上杉の忍、軒猿のきざる衆といえば歴史小説でも頻繁に登場する忍集団だ。軒猿とは上杉謙信を中心に呼ばれ、忍術秘伝書『萬川集海』によると中国の神話伝説上の皇帝である黄帝軒轅けんえんに由来する。その構成は文献によって異なるが主に七人ほどの集団からなっていたとされ、しかしそんな少人数で十分な諜報活動ができるはずもないから各国で商売をする正忍や芸能集団の一部もまた忍として使われていたのだろう。
 対としてあつかわれる武田方では透破すっぱと呼ばれ、屈指の忍遣いである武田信玄が登用したのは信濃の伊那忍や甲賀の山中忍だ。山中忍は上忍が織田信長に鞍替えしたために甲斐を去り、しかし武田忍として働こうと心に決めて里を抜けた忍もいないではない。そのうちの何人かは真田家へ流れ、今の真田忍隊の礎をなした。くわしくは知らないが、まさかの猿飛佐助が真田忍隊の長だというのならばおそらく前任である壺谷又五郎がそれにあたる。彼は真田幸村の父、昌幸がその働きに惚れて信玄に恩賞としてゆずり受けたのだという。もしかすると池波正太郎の創作かもしれないが、とりあえずの知識にはそう蓄えられている。
 軒猿と透破でこれほど情報の差があるかといえば、越後の忍についての資料はひどく少ないからだ。元来忍とは卑しい職であり、たいていの武家ではまず人間としてあつかわれない。もっと顕著なところで犬畜生よりも下に置かれる。現在語られている忍――風魔小太郎や服部半蔵、真田十勇士の数名などは本人の功もさることながら登用した武将が忍に重きを置いていたことで名が残っているのだと言っても過言ではない。
「上杉……越後の龍か。あ、ここでは軍神だったかな」
 軽くにぎった拳をあごにあて、考えるポーズをつくる。
 どうであれ、上杉が伊達に忍を放っているとわかった時点で十分な収穫だ。でもそれは伊達家にとってのことであり、当然ながらは自分にも役立つ利益を求める。ひいては伊達家のためにもなるのだから欲張ったところで罰は当たるまい。
 表向きにはそう言いわけして、は小さく舌を出した。
 今はクロエのおかげでだいぶ緩和されているがひまであることに変わりはない。要すれば、多少の危険には目をつぶってでも刺激がほしいのだ。下手をすれば信用問題にも発展しそうだが、それを自覚していながら無視を決めたのはいつもの自分ではなかったから。
 好奇心は猫をも殺し、退屈は人を殺す。言いえて妙なことだ。
「まず行動。それが人生の基本ルール……なんてね」
 自分で言っておいてばかばかしくなり、は嘆息した。それから、妙なつぶやきに眉根をよせたクロエを横目かつ上目気味に見やる。
「そのねずみ、『わたし』として逃がして。最善の警戒で、伊達忍に知られないように……いや、やっぱりここに連れてきて。うん、そのほうがつなぎやすいよね」
「……いいのか、そんなことをして」
「わたし、ここの家臣じゃないからだれの顔を見てもわからないし、言いわけはいくらでも立つ。する気ないけど」
「独眼竜はそれほど甘くないと見えるが」
「知ってる。でも、これで斬られるのならその程度ってこと」
「見極めるにしては気ちがいじみているな」
「心外ね。状況をうまく介しているでしょう」
「釣り野伏か」
「そんな立派なものじゃないけど、それじゃあよろしく。死なれたら本も子もないわ」
「承知」
 転瞬、クロエはうすい暗がりににじみ消えた。忍にありがちなばばっとしたエフェクトを集わないところが逆に彼らしいというか、実にシンプルでいいと思う。そもそも忍が派手でいてどうする。忍んで行動するから忍というのに、あからさまに戦場を駆けていたらただの戦人であって戦忍びではない。
「てか、クロエは戦忍びじゃないだろうなあ」
 仮に戦忍びだとしても間諜の任が主だろう。とてもでないが、脇差をふるう腕には見えない。それとも似合わないからふるうのか。
 とりあえず現時点ではその思考をあとまわす。せっかくの思考と会話の種をおざなりで消化するにはもったいなさすぎる。
 さて、とは肩を鳴らした。
 手負いで忍んでいるということは重傷である可能性が高い。すぐさま逃げなかったのはプライドが高いのか、状況がわるかったのか。おそらくは後者。そうなると大なり小なり出血していると見ていい。
 葛篭つづらから手ぬぐいを何枚か取りだし、水注子の中身を確認する。けがの具合がわからないから少々心もとないが、まさか桶にくんでくるわけにもいかない。こんな真夜中――にすれば宵の口にそのようなことをすれば怪しんでくださいと諸手をあげるようなものだ。
 すーっと廊下に面した襖戸がすべる。
「只今」
「ごくろうさま。ついでにその辺転がしちゃっ、て……」
 ふり向きざまに言いながら、は目を見張った。
「おんなぁ?」
 クロエの肩にまるで俵かなにかのように担がれていたのは予想を大きく裏切ったものだった。
 金髪だとか露出度高めの全身タイツだとかはひとまずわきに寄せた上で目を引いたのはくの字に曲げられてなお主張してやまない胸部のふくらみだ。同性としてはうらやましいよりも哀れみすら抱いてしまう――胸が大きいと肩が凝って仕方がない。巨乳には巨乳なりの悩みがある――それを、なかばパニック状態だったとはいえ凝視していたことにはっとなっては視線を泳がせる。
「あー……けが、どこ」
「背だ」
「じゃあここにお腹乗せて、そう、うつ伏せにして。うん、ありがとう」
 掛け布を幅広に巻き、背中を上にして寝かす。胸がつぶれて肺が圧迫され、呼吸困難に陥ることがあるからだ。
 申告の通り、右の肩から左の腰まで対角線が一本赤黒く引かれている。そもそも忍び装束がこれほどうすいのもどうなのかという基本的な疑問を持ちつつも傷には触れないように気を配りながら診ていく。相応な出血はあったらしく、自分でぬぐったのかけがを負っていない部分にもうっすらと血がこびりついている。傷口はきれいに切れていた。幸いにも深い刀傷ではなく、だがこのまま傷をむき出しては破傷風になってしまうだろう。
「ねえ、どうして正体なくしてるの」
「やかましかったから黙らせた」
「ああそう」
 詰問したわけではないけれど予想通りにしれっと答えられ、油薬のはいった小さな壺を受けとりながらはため息を洩らす。気がまわるんだか、デリカシーがないんだか。
 手ぬぐいを濡らし、さて拭おうとしても傷は布で覆われた部分にまでおよんでいる。布を巻くにしても一度脱がさねばどうにもならないが、全身タイツなんて着方もわからなければ脱がせ方さえ未知の領域だ。
 どうしたものかと考え、ふと顔をあげたらクロエと目が合った。
「見たいの?」
「興味ないね」
 なんのリアクションもなしに一言吐きすて、今度は跳びあがって彼は身を隠した。
 いかにも忍らしい行動に意味もなく感動を覚え、クロエが消えたあたりの天井を見あげていたが気を取りなおして女の背中に向きなおる。
「えーと、ごめんなさい」
 礼儀的に頭をさげ、女の着物に手をかける。触れた感触はナイロンのそれで、まさかの化学繊維には眉をしかめた。なんでもありか、ちくしょうめ。意味のない悪態を声には出さすに吐くも作業の手は止めない。つるりとした伸縮性のある布――スパッツのようなそれを傷の周囲だけつまんでさっと手ぬぐいで血を拭きとる。
 この程度の切り傷はB級映画を見飽きたにしてみればまだ許容範囲だ。クロエがなにも言わなかったということは命にかかわるようなものではないし、大雑把に考えれば部位と規模がちがうだけで指の腹を切ったのと同じ。血だって怖がるものではない。女であるならなおさらだ。よくある漫画の病弱美少女は血を見ただけでくらりときているが毎月一週間は倒れっぱなしなのか。単に鉄分がたりてないだけだろうに。
 粗方清めおわったところで女がうめき声を発して身をよじらせた。慎重を期していたつもりだが手ぬぐいがこすれたらしい。血も完全には止まっていなかったのか乾きはじめていた傷口にじわりと赤がにじみはじめている。
 呼吸ができるようにと横向かせておいた女の顔はからも見える。細いまつげが震え、ゆっくりとまぶたが持ちあげられた。
「ここは……」
「米沢、伊達政宗の居城です」
 応えを期待していなかったであろう女は一瞬息をつめ、勢いよく首をめぐらせるも傷に障ったのか苦悶の表情を浮かべてふたたび突っ伏す。それでも手は腰に帯びた平形苦無をにぎろうとしているのはさすがだ。
 そんなプロ意識に感心するやらあきれるやら。しかしは表面ではそれをちらりと見ただけで済まし、むき出しの背中に走る傷に油薬を塗りたくる。目立った傷はこれくらいであとはほとんどかすり傷だ。背中の傷は武士の恥だというけれど、忍の場合は生きていれば勲章にでも値するのだろうか。
 ひやりとした感触に身を固まらせた女には気がつかなかったことにして、は気軽に声をかける。痛みは気をそらしてやればあまり気にならなくなるものだ。
「こんばんは、といいます。縁あってこの城の世話になっている者です」
「だから、なんだというんだ」
「短く申しあげるならば、現状況下において敵ではありません」
「なにを……」
「脱いでください」
「は?」
 用意しておいた手ぬぐいをびりびりと細長くじぐざぐに裂きながら事務的に言えば女がぽかんとしたのが視界のはしに映った。しかしはそのようなリアクションなど気にも留めずに包帯を間に合わせていく。粗方裂きおわったところで改めて女を見おろした。
「薬を塗っただけでは傷が膿みます。布を巻くのでさっさと服を脱いでください」
 ひくりと女の口もとが引きつった、いや、くやしそうにゆがめられた。