りりりりり、りりりりり。
 黒電話のベルに成り代わった、ある意味電話特有の電子音がリビングに鳴った。思えばここのところずっと鳴りをひそめていた気がする。たしかにそうひんぱんに電話がかかってくることはないが、それでも勧誘関係のもないというのは少し奇妙だ。
 正直に言うとわざわざ出るのが億劫だ。友だちならケータイのほうにメールが来るだろうし、連絡網だとすればそれは保護者の在宅時間の関係で夕方にまわることが多い。こんな夜もふけたころにかかってくるのは八割がた勧誘と見ていいだろう。
 しかし、とはすぐ横を見おろした。
 甲高く音がひびく中で子どもは猫のようになって眠っている。やわらかなクッションに顔をうずめ、白いソファに小さな身体をあずけ、あたたかなタオルケットにくるまって。
 せっかく気持ちよさそうに眠っているのだから起こしてしまってはかわいそう。そう思って、は子どもの頭をひと撫でするとひざ上のレタスクラブを落として立ちあがる。去年の末くらいに買ったのを捨てるのを忘れており、なんとなく手にとって流し読んでいた。ちょうど開いていたページは今の時期だとかなり気の早い煮こみ料理の特集。少し値が張ったとしても牛タンのシチューなんて食べさせてみたかった。けれど、さすがに夏にビーフシチューはくどいから断念して、代わりというつもりはなかったが笹かまを食卓にならべてみたらいたく気に入ったようだ。
 キャビネットの上に置いた電話の親機に近づいてコードレスの受話器を取りあげればあれだけうるさかったベルがやんだ。スピーカーを耳に当てて応答。
「もしもし」
 持ちあげた右腕がひどく痛んだのでぎゅっと眉をしかめ、一度肩とあごではさんで左手に持ちかえる。
 いったん痛みだすと右腕に心臓がもうひとつできたかのようにしばらくの間ずくずくして、治まる様子のないそれにはこまり果てている。ぶつけた覚えもなければあざもできておらず、かといって病院に行くほどのものにも思えないので痛くなったらいつも冷やす程度の手当てだ。湿布は独特の刺激臭を子どもがいやがるだろうから貼りたくない。塗り薬も以下同様、経口薬はなにを飲んだら効くのかわからないので手つかずだ。
 スピーカーは沈黙している――電話線の向こうからはたくさんの人の声。それらが噛みあわさってたがいにたがいを食いつぶしながらひとつにならない不協和音をなしている。  それはテレビの砂嵐にも似た母胎の中。
 原初の海。
 はじまりのうた。
『――――――“”?』
 ぶつり。
 唐突に断たれた通話におどろいて受話器を耳から遠ざける。ツー、ツー……と無感動に鳴くそれをひとにらみし、受話器を受け皿に戻した。
 無遠慮に呼ばれたのは自分の名前だ。しかし、その声の主に心当たりはない。両親だったらちゃんと本名で呼んでくれるし、友人だとすればケータイのほうにかけてくる。第一さっきのは男の声だった。自宅の電話番号を知っているとしたら中学以前の関係者だが(だって高校では意図的に連絡網をつくっていない)、あんなに低い声をした知り合いが果たしていただろうか。
 だいぶ伸びた髪を左手でかきあげながらソファに戻れば、今度はケータイが振動しはじめた。
 子どもが不用意におどろかないようにとここのところサイレントモードにしてあった設定をいじった覚えはないが、そのおかげで気がつけたのだから良しとする。当然ながら機嫌の上昇には直結しないが。
「あーもう!」
 手を伸ばしてケータイをすくいあげ、キッチンスペースのほうへと逆戻りする。
「今度はだれだ」
 ぱちん、とサイドのボタンを押してフリップを開けば即時通話状態に移行。その代わりディスプレイの表示を見る間もなく、こちらから声をかけるより早くスピーカーから声が漏れた。
『おれだ』
「……どちらさまで?」
『それは新手のボケか? そうならやめておけ、スベるだけだ』
「ご親切にどーも」
 一応の確認にだめだしされ、はため息を吐くとともに冷蔵庫に寄りかかった。冷気が漏れているわけでもないのにひんやりしているのはリビングで利かせている冷房のせいだろうか。温暖化をそこそこ気にした三〇度設定だがそれなりに涼はとれる。屋外の暑さは異常だ。
「声聞くの、なんだかひさびさな気がする。変なの」
『そうでもない。おまえとは一ヶ月近く……おまえが祭りだ泊まりだって出かけてから会ってないからな』
「やだな、冗談よしてよ。だって、先週だっけ、テーブルに足ぶつけて痛がってるところ見たよ、わたし」
 そう、たしかに従兄とはここのところすれちがった生活を送っているがまったく接触がないわけではない。めっきり顔を合わせなくなったのは子どもが来てからのはずだ。子どもが家にいた日の朝、はいつものように従兄の朝食を用意してから登校したのだからまちがいない。
 それらも合わせて指摘してやれば、電波でつながった場所のいる従兄は無意味な声をあげた。
『あー……そうか。そうだった』
「ん。なーんか歯切れわるいなあ」
『いや、気にするな。それで用件だが』
「ああ、なに。なんかあった」
『あのな』
「うん」
『寝すぎるとばかになると思わないか』
「……は?」
 あまりの突拍子のなさにストラップをいじっていた指の動きが止まる。の脳が情報を正しく理解するよりもやや早く従兄はうながしてもいない先をつづけた。
『深い意味はないんだが、ただずっと寝ているのはただの現実逃避なんじゃないかと思って』
「それ、たぶんのび太に喧嘩売ってるよ。あとイーグルにもね。漫画版だけど」
『のび太は土壇場で天才だから問題ない。イーグルは病気だってジェオが言ってなかったか』
「そう、だっけ。もう覚えてないよ」
 そもそも、前者はまだしも後者のネタに余裕でついてくる従兄が底知れない。だって少女漫画を好んで読む時代くらいあった。しかしそれはまだ両親と暮らしていたころ、それも小学校低学年あたりだった気がする。話題に出したせいかなんとなく読みたくなってきた。駅前のブックオフには六冊合わせてそろっているだろうか。そういえばオールキャラ登場をもくろんでいるっぽいツバサにマジックナイトたちはまだ出てこない。
「でも、たしかにのび太はあれだね、いつだったか映画で夢と現実入れちがえてたし」
『おまえが言うな』
「なんでよ」
『なんでも、だ。さて、おれの用は済んだ。切るぞ』
「あ。待って、待って」
 電話でのマナーを守ってさっさと通話を切断しようとする従兄を止め、は浅めの深呼吸をする。矛盾した表現ではあるが、加減としてはそのようなところだろう。
「……ねえ従兄さん。わたし、従兄さんのことなんて呼んでたっけ」
 呼ぼうと思って、けれどどうしても出てこなかった。本人に直接訊くのは失礼だし、なんだかくやしいから、ただのTOT現象だと思って無視していた。でも、これだけ会話をしていて相手の名前が思い出せないのはおかしいどころの話ではない。なにせ、相手は友人ではなく家族なのだ。血のつながりだけではなく、この三年間はずっといっしょに暮らしてきた。家族の生年を忘れることはあっても、名前を忘れるなんてありえない。
「どうしよう、わたし、従兄さんの名前……」
 頭を重たいもので殴られたような衝撃。従兄を裏切った気がして泣きたくなった。
 また、同時にそれを冷静に見ている目があることを知覚していやになる。なかばパニックに陥っていながら、とっさであっても出てこない名前。
 今まで気にも留めなかったくせに。
『あー、うん。あんま深く考えないでも、そのうち思い出すさ』
「なに、それ」
『どうせ今日で終わりだ。つながったからな』
「それってどういう……!」
 自分の名前を従妹に忘れられているのに、いつもの従兄の変わらない口調にいら立つ。
 なぜかを知っている、、、、、、、、、のに教えてくれない彼はいつもそうだ。数学の答えも、何気ない言葉の意味も。まずが試行錯誤してみて、それからでないとぜったいに教えてくれなかった――裏を返せば、答えはそばにあることに気がついたのはごく最近のこと。
 短い沈黙。
 しかし、それを破り、またどちらかが口を開こうとするのを邪魔するかのようにリビングで物音がした。ビーズをつないで緻密な模様を描いたのれんを片手であげて覗きみれば、眠っていたはずの子どもがソファの上にうずくまっている。こちらからはうすい背中しか見えないが、タオルケットはカーペットにすべり落ちていた。先ほどのはあれが落ちた音だろうか。
『どうした』
 遠のいた従兄の声に、もう一度ケータイを耳にあてがう。なんだか気抜けしてしまった。
「ううん、なんでもない」
『そうか。あまり遅くなるなよ』
「は、なに言ってんの。それ、わたしのセリフなんだけど」
『……わかった。じゃあまたな』
 今度こそ通話が切られ、スピーカーからはツーツーとそっけない音だけが発せられている。ディスプレイを見れば三○分は軽く超過していた。とくになにも思わず、クリアボタンを連打して待受画面に戻し、フリップをたたむ。
 ごまかされたのに気がついたのはその直後だ。
「あー……ちくしょうめ」
 悪態をついてケータイをジャージの尻ポケットにねじこむ。
 むしゃくしゃする気を治めようと、冷蔵庫から身体を離して上部のくぼみに指先を引っかけた。一瞬の反発力を感じ、しかしすぐさま戸は手前に開き、はっきりとした冷気を正面から浴びてぞわっとする。
 戸の内側を見ればストッカーにべこべこひし形にへこんだ模様のある缶が複数ならんでいる。それもレモン、グレープフルーツ、ライム、シークヮーサーと柑橘類ばかり。当然ながら従兄のものだ。喫茶店なんてやっているくせにあの人は高価いアルコールよりも安い発泡酒や梅酒のほうが好みらしい。ワインは料理用として飲用のが戸棚に隠れているのをは知っている。
 罪悪感がひと刹那過ぎるが、一本くらい目をつむってもらおう。今さらだし。飲まずにやってられるか、とはたぶんこんな状況を言うのだろう。
「かえらぬのか」
「ひぁっ」
 無意識に叫びかけた悲鳴を噛みくだく。若干失敗したがそこは持ちあげていた缶を落とした音に隠れた。
ごとん、と床とぶつかって転がっていく缶をついつい見送ってしまう。幸いにもフローリングに傷はなく、落としてしまったことで飲む言いわけができたから結果オーライ。
 冷蔵庫の戸を閉め、壁に遮られて止まった缶をつかもうとかがみこめば、のれんの下に細い足が見えた。ちょうどひざあたりまでをのれんが隠しているせいでいわゆる幽霊の逆バージョン状態だ。脚だけ見えているというのもなかなかシュール。
「皆がそのほうをさがしておる。少なからぬ者がそのほうを待ち望んでおる」
 缶を取ったのはいいけれど開けるのは少々ためらってしまう。発泡酒、つまり炭酸。コーラの缶をふって鯨の潮吹きよろしく顔にかかるのはもはやお約束であってもそれは見るのが楽しいのであって、結果がわかっていることを果敢にチャレンジしていくのは愚の骨頂だ。なにより掃除がめんどうだ。フローリングに染みたらアルコールくさくなるし、また風呂にはいらなくてはならない。少し置いておけば鎮静化するだろうか。
「そのほうはもはや天網に編まれし地のりゅうぞ。竜脈なくして独眼なる竜は天を得ることを能わず、沼の底にわだかまりて天を怨むばかりなり」
 天網に編まれたというのはあれか、今までは白紙の者だったとでもいうのだろうか。そういえば彼の名前は天座の頭領のそれと同じだ。地の龍といえばやはり世紀末漫画のあれだ。それならば彼は天の龍サイド。なるほど、たしかに天は得られないだろうな。ストーリーのオチは作者以外知らないけれど。
 缶をもてあそびながらは思考を飛ばしていく。無視していることにとくべつ罪悪感はない。これ、、にそういった感情はないはずだ。だってこれ、、はそういうものではないとたしかに知っている。
 とつぜん、ブレーカーでも落ちたかのような唐突さでもってリビングの照明が落ちた。しかしキッチンは最初から明かりを点けておらず、カーテンを閉めていたせいで外からの光源もないために真っ暗だ。それなのにそれの脚だけがぼうっと白く浮かんでいる。
「なぜ、かえりきぬ」
 無機質なように聞こえるそれ、、はどこかさびしそうで、今にも泣きだしそうに思えた。





Died on Saturday,