濡れたままの髪をそのまま放置し、は頭を欄干にあずけて雨の音を聞いていた。髪から滴る水分のせいで肩が冷え、その感覚はたしかに脳へと伝わるがのぼせ気味の頭にはちょうどいい刺激になるだろう。ときおり風向きが変わるたびに雨が当たって、その一瞬すら心地いいのだから重症だ。 初夏――こちらの暦では秋とはいえ、ここは奥州。今は夜。さらには地球温暖化など悠久のかなたである世界だ。寒暖の差は日夜の比ではなく、興味本位で聞けば陸奥の山には年中積雪しているという。 ぱらぱらとまた二、三滴が頬ではじけ、それを拍子に小さくくしゃみが出た。頭をどかして鼻の下をこすると手も顔もとても冷えていることにおどろき、それもそうかと苦笑する。 ふと、唐突に雨が止んだ。 雲が流れたのとは異なる止み方に首をかしげ、はおもむろに首をのけぞらせればいつの間にやら人影がひとつ。 「風邪をひく」 雨にまざって降った声は、若い。骨の多い 「風邪をひく」 変わらぬ調子でくりかえされ、は渋々身を引っこめた。へたにねばって実力行使に出られたらたまらない。というか、つまらないことを賭けてふたりで騒いでもむなしいだけだ。 が室内にもどったことを確認するや否や傘持ちはすぱんと障子を閉じた。自身は当然外に身を置いたまま。つづいて建てつけのわるい雨戸が動かされる。 封鎖された闇の中で燭台の灯りがぼうと揺れた。 指を差しいれた髪は思っていたよりも水分をふくんでおり、このままおろしたので畳に染みができること確実だ。 片手の頭にやった状態を保ちつつ、ひざ這いになって小さな葛篭から手ぬぐいを引っ張りだすと頭に巻いてぎゅっとしぼる。何度かくりかえし、前方にたらした髪を布ではさんでぱんぱんとはたいた。がしゃがしゃ拭くよりも水が飛ばないし、なにより髪が傷まない。 髪の水分をほとんど引き受けた手ぬぐいはそれなりに濡れている。はそれを適当な大きさにたたむと向かい側に置かれている文机に放った。べしゃ、と水っぽい音がするも気にしない。 くしゅ、とかわいげのないくしゃみがもう一回。洟をすすりつつ、ふとんの上に放りだしておいた羽織に袖を通し、ついでに枕もとに置いてある腕時計の文字盤を灯りにかざした。 「十時すぎ、じゃなあ」 腕時計を放り投げてキャッチ、ひざをたたんだ状態でばたんと背中からふとんにたおれる。 「寝れない。うん、むり」 いかんせん早すぎる。夜更かしどころか昼夜逆転の生活にも耐久性のある現代っ子の身体に早寝早起きはかえって毒だ。政宗や小十郎ら筆頭家臣団がどうかは知らないが、月が天頂からしりぞくころにはほとんどが就寝していると見ていい。起きているのは門兵や宿直人、それから伊達忍くらいだろう。 来たばかりのころのように政宗や成実が日中連れまわしてくれたなら自ずと睡魔も訪れたものの、奥州での暮らしにめっきり慣れたこのころは室内に留まって話をするくらいだ。疲れようがない。そして追い討ちをかけるかのように、長雨。 農民にしてみればこの時期の長雨は天の恵みだ。田畑が肥えるのはだれにとっても好ましいことらしく、とくに小十郎は持ち前の強面をわかりにくく崩していた。それとは反対に不機嫌を押し殺しているのが政宗。どうやら雨ばかりで視察――という名目のお忍び歩きもままならず、ちょうどいいとばかりに執務が次から次へとうずたかく積みあげられているのだとか。 がそのことを聞いたのは先日の授業のときだ。政宗が提示した要求のひとつであるこれは不定期に、それも政宗の気分と小十郎の許可が重なったときにだけ行われている。ただしそれは正規なものであり、大半が食事や雑談の合間にはさまれることのほうが多い。そもそも一般人が勢力総大将と飲食を共にしているあたりからして変なのだが。 「……監視の意味もあるのか、な」 勢いをつけて身体を起こした。しめった髪を撫でつけながらは無意味にうなり、またもや背面ダイブ。ふとんのうすさにはもう慣れていても衝撃は倍、想定していたよりも強いそれに打った部分が痛くなる。こういうときばかりはなかなか学習しない頭がうらめしい。 ――すっ、ひた。 ――すっ、ひた。 部屋の前を通り去る足音には反射的に息をつめた。 あの擦るような歩き方は伊東可直という、戦国版暴走族と名高い伊達軍にして誠実派にくくられる青年のものだ。彼には以前夜更かしがばれ、次に顔をあわせたとき遠まわしに釘をさされたのでどうにも身体が反応してしまう。いくつになってもしかられるのはいやなものだ。 なぜ、たいした心得のないがハイクラスの武人である彼らの足音を聞きわけられるようになったかといえば、単に部屋に閉じこもっているからだ。誘われでもしなければぴたりと襖を閉じ、自主的に虫籠のカブトムシを演じている。いや、脱走を企てないだけカブトムシよりおとなしいかもしれない。いやいや、そういうことはどうでもよくて。 「思ったよりチェックきびしいんだもん。知ってたけど」 起きて、食べて、話して、寝る。大まかに表してそれくらいのことしかはこちらに来てからしていない。太りそうなスケジュールだがときどき静かに暴れたりなんだりしているのでお腹まわりに変化はなく、ただゆっくりと衰えている気はする。 それでも、求められる以外は、なにもしない。 そうでもしなければこれほど早く忍の監視をはずされなかったはずだ。 先日こっそり天井の板をはがしてみたところ安定のためか六階の床下との間はおよそ十五センチ。物理的に考えて頭蓋骨をくだかなければ忍べないような厚さだ。だから考えられるのは床下。こちらの厚さはどれくらいあるかはわからないけれど、初日に泊まった部屋の天井の高さと照らし合わせれば目算でも三十センチ前後はある。 もちろんが忍の希薄な気配に気がつけるわけがなく、また命じた政宗たちが事前申告するはずもない。教えてくれたのはまったくの第三者だ。 ブリッジの要領で腹を山なりにして身体を起こし――傍目には奇妙な光景であるが、ひまなのだ。小さいころに習い事として体操のスクールに通い、やめてずいぶんになるけれど柔軟運動は習慣になっているからこれくらい楽勝――響かない程度の拍手を打つ。本当はこんなパフォーマンスも不要。なんと言ってもひまなのだ。 転瞬、かたわらの闇がこごった。 よくよく目を凝らせばそれが人だとわかる。きっぱりとした黒や紺、ましてや迷彩柄などではなく部屋のうす暗闇に合わせたような薄墨色の筒袖の上着をつけ、足首をしぼった筒袴の片ひざを畳につけているので視線の高さがぴたりと合った。髪質なのか、方々へと散った肩口までの髪がかぶさっているのは自分と同じ型のそれ。 「呼んだか」 いわゆるドッペルゲンガーというやつだ。目立った差異は男女の体格差と身長くらい。 「クロエ」 呼んですぐさま来てくれる彼には敬服するが本当にどこから現れるのやら。忍のすることはなんでもありですか、そうですか。は深くは追求しないで自己完結させる。どうせ訊いたところで教えてくれない。 こちらに合わせているのだろう、めんどうくさそうな表情のクロエには苦笑う。 「ばれてもいいんだけど、よくばれないよね。ここの忍だってわるくないんでしょう? ふふ、とんだ拾い者したな」 彼との出会いは劇的だった。運命と言い換えてもいいくらいに双方の第一印象は強烈だ。 なにせクロエはを殺しにきたのだ。 依頼主は伊達家傘下のとある譜代大名で、ちらと耳にした異国語をたやすく口に乗せる鬼女を退治てほしいとのこと。なんでもこれ以上奥州筆頭が異国かぶれて本朝から目をそらすようなことになっては代々の家柄に瑕がついてしまってはお屋形さま――先代の輝宗に顔向けできないなどとクロエが訊いてもいないのにぺらぺら話したそうだ。 それを聞かされたは理不尽に思うどころか変に納得してしまった。殺されかけたことではなく、その大名の考えに、だ。 政宗が求め、また小十郎も了承していたようだからついも当然のように受け取っていたがやはり異国などけしからんと思う人がいないわけではない。さらに言うならば日本はいまだだれの手にも収まってはいない。外よりも内、と考えるのは当たり前だ。 なぜ殺されなかったのかはにはわからない。 クロエもまた、なぜ殺さなかったのかわからないと言った。 だが後のふたりはかく語る。 「まさか『あんたのために生きていた』と言われたらどん引きはしても拒否できないよ、なかなか」 「そこで『あなたのためにここにいた』などと言われて退けるか、ふつう。多少はたじろいだがな」 だれにもわからない流れに沿ってふたりは契った。を主としてクロエは従う。本来ならばどちらでも良かったそれは双方がすでにある立場によって固定された。片方は奥六郡総領伊達政宗の客人であり、もう一方はさる里の忍だ。 そう言えばクロエは抜け忍というあつかいではないらしい。なんでも彼が属していた里は己の目で一生の主を見定め、その人物が死しても原則としてふたり目は持たないそうだ。本来的には『二君に仕えず』という観念のないこの時代にしては奇妙ともいえる。 「まあ、禍を転じて福となす、ってね」 かすかに笑みながらが言えば、クロエはなにを今さらとでも言いたげに左目をすがめた。それから口もとを覆っていた黒布をわずかにさげる。昼間の彼にはない、夜限定のオプションが正直は好きではない。自分と同じ顔なのだからなおさら。理由は実にシンプル、似たようなスタイルをしている隻眼の某上忍が生理的にだめなだけ。かといってそれをストレートに告げるつもりはさらさらない。自分の都合を相手に押しつけるのはルール違反だ。 パフォーマンス的に口もとに手を添え、だけが聞こえるよう彼は低くつぶやいた。 「ねずみが一匹」 「どこに」 「城内。手負いだ」 「なに、死にかけ?」 「放っておけば確実に」 「ここの動きは」 「ない」 は肩をすくめた。忍び働きの優劣が判断つけられないからだ。知ったかぶりができるほど戦力状況に関してはなじんでいない、むしろ意図的に隔離されている。 「どこ」 「上杉」 「うわお」 間髪を入れない報告には微妙な表情になった。 |