「ああもううるせえ」 じっと畳をにらんでいた彼はがしゃがしゃと髪をかき乱すと前ふりもなくを片手で抱きあげ、付書院を踏んで欄干に足をかけた。 は全身の血の気がざあっと引いたのを自覚した。はじめての体験だがなかなか気持ちわるい、と冷静に考えているのと同居して政宗がなにをしようとしているのかが即座に弾きだされてさらに青くなる。 「ちょっと待てここ五かっ」 「口開けてっと舌噛むぜ!」 制止もむなしく、政宗は欄干を踏み台にして外へと躍りでた。もちろんそのまま落下するという離れ技は見せず、下になるに連れて大きく迫りでている瓦屋根の上に着地してはとんとん飛び降りていく。 たしかに一階ずつ降りていくなら恐怖も半減だが一瞬でも足場が見えなくなり、かつ常に持ちあげられた状態ではプラスマイナスゼロだ。いくら高所恐怖症でなくてもこれはだめ。 反射的に政宗の首にかじりついたまま悲鳴をあげる間もなく地表へと到達、平静を取りもどしたときにはどこをどう通ったのかは厩舎にいた。 藁ぶきで板張りの簡素な柵の中には数頭の馬が収まっている。奥州の馬は歴史小説でもたびたび賞賛される名馬だというが、なるほど、たしかに彼らの目は黒々としていてこちらの考えていることが悟られているような気がした。馬は頭の良い生き物だ。騎士の感情をそのまま読みとり、従順にもなれば反抗もする。 中でももっとも堂々とし、風格のある一頭がいた。鼻先がうっすらと褐色を帯び、たてがみと尾が褐色であることをのぞけば全身がほぼ黒一色に染まっている。雰囲気的におそらく雄。厩舎も彼だけのために一棟建てられ、広々としているせいか猿木につながれていても快適そうだ。 抱えられたまま引き寄せられるように黒馬を見つめていると政宗が口笛を吹いた。 「いい目してんじゃねえか」 政宗はそばの大岩にをおろし、自身は素足のまま馬に近づいて彼の頬に手を寄せる。 「こいつは針立、おれの 「はりたて」 それは狂言の一、雷のこと。雷が雲を踏みはずして下界に落ち、旅の医者に治療を受けた礼として晴雨の順調、五穀の豊穣を寿ぐというもの。 猿楽の笑いを洗練したとされる能狂言の成立は鎌倉・室町期に主要な芸能となった。流派が現れるのは江戸初期だが、織田信長が死の際に能『敦盛』を舞ったとされる一説が有名であることからもこのころにはすでにメジャーになっているはず。 うっかり針立と目が合ってしまい、そらすにそらせないまま――目をそらしたほうが負けだ。なんとなく――じっとしていると会話すらできそうな気になってくるからふしぎだ。飽きもしないでそのままいると厩舎の奥のほうから若い声が飛んできた。そういえば政宗のすがたがないが、どうやらそちらのほうにいるようだ。 「殿! また抜けだしてきたんですか」 「かてぇこと言ってんじゃねえよ籐太」 「見逃したって小十郎さまに怒られるのはおれなんですよう」 「いいから草鞋二足と手ぬぐい持ってこい」 「うう、わかりました」 土がこすれる音が遠のいていく。 はぱちくりと一度まばたいて、もう一度針立を見やった。 「ずいぶん いつものことだ。 「片倉さまが怒るのもむりないと思う」 あの方々はそれぞれああいう性分なのさ。 「……もしかして話通じてる?」 どうだろうな。 針立は勢いよく頭を振るう。そしてなぜか足をたたんでしまうとまつ毛がびっしりとしたまぶたをおろしてしまった。 そんな彼の対応にはむっつりと黙りこんだ。なんだろう、きらわれている様子ではないし好印象だが妙に腹立たしい。 「、come here ……と、やっぱ動くな。おれが行く」 タイミングよく政宗の声がかかる。べつに裸足のまま地面を歩くことに抵抗はまったくないのだが場所のせいか生理的に一瞬ためらってしまう。不清潔がどうこうではなく要は気持ちの問題だ。針立にはわるいがここは政宗の気づかいに甘えさせてもらうことにしては浮かせた腰をふたたび押しつける。 厩舎の影のほうから現れた政宗は少年をひとり連れていた。焼けて茶色くなったばさばさの髪をむりやりひとつにくくり、袖のない着物は丈が短くてひざがむきだしになっている、健康そうな浅黒い肌をした少年は小柄で、おそらくよりも拳ひとつは小さい。 「わあ」 少年はを見ると目をまるくさせ、上から下まで――というにはずいぶんと局所的だった気もするが最後は顔に視線を戻し、そばに立つ政宗を見あげた。 「別嬪ですね、殿!」 「Of course. 」 なにが、というつっこみは努めて呑みこんだ。ここにいるのが政宗単体ならば情け容赦なくつっこんでもよかったのだがギャラリーがいるのではそうもいかない。なにより、政宗を尊敬しているであろう少年の心根をくじくのは忍びない。 「と申します」 「あ、おれ籐太っていいます。ここで厩舎人させてもらってます!」 「はあ」 「それにしてもさま、女の人なのに大きいですねえ」 籐太は興味津々といった様子でを見てくる。 その純真な目には若干たじろいだ。見られるのもきらいだがああいう目はもっと苦手だ。うたがいを持った視線なら真っ向からにらみかえしてやれし、興味本位でも同じだ。けれど籐太のようにきらきらした目で見られるとどうしていいものやら判断がつかなくなる。 「言われてみればそうだな」 なりゆきを見守っていた政宗は厩舎の柱に手をついて足の裏をそれぞれ拭うと籐太が持ってきた草鞋の緒を指のまたに引っかけた。 「おい籐太、にも草鞋渡しな」 「はーい」 間延びした返事をし――いくらなんでも軽すぎやしないだろうか――籐太は政宗の横を抜けてこちらに来ると片手にぶらさげていた草鞋の紐を解いてすぐ足元にならべる。 そこへ足をおろし、しかしは履き方がわからない。腰をかがめたまましばらく固まっていると見かねた籐太がひとつひとつ説明をしながら緒を結んでくれた。 「Hurry up! 小十郎にばれる」 いつの間に用意したのか腰に大小の刀を差し、腕を組んだ政宗はあごをそらす。 は立ちあがると籐太に礼を言って政宗に駆け寄った。慣れない藁がすれて痛いががまんできないほどではない。 よほど見つかって説教されるのがいやなのだろう、政宗は問答無用での手をつかむと引きずるように歩きだす。 「殿ぉ、みやげは蔓屋のだんごがいいです!」 「は、言ってろ!」 「じゃあさまあ、みやげー!」 片手を曲げて口もとに添え、もう一方を頭上で左右にふる籐太には手をふりかえす。 無邪気なのはけっこうだが一体籐太はいくつなのか。予想はできるのだが言動と釣り合わなくて変な感じだ。 |