眼精疲労――これは自己申告した――によく効くという手の親指の付け根にあるツボをぎゅうぎゅう押されたときの痛みと説教を思い起こし、は素直にぞっとした。痛気持ちいい通りこしてマゾじゃねえと毛を逆立てた猫のようにわめいていたのに仁斎翁は「がまんせい」のひと言のみでひたすら指圧してくるだけだったから、こじらせたらなにをされるかわかったものではない。 かたむけた湯のみの底をとんとんたたいて流動を速めようと努力するをあきれた目で見ながら政宗が言う。 「あとは、そうだな、ねぎでも巻くか。小十郎に頼んで……」 「ごめん。それだけは勘弁して」 どん、と湯のみを畳にたたきつけて速答した。 ねぎといえばたしかに小十郎なのだが先日精神衛生的によろしくない夢――そう、たとえば小十郎が某ヴォーカロイドの持ち歌をハミングしながらねぎを収穫するといったような――を見て以来、採れたてまるごと一本の長ねぎを直視できなくなってしまった。どちらか単体ならばまだ抑えが利くが対呈示された日には腹筋を攣りそうな、いや、むしろ攣る。確実に。 それにしても、とはあらぬ方向を見ている政宗と湯のみとを見くらべる。まさか薬湯を用意するほど心配されるとは思いもしなかった。そもそも自分ですら気づいていなかっただけに、やはり彼はよくひとを見ている。それも見ているだけに留めないところがさすがだ。 「政宗」 「ん」 「ありがとう」 「……いいからさっさと寝ろ。寝こまれたらめんどうだ」 一瞬面食らった顔になり、政宗はすぐさまそっぽを向いた。 なかなかいい反応には内心でぐっとこぶしをつくる。ナイスツンデレ。真顔で不意打った甲斐があった。自分ではそこそこまじめに言ったつもりだが髪から覗く耳までほんのり赤らめられてはあえてでも揶揄してやらねば彼の沽券にかかわる。重ねて礼を言えば逆ギレされるがオチだろう。 「わかった、夜更かししないで寝ます。よけいなお世話とは思うけど、あなたも遅くまで起きてないでね」 「ああ」 肩にかけていただけだった羽織にちゃんと腕を通し、はよいしょと立ちあがった。心なしか身体がぽかぽかしている。食べ物をお腹に入れるだけでも内臓がはたらいて体温があがるからその分効果の表れが早いのだろう。 「じゃあ、おやすみ。また明日ね」 「Good night. Have a nice dream. 」 「Too, you. 」 「Thanks. 」 ひらりと手がふられたのを見てから部屋を出た。 寝る前に「また明日」というのは小さいときからのくせだ。両親が夜中に帰宅することも少なくなく、また帰ってきたとしても着替えを取りにきたとかそれくらいで、起きたときにまた会えるかわからなかったせいだと思う。だからこそにとっては希望的観測をふくんだおまじないみたいなものだ。深い意味はない。 ひやりとする冷たい板敷をひたひた歩いていく。政宗の部屋があたたかかったので温度の低い空気が布に染みてきて、これが朝であるならば気分もいいだろう。しかしこうも体調がわるいと悪寒でも呼び起こしそうでなんとなく不快だ。 舌を伸ばしてくちびるをなめた。空気がかわいている。そう経たないうちに雪が降りはじめる証拠だ。今年は例年にくらべて雪が早かったそうだからいつ本格的な冬が来るか予測がつかないと聞いた。そうしたらクロエはまだセーフだとして可直は城にもどれるのか。 ひとりで過ごすことは苦痛ではないけれど、やはり彼らがいないと話す相手が減ってたいくつではある。その上日がな一日政宗や小十郎たちといたのでは身のまわりを世話する女中たちにもひどくストレスだろう。けっきょくのところそれがはねかえってくるのはなので、彼女たちのためというよりはの保身のためにもどちらかでいいから早く帰ってきてほしい。 そういえば先ほど受けとった箱はどこに置いただろうか。打掛に気を取られすぎていたせいで記憶としてしっかり残っていない。 とりとめもなくつらつら考えながら十数分前も通った階段をまたのぼる。壁に設けられたくぼみには皿に乗った蝋燭が置かれていて明るく、その分踊り場を曲がった先の廊下が暗々としていた。すっかり慣れた場所だけにはためらいもしないでそこを行く。 ここまでの間、今度はだれもすれちがわなかった――その代わり。 きちんと閉めたはずの襖がちょうど人ひとりが余裕で通れるほどの幅に開かれていた。雨戸が閉じているから光源はの背後にしかないのが常であり、しかし部屋からうすぼんやりとした明かりが漏れている。 中にいるのは確実に花房ではなかった。彼女が臥処の支度をするときは部屋の明かりを点けてからだ。何度かその場面に遭遇しているからまちがいではなく、また、そういう順番は決められているらしい。奉公にあがって長い花房がこのようなミスをするだろうか――答えは否だ。女中頭である喜多のすぐ下ではたらいていた彼女だからなおさらありえない。 かたん、となにかを動かす音で直感にさらなる確信が加わる。たとえそこらへんに荷物を放りだしてあろうと花房は許可なくそれらにさわることはなかった。 は短く口笛を吹く。それから歌うようにひと言。 「 つまりは今までさんざん地味ないやがらせをしてくれた犯人の一部が尻尾を見せたということだ。やはりクロエ不在が悔やまれる。それとも彼がいないからこその油断なのか、だとすれば只者ではない気がする。 猫御前か正室の愛姫か、はたまたべつの側室だかだれかが率いていたという赤脛巾組の存在を思いだしたがはたして実在していたのやら。 気配を殺すなどという芸当はできないからなるべく衣ずれと足音を抑えて自室へと近づく。そのまま襖に寄りかかり、腕を組んでポーズを取ってみる。目に見えた退路は断てた。冷静な頭があればもう二方にある襖から出るという手も考えられるだろうが、そこは賭けだ。人間は空間がひらけているところから出ようとする習性があるのだとかどこかで読んだ。あわててしまうとドアノブをひねるという単純な動作すらできなくなってしまうのは脳からの命令が簡潔になりすぎてほぼ脊髄反射並みの情報量しかないせいだと思う。 そっと中を覗けば、葛篭などを置いた奥のほうでうずくまる女の影がある。予想していたよりもずいぶんと小さいが、伊達家に奉公しているのはなにも妙齢の女性ばかりとはかぎらないのだ。それこそ生まれてから十を数えたくらいのころから口減らしに奉公に出ていたとしてもふしぎなことではない。 ぶっちゃけは喜多と花房以外の女中なんて正確に把握していないし、顔ですら見たことあるかな程度のおぼろげなものだ。わからなくてもむりはない、と言いわけじみたことを考える。今の今まで覚えないままやってきて、それでいてなんの支障もなかったのだから今後もそう必要ないだろう。覚えるのは最低限で十分。日本語にはこそあど言葉という使い勝手最高な代名詞があるのだから。 しゅるり、となにか――布かひもなどがすべる音に彼女がなにをしているかぴんと来た。 同時に、躊躇いなくひと言を投擲する。 「ねえ」 「ひっ!」 見ていて気の毒に思うほど大げさに肩が震え、引きつった悲鳴が聞こえた。 いきおいよくふりかえった顔は一度は見たようなそれだ。がこの城で寝起きしているのはそう短い時間ではないからどこかしらですれちがっているかもしれない。そもそも向こうはひとりを覚えればいいのだから、スタートラインからして不公平だ。 「ここはわたしの部屋ですけれど、なにをなさっているのですか。それともなにかご用でも」 うそ、彼女の目的は予想済みだ。 その証拠にこちらから見えるその手――明るいところから暗いところを見るのとその逆とでは可視範囲に多大な差がある――には黒塗りの細長いものがにぎられている。 やっぱりか、とは目を細めた。 ついでにどこで見たのかも思いだした。先ほど膳をさげにきた侍女らの中にまざっていたのだ。 にこやかに訊ねながら背を襖から離し、自然な動作で室内に足を踏み入れる。ふとんはすでに敷かれていた。時代的に不審死と思われそうな一酸化炭素中毒にはなりたくなくて事前に火鉢を断っていたのでそれらしいものは四隅になく、枕とは反対のほうがこんもりふくらんでいるのはおそらく温石だ。さすがは喜多自慢の花房、仕事が早い。しかもあれはたんにふとんをあたためるのが目的であり、のために温石は後々持ってきてくれるのだから頭がさがる一方だ。 「あ、あの、わたす……」 少女はしどろもどろになりながら視線をあちこちさまよわせた。言葉に訛りがあるのが聞いてとれ、おそらく彼女は顔で買われてきたのだろう。暗がりでもわかるほど少女の顔は整っており、こきざみ震えるさまを見せられてはまるでがわるいようではないか。 いくらなんでも女の子をいじめて楽しむような――だからって野郎をいじりたおしてよろこぶ趣味は持っていない。男は泣かせる寸前まで言葉攻めてくやしそうな顔をさせるのが楽しいのだ、あの叛骨精神が見ていて気持ちいい。サドなんだかマゾなんだか鬼畜なんだかよくわからない嗜好は凄絶な高校時代一年目で培われたものだ。閑話休題。 そもそも女の子は泣いただけで勝ちが決まるからずるい。よほどの状況ないし人物でないかぎり泣き顔には罪悪感を覚えてしまう。それも美少女ならさらにポイントが高い。 かわいくないことを自覚しているにすればひがみだとわかっていながらも実に腹が立つ。むしろ泣いただけで保身がはかれると無意識にも思っているのがむかつくのだ。 「あのね」 畳二枚を間に置いては足をとめる。 わずかに後退さる少女を見おろしながら、ああなんかもうめんどうだと思いきった。 「わたし、あまり気ぃ長いほうじゃないから。言いわけしたいなら今しか聞かないよ」 いくら顔がかわいかろうとはっきりしない相手は男女差別なしにいらっときてしまうのだ。体調がわるいせいかいつもよりもさらに沸点がひくい。増しだした頭痛が鼓動とともに頭蓋にひびく。 ああ、頭がいたい。 一定のリズムでうずく頭――頭痛とはどこが痛んでいるのだろう。ここはやはり脳だろうか――に手をやった拍子に荷重移動。ぎし、と足もとの畳が悲鳴をあげた。 「――――いやあ!」 瞬間、緊張の糸が切れたらしく甲高く叫んだ女中ははじかれたように立ちあがると目にも留まらぬ俊敏さで着物のすそをさばいて思いも寄らぬ方向へと駆けだした。彼女は付書院を踏み台に換気のために開けたままになっていた障子から一足飛びで欄干を越え、まるでいつぞやの政宗のように軽々と飛び降りてしまった。 本能的に動くそれを目で追ったは絶句し、すぐさま我にかえる。 「は、ちょ、てめえ待たんかい!」 自慢の俊足を駆使して文机に飛び乗り、欄干に手をついてもはや何者かわからないような言葉を吐いた。 気をつけているせいでこちらに来てからは口にしていないはずだが元来は口がわるい。それはもう従兄の影響で口汚いにもほどがある。とくにひどかったのは中坊のときで、なにかにつけては死ねだのうざいだの考えなしに音にしていた。今ではさすがにモラル的なものを考えているのだが、思いだしてみると己のことながら恥ずかしいものがある。閑話休題。 「ああ、もう最低!」 迷ったのはひと刹那にも満たないほどだ。いっそ考えてすらなかったかもしれない。とにかく身体が勝手に動いて、気がつく間もないような間隔で女中のあとを追って窓から飛び出した。 一段目の屋根に足をつけたところで言いようもない感覚に襲われ、同時に素足で雪を踏んだことを知覚する。ぞわりと背中を駆けあがる寒気に腕を抱き、しかし幸いなことに踏まれた雪がくっきりとした足跡を残していた。 |