覚もしばらく歩いてればなくなると見ては教室の出入り口へと向かう。
「あ、そうだ」
 予想していた通り、まるで見はからっていたかのようなタイミングで声をかけられた。
「先生が受験報告のプリント出せって呼んでたよ」
「とっくに出した」
「じゃあ弦楽部の子が助っ人頼みたいとか」
「もう解決済み」
「それならソフト部のマネージャーが付き合ってほしいって」
「知らない。帰る」
「うん、またね」
 ちらりとだけふりかえれば一瞬前までいたはずの彼のすがたはなく、閑散とした空間だけが置いてきぼりになっている。
 夏休みにはいってまだ日が経っていないというのにその風景はひどくなつかしく、なんとなく見慣れない感じで不安がよぎった。
 胸の内がざわざわする。
 あまりにも不明瞭な不安定さにめまいがしそうだ。
 その感覚は下駄箱で靴を履きかえ、自販機の横にあるデポジット機に空き缶を入れて十円を払いもどし、電車に乗って降りても消えずにあって、はふたたび違和を感じたのはショッピングカートを押してマーケットをまわっているときだ。
 自分がなにをし、どこをどう過ごして通ってきたかはわかる。だが覚えてはいない。まるでドラマを早まわしで見たような、漫画のコマ割りをされたような気分だ。
「きもちわるい」
 夏服の袖から延びる腕に粟が生じていて、は深呼吸しながらそれをこする。ある程度治まったところで思考の外へと追いやり、やけに空いている店内をめぐりだす。
「さいきん素麺とか麺類ばっかりだし、でもカレーって気分でもないなあ……冷静パスタ、も麺だから……あ、ホールトマト安い」
 ぶつぶつとつぶやきながらジャンル分けされたエリアをひとつひとつまわり、立ち止まっては目についた食材をカートに放りこんでいく。最終的に自分がなにを買ったのかをが知ったのは会計を終えたあと、レシートを確認しながら袋づめしているときだ。当然ながらエコバッグ。なにかのイベントでもらったこれには隅のほうにどんぐり袋をかついだ小トトロ中トトロがプリントされていて、マチも広くあるので柄をふくめてとても使いやすい。
 自転車の前かごに買い物袋を乗せ、バッグは肩に通したままうまい具合にうしろの荷台に乗せてペダルを強くこぐ。ギアは常に三段階の三、坂をのぼるときだけ二。前もうしろもだいぶ重くてバランスがやけに取りづらかった。
 マーケットから家までおよそ十五分だ。駅からも少し離れたところに位置する住宅街にの――正しくは従兄の家がある。両親が仕事で九州のほうへ赴任しているのでもう何年も前から居候している。高校を卒業したら思いきってみようとひそかに考えているのだが従兄にはなんとなくばれていそうだ。
 家はこぢんまりとした一軒家だ。住人はと従兄のふたりだけ、けれどなぜか二階三層で地上部分は五LDKと広々した造り。住宅街には不似合い極まりない地下のスペースは従兄が経営する喫茶店になっており、まるでバーのようだと言ったのも古い話だ。喫茶店の入り口はポーチつづきに階段があってそこからおりる仕様になっている。
 裏になっているところ、いわゆる駐車スペースに自転車を停める。今朝はあったはずのバイクはなく、出かけているのだろうかと取り留めもなく考えながら野球をモチーフにしたキーホルダーのついた鍵をポケットから引っぱりだして鍵穴につっこんだ。独特の金属音をたてて錠が開き、ハンドルを手前に引く。
「ただいま」
 返事はない。だが玄関口で声をかけて反応がないのはもともとだ。
 脱ぎ散らかした革靴をそろえ、ふと見てスリッパが一組ないことに気がつく。が普段使っているのが赤いタータンチェックので、従兄のはモスグリーン。たりないのは青いそれ。
 しかしはそのことをわかっていながらスルーして階段をのぼる。着替えるにしろ荷物を置くにしろ、自室もキッチンも二階にある。それから小さな書斎。一階には従兄の部屋と客間が二部屋に風呂場。トイレは上下にひとつずつ。リビング兼ダイニングも上だ。
 なぜ家主ではなく居候が上かというと、この家の仕事はすべてが担当しているからだ。働かざるもの食うべからず、でも実際に食わせているのはのほうだという変な話。料理は断然従兄のほうがうまいのに。
 階段からダイニングへとつづくドアを開けざま、もう一度。
「ただいまー」
「……お、おか、えり」
「うん。ただいま」
 おざなりにかえし、テレビの前を横切ってビーズ製の暖簾で仕切られているキッチンにはいり、手をざっと洗って買ってきたばかりの食材を冷蔵庫につめていく。最後にホールトマトの缶をストッカーに安置しようとしたところでふと思いたって手を止めた。
 従兄が不在であることはバイクの有無でわかっている、では先ほどの応えはだれのものだ。
 当然これを不審に思い、暖簾をめくりあげてテレビの音がする――そもそもこの時点でおかしい――ダイニングルームをそっと覗いてみる。
「あれ」
 は目をまるくした。何度かまばたき、目もとをこすってみるが見えるものは変化しない。
「なんでいるの」
 もへもへした手ざわりの――こういうとわかるひとにしか伝わらないが、表面を合成革で覆った白いソファに子どもがクッションに埋もれるように小さくなっていた。さまざまなかたちと色合いのクッションは抱き心地がとにかくやわらかで、それらのひとつを胸にかかえてうずくまる気持ちはよくわかる。
 けれどその光景があまりに自然すぎたためには逆に問わざるを得なかった。
 何気なく放った疑問、それに対して大仰に震えた肩に首をかしげる。そしてすぐさま合点してキッチンを出るとテレビを遮って子どもの前にかがみこんだ。なぜテレビが点いているのかあとで訊いてみるとしよう。
「こんにちは。みんなはわたしをって呼ぶよ」
 おぼろげに覚えているすがたよりもまた幾分か小さい気がする彼に笑いかける。なじんでいるようでその実はかなり警戒しているであろう子どもの虚勢をそのままには名乗った。名前なんて記号でしかないけれど知らないよりは断然ましだ。病気などいっしょで、名前を知ることですこしでも正体を知った気になり、なぜか安心できるものだから。暫定的なラベリングでも効果は絶大だとは自分の経験で知っている。
 子どもの相手は苦手だ。けれど子ども――とくに赤ん坊はそういった感情が敏感にわかる生き物だから、べつに彼をそこまで幼子あつかいするわけではないが自然と笑わなければと思ってしまう。バイトで鍛えたゼロ円スマイルが有効かは知らないが。
「よろしくね」
 ひざに両手を乗せ、子どもの顔を見あげるかたちでにこりとしてみせれば、彼はそろそろとクッションから顔をあげて極々小さくうなずいてみせた。





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