ばれたら大目玉だろうなと、この暴挙を知って怒り狂うであろう人物を次々思い浮かべながら刺すように痛む足を懸命に動かす。中でもいちばんおそろしいのはやはり仁斎翁、次いで可直だろうか。政宗と小十郎は口うるさいだけだし、成実がはやしたてるのであればあきれるのはきっとクロエだ。 「くわばら、くわばら」 もとは雷避けの、それが転じて一般に忌まわしいことを避けるためのおまじないをつぶやく。雷神は桑の樹が苦手らしく、だから桑原と唱えればそこには落ちないと雷神をつかまえた農家の者に言ったそうだ。怒りを買ってしかられることを雷が落ちるとも言うから、なるほど、なかなかうまい表現だ。どちらが先にできた表現なのかはたまごかにわとりかの水掛け論なのだが。 「つーかここどこよ」 荒く息を吐いてはぐるりとあたりを見まわす。城の敷地からはとうに離れている。足跡ばかりに気をとられてどこから出てきたかさえ覚えていない。城下のほうでないとすれば城を三方に囲む森ということになるが、生憎とは森に立ち入ったことはない。政宗らかと強く言われていたのもあるし、さして出歩いてみようという気にもならなかったからだ。 「はあ……」 さくさくと雪を踏みつけながら火照る頬に手をあてた。走った以上に身体が熱を持っている気がする。もしかせずとも先ほど飲んだ生姜入り葛湯のせいだ。たしか生姜にも葛にも発汗作用があったはず。しかもとろっとしたものは保温効果も抜群だ。 良かれと思われてされた行為――鎧通しとか、薬湯とかがことごとく裏目に出ている。状況が状況だけにだれかれかまわず当たり散らしたくなった。 実を言えば数分ほど前から女中のすがたを視認できている。いくら地元っ娘とはいえ雪の中を走るのは不慣れらしく、時おりひざをついたようなくぼみもあった。対しては五○メートルを七秒切るか切らないかで走る。本職陸上部にも負けないスピードだがそこまで跳ねあがった経緯がアレなだけに各運動部からの勧誘ではなく同情されるほうが多かった。 森に雪ときて思い出すのはやはり政宗を拾ったときのことだ。あのときも足跡を追っていた気がする。当時からすれば今の状況は考えられないことだが、高校生活は入学して一ヶ月も経たないうちに奇怪なものになったからトリップも考えられる範囲内だ。そういえば三年前は仙台へ旅行にいったのになぜ米沢の森に出たのか。 とにかくにこのあたりの地理感覚はない。だから今どこを走っているのかもわからなければどこへ出るのかもわからない。つまり、城へ帰るにも女中をつかまえねばならないのだ。一度雪が降りだせば足跡なんてすぐさま積み消してしまうだろうから。 「お」 ふと、もの思いにうつむけていた顔をあげれば女中がぱたりと足を止めて、ちょうどこちらをふりかえるところだ。いい加減観念したということか。寒さのせいで青ざめ、しかし頬だけは紅潮して熟れた林檎のように色づいている顔が見える位置まで近づいてもまた停止する。 いつの間に抜きはらっていたのか、彼女は鞘をどこぞへと放り捨てて抜き身になった刃をこちらに向け、かたかた小きざみに震えている。それが寒さのせいなのか、べつの感覚からなのかはに判断することはできない。ただわかるのは、少女にそれをふるう覚悟があるのかわからないということだ。わからないということがわかっている。なんとも矛盾した事実だ。 それぞれの口から吐きだされた二酸化炭素は白いもやとなってすぐさま乾いた大気に溶けた。 「それ、かえして」 片手を差しだし、はうながす。きっと聞き入れられないという回答が出ていながらも脳内のどこかでは話し合いによる解決を望んでいるのだ。 まるで子どもがするように彼女はいやいやと首をふった。気丈にも泣いてはいないようだ――泣けばおそらくまつ毛どころか目が凍りつくだろうけれど。 「なぜ、それを取ったの」 少女は首をふる。 「あなたはなにがしたいの」 少女は首をふる。 「わたしにどうしてほしいの」 少女が首をふる。 「……ねえ、なにが言いたいの」 少女は首をふった。 あまりにもかたくなで一律な反応にらちが明かないと見ては冷えて凍りかけている髪に指をがしがしかき入れる。これだから女の子は苦手だ。きつい言い方に対して反論してくるならまだいいが、こうやって縮こまられるとどうしていいかわからない。おまえはヘたれの男子かとからかわれたこともあるが、実際はそうではない。泣かしたその後の風聞がめんどうなのだ。 ため息とともに一歩、二歩と踏みだす。じくじくとかゆいように痛む足は脳に言いきかせて無視。 雪が沈む音に応じるかのように少女は大きく肩を震わせ、ぎゅうと目をつむった。 「伊東さま…………っ!」 助けを乞うように、祈るように強く聞こえてきたそれにはもう一歩を踏みかけた足をもどす。 「なるほど」 これで合点がいった。彼女がなぜ鎧通しを持ちだしたのか、それはたんなにいやがらせのためではなくて可直を慕っていたからゆえの行動だったのだ。嫉妬というストレスの限界だったのだろう。てっきりもっと立場の上の女中たちからパシられてやったのかと思っていただけに安心するやら拍子抜けやらだ。 しかしこれが彼女の独断であればあるほど事態はめんどうなほうへと転がってしまう。政宗を慕っている侍女たちがこういったことをするのであればいくらでも手は講じられるが、いち家臣である可直や小十郎たち関連となると一度で収集をつけることはむずかしい。事実、今現在進行形で刃傷沙汰未遂だ。これを何度もくりかえすとなるとまずの堪忍袋の緒がぶち切れる。それこそ実力行使に出るしかない。 「おめえさまが……」 ぼそぼそとした声に反応して身がまえる――武道を習っていたわけではないから足を肩幅に開いて体重を落とすくらいだが、しないよりはましだろう。カッターナイフはもちろんのこと画材であるパレットナイフ一本でもひとは殺せてしまうのだ。つきつめればなにかを傷つけることを目的としてつくられた刃物、しかも対ひと用である鎧通しを前に気を抜いてどうするというのだ。 首を伸ばし、顔をあげてきっと少女はこちらをにらみつける。 「おめえさまがいなければ、おめえさまが来たからお屋形さまも片倉さまも、伊東さまも変わっちまったんだ」 「はあ?」 「おめえさまは鬼だ。お屋形さまたちをたぶらかして、喰っちまうつもりだな。そうやって、ここをだめにする気なんだな! ……そうはさせねえ、そうはさせねえだ」 「いや、あのね。すこしは話を……って聞く気ないわな」 完全に自分の世界にはいってしまった少女を前にはどうしたものかとすっかり感覚のなくなった足をすりあわせる。赤いのを通りこしてどす黒くなった指先に短くうめく。へたすればこのまま壊死してしまう、いや、その前に凍死だろうか。凍死すると死体が腐らないというが、現代人であるは夏場でもそこそこ腐らずにいられるだろう。今でこそ摂取していないけれどあちらにいたころは合成着色料だの保存料だのがふくまれているものを食べていたから身体の中は防腐剤がつまっているのと同じだ。少しはうすまっていると思うが、それでも一度汚染されたものが素の状態にもどることはまずない。 にとって死の概念はあまりにあいまいだ。どれだけ考えても理解がおよばないものだから。しかしこの状況下において――たとえどのような状況であったとしても最終的には死にたくないと思うのだろう。は死んで花実をなすつもりはない。 「なに勘ちがいしてるかはだいたい見当がつくけれど、あなたの独断がかならずしもいい方向に転じさせるとは思わないことね。もしこれで今後あなたが阿近さんにどのように思われようと知ったことじゃないから」 「う、うるさいっ」 かっと顔を赤くし、ばつのわるさをごまかすように叫んで少女は一気に距離をつめてきた。 「うわ」 切りつけてくる刃を横に避ける。 がむしゃらにふりまわすだけだが素人であるにはそれを回避するだけで手いっぱいで、ひたすらにあちらへこちらへと動きまわる。なんとか無傷でいられたのは彼女が刀を持たない人間であったことと、自慢の運動神経によるところが大きい。 半円を描くように立ちまわり、数十秒ほど前まで少女がいたところに立ったところでちらりと背後を見やり、あんまりなそれに目を見開いて絶句しかける。 すぐうしろに白い地面はなく、ぼんやりとした夜が黒々とわだかまっていた。奇妙なまでにしんと静まっていて耳が痛い。下から吹きあげる風の切れが頬をかすめてぴりぴりと痛む。これが真空になれば肌なんてすっぱり切れてしまうはずだ。たしか鎌鼬は越後七不思議のひとつで、信越地方に広く伝わる。暦を踏んだらどうとかいうのは岐阜だったか。 視線をもどせば、つい意味をなさぬ声を張りあげて駆けこんでくる少女に思いきり舌打つ。 「ざけんなっ」 逆上した人間はほかの動物と同じで基本として直線的な動きしかしない。ならばまたも同じように横に跳んで避ければいい、しかし先ほど立ち位置が入れ替わったせいでの背中からつづく地面は五歩分もない。当然それだけの距離では少女が急停止できるはずもなく、すなわちが避ければ彼女は下までまっさかさまだ。高度がどれだけあるか知れないが助かるかどうかは絶望的だろう。 この期におよんでまで相手の安否を気にする自分もたいがい甘いのだろう。そもそもここまでの流れがだいぶむちゃぶりだ。 「うあぁああああ!」 どうしても避けられず、奇声を伴ってまっすぐつっこんできた刃をは右手を盾にすることで受けとめた。 ぶつっ、と着物を、もしくは布ごと巻きこんで皮膚を貫通する鈍い音がした。 「あぐっ!」 突き刺された腕が熱い。今まで感じたことのない灼熱に視界がまっしろになる。けれどそのかたわらで傷の具合はどうこうよりも衣服を切り裂かれたほうを気にするあたり、なるほどあいかわらずな頭はなかなか混乱しているようだ。 前腕でかばったために、幸か不幸か血にまみれた刃先が肉を食い破って先端を覗かせている。骨の間を突き抜けたらしい。 ここまで冷静に事態を確認できているのはある意味異常なことだ。痛みでのたうちまわりたいのに、逆に痛みが刺激となって脳を冷やしてしまった。一度冷却された脳は痛みをしっかりと知覚しているはずなのにどこかしらでスルーしているようだ。今は痛みや熱さよりもこの異物感がひたすら気持ちわるい。 「あ……」 女中が放心したようにすとんとその場に腰を抜かした。しかしまるで張りついたかのようにその両手は短刀の柄をにぎったままで、畢竟、の腕からそれがむりな負荷をかけて引き抜かれた。途中、骨にぶつかってごりっと手ごたえが骨越しに伝わってくる。 「……ぐぁっ! あ……」 まるで他人事のように感じながらもその気味のわるい感覚にはうめき声をあげた。 どくり、どくりと脈打つたびにはっきりとした痛みが全身をかけめぐった。視界は真っ赤、頭の中は声にならない絶叫であふれかっている。 衣服が腕に張りついているのは雪のせいか、血のせいか。どうやら太い血管を傷つけたようで、傷口からはぼたぼたと血が垂れて雪を溶かし、瞬時に赤い氷をつくった。 「ひいっ!」 ぽつ、ぽつ、と重たい音をたてて刃先から滴下する血に少女が悲鳴をあげる。がたがたと震える彼女はしかし鎧通しをにぎったまま、赤い模様をつくる雪を見つめたまま硬直してしまった。 泣きたいのはこちらだと思ったか思わなかったか、急激に血液を減らしたの身体はまるでひきつけを起こしたように全身が痙攣し、バランスをくずしてぐらりとうしろへたおれる。 「え」 地面にぶつかる衝撃は来ず、代わりに感じたのは浮遊。 無作為な上下運動は立ちくらみにも似た症状を引き起こし、の意識はブラックアウトした。 |