ばたばたばたっと廊下を乱暴に駆ける音がしても猫御前も自然と目をそちらへやる。 ほどなくしてがらりと襖が開けられ、そこには首を伸ばすようにした成実がいた。一瞬だけ視線をさまよわせ、すぐさま人差指をつきつける。 「あー! こんなところにいた!」 こんなところでわるかったな、これはの心情。ただ猫御前を目の前にしているので口に出すのはとどめる。 代わりに言葉をかえしたのは猫御前だ。立てていたひざをくずして横座りになり、羽織物の袖口を口もとにあてる仕草とともに片眉をはねさせた。その動作はやはり政宗そっくりで、細やかな動きのひとつひとつに年季が入っていることを見ている者に感じさせる。 「まあ、なんと騒々しいこと……藤五殿、いま少しお静かになさい」 「うっげ、なんだよ、そんななりして梵かと思ったら愛姫さまか」 「藤五殿」 一言の断りもなく部屋の畳を踏んでくる成実にくるりと上半身をひねった猫御前は政宗では想像もできないような笑みでにっこりし、 「あ」 デジャ・ビュ、ふたたび。 「てめえは毎度毎度うるせえんだよ、いいかげん学習しやがれ」 気がついたときには以前の宴の際、のひざの上で行われた仕置きが目の前でもう一度発生していた。 白魚のような細い手指はぎりぎりと凶悪なまでに成実の頭部を圧迫している。その握力は痛みにもだえて畳をたたくという行動が如実に表していた――あの様子では六爪はむりでもふつうに二刀流くらいしてのけそうだ。猫御前が戦場に立つかどうかは知らないけれど。 「いだだだだだ! ちょ、ま、猫ちゃん……」 「Say what? I cannot understand!」 「うっわ、なにそれ! 猫ちゃんいつの間に覚えたの!」 「ばか者。あたしは我が殿の影武者なんだからこれくらいできて当たり前」 「ずりぃ、梵おれには教えてくれないくせにぃいだあああ!」 がり、といやな音。見なくてもわかる、肉に食いこんだ爪を重力のまま掻きおろしたのだ。わるくて肉が露出、良くてもみみず腫れは免れないだろう。思わずご愁傷さまと手をあわせたくなった。 ところで、とは熟れすぎた柘榴になりかけている成実の頭から得意そうな表情の猫御前にそろりと目をうつす。 今のところ露見した彼女の口調は合わせてみっつ。いちは政宗、これについての検証は済んだ。つぎに愛姫――なるほど、一応は彼も正室がいるらしい。今まで見かけたことがなかったのはおそらく並々ならぬ事情があるように思えるから現時点では保留する。最後に現れたのはだれでもない、それが本来の猫御前なのだろう。きついような、けれど相手をそれとなくなだめる手合いから察するに猫御前が政宗よりも歳が上というのは本当のようだ――ここでは。 ああ見えて実は既婚者六年目か、とが思ったかどうかは定かでない。 ひいひいと痛みを訴えながら患部を両手で押さえる成実の頭に猫御前がさらに手を乗せる。あのままぐるぐると頭部ごと撫でまわされたらさすがの彼でも三半規管がひとたまりもないと思う。 若干楽しそうにしている彼女に水を差すのも気が引けたが、これ以上はどう見ても収集がつかなくなりそうな状況にはタイミングを見計らって口を開きかけ、しかし板敷を蹴るような独特の足音に背後をふりかえる。 「成実ぇえええ!」 すぱあん! と襖を破壊しそうな勢いに乗り、飛びこみざまに名指した彼を蹴倒したのは正真正銘本家本元の政宗だ。助走がつきすぎたのか襖と成実の首で痛々しい音がした。 動物としての習性で動くものを目で追ってしまったは首だけで襖を見やれば、ばっきりと骨が折れていた。瞬間的な握力でああなのだ、彼とは今後ぜったいに腕ずもうはしないと的はずれたことをかたく決め、もはや手に負えなくなった惨状へと目を戻す。こういうときにかぎって小十郎も可直も来てくれない。 「てめえなあ、成実、このおれをさしおいてちょくちょくんところ行ってんじゃねえ。なんでおれがてめえの分まで仕事してんだ、ふつう逆だろうが。小十郎も小十郎でおれに仕事させといて自分は畑の水やりに行きやがって、いつの間に組んだんだか阿近も調子づいて仕事を探しちゃ持ってきやがる。ひっくるめりゃてめえのせいだ……て、おいこら、聞いてんのか」 「我が殿。藤五殿は正気をなくしておられるご様子にございまする」 「あ? なんだ、猫もここにいたのか」 今気がついたと言わんばかりのそれに猫御前は優雅に笑んでうなずいてみせる。 蹴り飛ばした上にひと通り文句を言って気がすんだのだろう、たしかにぴくりともしない成実を転がしたまま政宗はその場にあぐらをかいた。それから疲れの濃い視線をに向け、手のひらを上に向けて指を何度か折ったり曲げたりする。こっちに来いということだ。 ちなみに日本の手招きは海外ではあっちへ行けと追い払う動作。コミュニケーションの第一であるボディランゲージにまでお国柄があってはメリットが一気にデメリットだ。意味がないどころかよけいに性質がわるい。 大した距離でもなかったのではうまくひざを使ってふたりににじり寄り、わずかに首をかたむける。 「なにか」 瞬間、政宗の表情が妙なものになった。虚をつかれたような、失念していたことを思い出したような感じだ。なにを忘れていたかは考えるまでもないだろう、彼の近辺ではほぼ公認になっていたから。 自分の失態を恥じているらしい彼の態度に免じて――そこまでえらそうなことを言える立場ではないが、はため息を飲みこんだ。 巧妙なまでにひねた政宗の好意はたしかにうれしいものであるしできるかぎり応えたいけれど、自分の夫とどこの馬の骨とも知れない女が仲良さそうに話していても気にしない奥方がいるわけがない。それにとって猫御前の人柄は気に入るに足るものだったので、どうあっても失礼をはたらきたくないのは彼女のほうだ。男女差別と言うなかれ、にすれば高校生活で培われたただのフェミニスト精神だ。 「猫」 「心得まいておりまする」 「Good. おまえも混ざるか」 「よしなに」 「OK!」 夫婦間でなんらかの取り決めがあったらしい。機嫌よくひざをたたいた政宗はにいと口もとに弧を引いた。 「そういうことだ。You see?」 「All right. 」 ここでなにがなどと聞きかえすのは空気が読めないにもほどがある。そもそもに拒否権はないのだからわざわざ了解を取る必要はない。だと言うのにそれをするのは、なるほど彼は人の使いどころをわきまえている。もちろん政宗にそのつもりが大きくないのはも心得ていることだ。それは相手もまたしかり、奇妙な堂々めぐりだ。 「ところで、なにか用でも? 成実のことはとくに関与していないからほか当たって」 「あいつはあとで小十郎に説教させる。おまえ表出ろ」 「ごめんなさい。けんかは買わない主義だから」 「そうじゃねえ。、おれに直談判したくせに一度も城から出てねえとはどういう了見だ」 「出るも出ないもわたしの勝手。城内でだって楽しみはあるもの、過ぎたるはなおおよばざるがごとしって言うでしょう」 もちろん使いどころをまちがっていることをはきちんとわかっている。けれど表現とすればこれが最適だろう。人間は贅沢に慣れるのはかんたんだから、外出禁止を言い渡されてもひまにならないように居場所をつくっておくに越したことはない。それが転じて在留理由になれば望むところだがさすがにそこまでは想定できない。根を張りすぎても身動きが取れなくなるだけだ。 「Ha! なんだあ、てめえの言う楽しみは算盤係の仕事に口出したり籐太にいろいろ教えたり手習いさらったりなんだりすることかよ」 「ええ、十分にね。それに、そのほうが阿近さまも気を張らないで済むでしょう」 「守られる側が守り役気づかってんじゃねえ。阿近に用があるならクロエでも連れてきゃいいだろうが」 「町中で同じ顔が寄りそってたら気味わるいし目立つじゃない」 「てめえ……おれと猫にけんか売ってんのか。Do you want to enjoy a party?」 「No thanks. だれがするかそんな無謀」 「ふふ、おふたりは真に仲がよろしゅうござりまするな」 純粋に感心した様子でつぶやかれたそれに政宗とはぴたりと口をつぐむ。瞬間的にどこがと言いかけ、しかし実際のところ仲はいいので否定もできず、ばつがわるくなったところで視線をそらしたら今度こそがっちり目が合った。思わず同時にうすく苦笑をこぼす。 その一連を微笑ましげに見ていた猫御前はにこりと艶やかに笑う。 「。殿は拗ねておいでなのです」 「猫!」 「拗ねるってそんな、べつに好きで成実の相手をしているわけじゃないのに」 「、てめえも黙れ」 「おおかた、お気に入りを取られた気分なのでしょう。先ほどのが良い証でござりしょう」 わたくしのことなど眼中にないご様子で、と。 事実を告げる以外の他意はないのだとわかる物言いだけに政宗の目は完全に泳いでいた。なんというか、彼らの力関係が瞬時に見てとれる。言いわけしようにも襖は枠組みが折れて使いものにならなくなっているし、成実はすぐそこで脳震盪を起こして失神中だ――命に別状はないだろう。腐っても武の伊達成美だし。 今まで以上にやわらかく笑んだ猫御前の表情はどこかいたずらめいていたけれど、従兄がときどき浮かべるそれによく似ていて、 「本当、殿方はいつまでたってもガキにござりまする」 ゆらり、気まぐれに揺れる長い尾が見えた気がした。 |