吐きだしたい罵詈雑言を嚥下し、手をひたいにやったまま政宗をにらみたいだけにらんでため息をついた。我ながらガキっぽいことだと自分にあきれる。政宗が眉をしかめるのもむりはない。なにせ寝巻きの単衣に羽織を肩にかけているだけなのだ。
 ここでむやみに反論しても子どもじみた水かけ論の口げんかに発展するだけで非生産的だ。政宗はあれでいて隠れ熱血漢だからぜったいに乗ってくる、そうすればもう手がつけられないと小十郎が嘆いていた。ちなみには未確認。思えば彼が刀をにぎるのも見たことがない。
 にやにや笑っていた彼は一瞬だけつづきの間、つまりは小十郎に向けて視線を投げると、かん、と煙草盆の灰吹きに煙管をたたきつけた。
OK, honey. 薬湯用意してやるからもう一枚着てこい」
Thanks, darling. ここに来ればいいのね」
「わるいな」
「かまやしないわ」
 鎧通しの箱を持って立ちあがり、襖を閉めきる直前にはふりかえることなくただそう言いのこす。
 政宗は実に自分の立場をよくわきまえている。今いるのは彼の私室ではないからおいそれと貸すわけにはいかないし、たとえ少女漫画よろしく彼が着ている羽織を押しつけられたとしてもこちらはつきかえすだけだ。政宗が風邪でたおれたとあってはそれこそ笑えない。
 もはやすっかりなじんでしまった自室はここよりひとつ上の階層にあり、踏む力加減でぎいぎい鳴るやたらと急な階段をのぼりながら小声でぼやいた。
「てゆーかこないだっからどんだけフラグ立ってんのよ。へし折るのたいへんなのに」
 のぼりきってすぐさま手すりに箱をぶつけて思わず舌打ちする。
 笑えることにここ数ヶ月暮らしていただけでそれとわかる恋愛系の布石がそこかしこにあった。そのどれもこれもが実に自然に配置してあり、すべてと言わずとも大半を踏めば確実に恋愛へと発展するようなものばかりだ。それでいておそらくメインである伊達政宗や片倉小十郎はあれでいて列記とした妻がいる。この世界をセッティングした神さま(仮)は泥沼の昼ドラが見たいのかと勘ぐりたくなるようなむちゃぶりだ。
 しかし、一度それに気づいてしまえば後はどんなナイスショットも池ぽちゃだ。少なくともにかぎればホールインワンはありえない。
「逆転ホームランはあるかもしれないね」
 自室の襖を乱暴に開けてやる。今まで不在だったので明かりとりの大蝋燭に火は点いておらず、真っ暗なそこはいっそ寒々しいばかりだ。おぼろげな月明かりも届かないすみのほうなの闇が凝ってなにかが出てきそうだ。
 足の裏に触れる畳の温度はフローリングとはまたちがった冷たさがあってそう広くない室内なのになぜか早足になった。
 灯りを点ける代わりに襖を開けたままにし、かたわらに箱を置いて唐櫃とはべつにしてある葛籠のふたをはずす。いちばん上に積まれていたものをひざに置き、畳紙たとうがみの包みを解いた。
「あー」
 出てきたのは黒に近い紺地にやわらかな色合いパステルカラーの手鞠を大胆にあしらった打掛だ。たしかこれは猫御前からいただいたもので、あまりにもはなやかなそれは見るにとどめて一度も袖を通していなかった。青いものを好む政宗に遠慮したというのもあるし、なにより自分には似合わないと思ったからだ。また夫婦ふたりから贈られたものをすべて着ないうちに季節が過ぎてしまったというのもある。事実、この打掛は夏秋用だと聞かされた。
 一瞬これでないほうがいいかと迷うが、もう一度たたんでしまってをくりかえしてまでべつのを探すのはめんどうだ。横着にもほどがあるけれど少しでもそう思ってしまえばめんどう以外のなにものでもない。
 びらりと広げた打掛をわきに置き、包むものをなくした畳紙をやぶかないよう気をつけながら葛籠にふたする。
「まあ満塁サヨナラにはしてやらないけど」
 どうせだれか――ここにいるとしたら黒脛巾組の何某に聞かれたとしても意味がわからないのをいいことにははっきりと口に出して宣言する。そんな王道を通してたまるものか。もちろん死球も自殺点も却下。唯一許せるとしたゼロ角度シュートあるいはゴールキーパーが蹴ったらはいった的なファンタシスタくらいだろうか。ただはサッカーにはくわしくないからそれらがどれだけ奇跡的ミラクルなことなのかはいまいちわかっていない。要はそれくらいのインパクトがないと恋愛フラグは直立しないということだ。
 一度羽織を脱ぎ、打掛に袖を通した上からふたたび肩にかける。たった一枚増えただけなのに体感温度はだいぶ変わり、またそれだけ冷えていたのだと改めて思い知った。
 部屋から出ると外が風のうなる低い音が聞こえ、雪がはいりこまぬよう閉じられた雨戸をがたがたと揺らした。は夜目が利くほうだから視界には困っていないが、羽織も打掛も暗い色をしているのでそこから延びる手や単衣の白さがぼんやりと浮かんでいるのが音とあいまって気味のわるいものに見える。
「幽霊の、正体見たり、枯尾花。なんてね」
 自分が幽霊に見えたのでは正体もなにもないけれど。
 適当なことをぼやきながらは階段を降りていく。途中ですれちがい、こちらに対して頭を下げた侍女たちは今夜城内に寝泊りする人びとのためにそれぞれ臥処を調えにいくのだろう。部屋があたたまるように火鉢を置き、必要ならば温石を仕込んでおく。かなりの肉体労働ではあるが家臣に意中の人がいるのであれば楽しいのかもしれない。
 しかし、おそらくいちばん人気である政宗の臥処は小十郎あるいは喜多が、のは花房が調えることになっている。ちなみに小十郎は自分でやるらしい。もそれくらい自分で済ませてしまいたいが、それでは仕事がなくなってしまうと花房自身に嘆かれたので身のまわりのことはたいてい彼女に任せている。
 なんとなくふわふわするなあと思ったのは政宗の待つ部屋の前に来たときだ。
 痛みや発熱などの具合のわるさは程度を問わず自覚をしてしまったが最後であり、それからは頼んでもいないのに自己主張をはじめる。それは連続であったり断続的であったり、とにかくついついそちらに気を向けてしまうのが要因なのだろう。生き物は不快感に敏感だ。しかしその不快感を気にすることでさらに不快になるとはなんたる悪循環か。
 そのうち空せきも出てくるだろうとうんざりしながら襖越しに声をかける。
「政宗さま。です」
Come.
 失礼いたします、と音をたてずに襖を鴨居にすべらせる。本来ならば正座した上で入室を乞うのだが人目につく昼間ではないので略式で済ませた。
 思えば、が彼のことを伊達さまと呼ばなくなって久しい。一度くだけた調子で話しているときに小十郎が顔を出し、それをちがう人と勘ちがいしたがとってつけたように政宗さまと呼んだのが境界となっている。数ヶ月をここで過ごしていながら今さら呼称を名字で統一するのも妙な話で、とくになんの摩擦もなくその呼び方へ移行した。そのうち小十郎も名のほうで呼ぶようになるだろう。軍にはときどき片倉の名字を認識していない兵もいるらしいから。
 政宗は部屋を出る前と変わらぬような位置であぐらをかき、片手で和綴じの本を開いている。そんな彼のかたわらには先ほどまでなかった湯のみがふたつ置かれていた。
 十中八九薬湯だと当たりをつけて、はそう離れていないところに足をくずして座る。座高がそろうのはおたがいなんとなく気分がよくない。
「着てきたよ」
That's a dear. じゃあそれ飲んどけ」
 こちらを見ないまま端的に言われ、はとりわけ差異の見られない湯のみに目を向ける。
「……どっちを」
Huhn?」
 不可解そうに政宗が本から顔をあげ、しかしこちらを見た途端ぱちくりと常には細められがちな片目を大きくまたたかせた。なにかしらの言葉を探しているのがありありとわかる。
「あー、それ着たのか」
「なに。まずかった?」
「いいや、じゅうぶん似合うキュートだぜ」
「それはどうも。で、どっち飲めばいいの」
「こいつだ」
 直接手渡されたのは、どちらかといえば政宗寄りにあったほうだ。触れてみるとまだあたたかく、果たしてどのようなものなのかと興味本位に中を見て、絶句した。
「えっと、これ薬湯なの。障子糊かなにかじゃなくて」
「当たり前だ。いいから飲め」
 そう言われても、とはいま一度中身を見てしまう。
 湯のみには半透明のどろっとしたものが半分ほどはいっており、そのゲル状のものは大きさがまちまちな気泡と微小のかすをふくんでいる。見た目からしてなんとも気色わるいそれは本当に人間が飲食していいものなのかとうたがってしまう。

「はい」
「飲め」
「……はい」
 再三うながされ、心を決めたは口もとまで持ちあげた湯のみをかたむける。完全な液体でないために口腔にはいるまでにタイムラグがあるのが逆にわずらわしく、それが舌先に触れて味を知覚した瞬間湯のみを口から離した。やけに飲みこみにくいそれをだ液といっしょに嚥下する。
「あま、い?」
「ああ。葛湯だからな」
「くずゆ」
 言われた名称を反復し、湯のみと見くらべながら脳内でさらに反芻する。
「わたし、葛湯はじめて」
「そいつはよかった」
「でも、なんかぴりぴりする。ほかにもなにか入れたの」
That's right. 生姜すって入れてみた」
 なるほど、とうなずく。
 生姜湯なら何度か飲ませられたことがある。炭酸の抜けた甘いだけのあたたかいジンジャエールと思えば飲めないこともなかったが、小さいころはあの生姜独特の味が苦手でそれだけでも風邪など引くものかと思っていた。しかしこれならとろりとしているせいで味はそこそこごまかされている、が状態的には飲みやすいとは言えない。
「それ飲んだら冷えないようにして寝ろだとよ。こじらせたらうるせえぞ、仁斎のじじいは」
「うわあ」
 仁斎は伊達家に仕えている医者で、城につめていないときは城下の町医者をしている老人だ。
 彼は先々代のときより伊達家に用いられており、しかし政宗が疱瘡をわずらった際に十分な処置ができなかったとして自ら城を辞したらしい。その潔さをますます気に入った輝宗公は仁斎を処罰せず、中には置かずとも病にかかればたびたび彼を呼びよせた。その縁が政宗の代になってもつづいているのだ。なにより政宗は仁斎が気に病んでいることそのものであり、そのような人に頼みにされたら応えるのが人情だ。
 しかし負い目があったとしても彼は医者としての誇りを持っており、不摂生をしてばかりの者に対してはまさしく鬼でしかない。
 かくいうもこの時代の人間からすれば少なすぎる食事量を心配されて仁斎の厄介になっている。しかもその一度の診察で偏頭痛、冷え性、睡眠障害などがけろっと暴れてしまい、こってり一時間以上しぼられた。
 東洋医学というのは触診だけで患者の病状が知れるのだからおどろきだ。心音や肺の呼吸音を聴いたりレントゲンを撮ったりするわけでもなしに内部の状態がわかるのは西洋医学が根をおろした世で暮らしていたからすればまるで魔法だ。ツボや鍼術、お灸などもそうだ。触れることで病気やけがの苦痛をやわらげる――手当ての語源はここにあるのかもしれない。