個人的にはそこまで薄情な人間ではないと思いたい。実際に見たことがないから予想でしかないけれど少なからず取り乱しはするはずだ。現に、駅でとなりに立っていた女性がふらっと飛びこみ自殺したのをうっかりばっちり目撃してしまったという従兄も普段からは考えられないほどパニックを起こして数日ほど寝こんだのだから。 ざくざくと雪を踏む感触を楽しんでいる余裕もなく小さな足跡を逆にたどる。 針葉樹林が主であるせいか視界に変わらず良好。両手がふさがっているせいで肩に積もった雪が掃えず、そのせいで肩が痛い。寒いのは肩こりの敵だ。雪が降ると空気が乾燥するから唇がひりひりしてきた。 「If the night is dark and cold, I will warm you with my kiss. Let me hold you in my arms again, and vow to stay with me through the snow. 」 ずっと黙っているのもさみしくなってきて、あまりメジャーではない歌を口ずさむ。 ユニットは有名だけれどソロでの活動はあまり注目されていないソングライターの作品。それでも聞けばこの人だとわかる音づくりは尊敬に値する。使われているアニメやドラマには興味がなくてもBGMが聞きたくて三○四五円もするサウンドトラックを買うこともしばしばだ。 歌いながらほかに空でまるごと歌える曲を考える。途中で切れたりして延々リピートするのはなんだか気持ちがわるい。けれども思いつくのはなぜか雪関連、それも二メロあたりからあやしいのばかりだ。日本語という気分でもないのだが英語曲はストックがあまりない。洋楽はあまりまじめに聞いていないから歌詞をちゃんと覚えていないのが大半だ。 「We are wandering hand in hand up. And over hills of snow, we'll keep on walking through winter. 」 歌い終えたところで立ち止まった。正しくはそうせざるを得なかった。なにせ頼みの綱である足跡がかろうじてくぼんでいるような状態になっていて、似たようなそれがそこかしこにある。どうにも判断がしづらい。 「Goddam! あーもう、ついてない」 思いきり悪態をついた。年ごろの女の子がこんな汚い言葉を吐いて、もしここに従兄がいれば有無も言わせてもらえずに説教コースだろうけれどいないから知ったことではない。 いらだちを晴らそうにもその辺の木を蹴りつけたら即席雪だるまになる。それはさすがにまぬけだし巻き添えを食う少年がかわいそうだ。 せめてものの慰みにブーツの踵を足元に落とせば砂場よりも軽い音と抵抗で埋まった。埋まる感覚が意外と楽しくて何度かくりかえすうちに少年の体勢がくずれてしまった。このままでは落としてしまう。腕もしびれてきたのでうまいこと抱えなおすと少年がもぞもぞと身をよじらせた。 少年が起きてくれるといろいろ助かることも多いが問題もまたしかり。 なにより子どものあつかい方がわからない。自分の年齢よりも下の人間が考えることなんて想像もつかないし、自分は例外という前提があるせいで参考にもならない。逆に年上相手のコミュニケーションは得意だ。親友や同級生以外の遊び相手といえばほとんどが従兄の友人知人だからそれこそ仕方ない。 「 あきらめたときにでもつぶやいておけ、と使いどころにこまるアドバイスをくれたのはELTのアメリカ人教師だ。なんでも学生時代は関西のほうに留学していたらしくて授業以外での会話はかなり達者な関西弁だった。授業はきびしいのにそれ以外は大阪のおばちゃんを彷彿とさせるテンションの高さに一同そろってしらけたものだ。 少年は本格的に起きだしているようで、間延びしたうめき声をあげた後ようやく顔をあげた。どこかぼんやりとした様子なのは寝起き特有のそれで、ついでに言えば顔の右一帯に乱暴に裂かれた布がこれまた乱暴に巻きつけてあった。 ふらふらしていた少年の目が定まり、次の瞬間には音をたてそうな勢いで目が合った。 「あー、と。おはようございます」 語尾にクエスチョンマークをつける感じに言えば、少年は目を見開いた直後に眉をしかめ、とつぜんばたばたと暴れだした。 「ちょ、待っ、落ちるっ」 「さわるな! はなせ!」 「わー! 待って、待って。今降ろしたら足凍傷になるからっ」 自分の発言のずれ具合もいつものことながら、いくら子どもだからと本気で暴れられては支えていられない。そういのも少年の暴れ方は人慣れしていない猫のそれと一緒で、もしコートにくるまっていなければ確実に引っかかれていた。 「はなせ! どうせおまえも梵天がみにくいと思っておるのだろう!」 あまりにも予想外な言葉に頭が瞬間冷却された。機嫌が急降下しているのが自分でもわかって、なかば本気で少年を放り投げてやろうかとすら思った。子ども相手におとなげないとはわかっているが、ここまで沸点が下がるのも子ども相手のときだけだ。 だいたい、醜いもなにも少年の顔は布で覆われているからどのような状態なのか想像もつかない。B級のスプラッタ映画は見飽きているから多少のことではおどろかない自信があるが――うるさい。 「あーもう、いいから黙って運ばれて。きゃんきゃんわめくな」 「んなっ」 少年は面食らった様子で数瞬ほど口を開けっぴろげにし、すぐさま顔を真っ赤にさせた。 「無礼者! 梵天を犬あつかいするな!」 「してない、してない」 それでもって口がわるいと本当にろくなことがない。従兄ゆずりの口と足癖のわるさはもう耳にたこができそうなほど言われつづけてきた。これでも直す努力はしているのだ、一応は。 「とりあえず降りるのは却下。この体勢がいやならおんぶね」 「梵天は放せと言っている! ひとりで歩けるっ」 「却下。逃げられたらこまる」 送っていこうとしているのに逃げられたら本末転倒だ。どことなく悪人のようなことを言った気がするけれど、こうでもしなければ水かけ論のままは進展しないだろう。 もはや少年の意見を聞くのもめんどうになってきた。一度しゃがんで少年を背中にまわし、組体操の要領で背負いあげる。 「わわっ」 いきなり変わった高さにおどろいたのか、あわてた感じで少年の両腕が首にまわされた。若干絞まっている気がする。細い腕を軽くたたいてみればすんなりと力がゆるくなった。案外すなおらしい。 「きみ、どっちから来たかわかる? 送ってあげたいんだけど道がわからなくて」 はだけたコートを二人羽織のようにしながら訊ねる。 おんぶだと必然的に足が冷えてしまうから気休めに何度かさすってやると少年は器用に両足をコートの中に引っこめた。 「……どうせ梵天が帰っても母上はおよろこびにならぬ。母上は竺丸がおればそれでよいのだ」 背中に頬をぺたんとつけて少年は不鮮明につぶやいた。 先ほどの抵抗がうそのようなおとなしさに眉をしかめる。いくらなんでもあきらめがよすぎる気がしたのだ。言っていることもだいぶダウン系、内容を察するに児童虐待に近いかもしれない。さすがにうまいフォローが見つからなかった。 セオリーで行くならここで抱きしめてやさしい言葉のひとつふたつと愛を示してやればなんらかのフラグが立つのだろう。しかし、これほど警戒心が強くてひとり閉じこもっている少年が会って一時間たらずの、有意識では数分しか経っていないの女からの言葉が届くとは思えない。もし届いたとしたらそれは本当に愛に飢えているだけだ。下手なことを言ってしがらみにされてはどうにもならない。 なにかを言う代わりにもう一度背負いなおす。 今までたどってきた足跡は基本的にまっすぐだったからこのまま直進していればいずれどこかに出るだろう。少年の様子からしておおかた泣きながら歩いてきたのだと思う。こんな雪降る夜更けに家出とは、本当に子どもの考えはさっぱりだ。 立ち止まっていても埒が明かないのでまっすぐ歩きだす。 その間も少年はぼそぼそ言っていて、耳ざわりなそれにため息をつきかけた。取りつくろうのすらめんどうだ。 「はい、Shut up. うだうだしみったれたこと言わない。わざわざ自分を卑下してまで哀れんでもらいたくないでしょう。ばかばかしい」 「きさま、二度も梵天をぐろうするか!」 「だからしてないってば。ほらね、事情も知らないのにあまり立ち入ったこと言いたくないし、きみも言われたくないでしょう。だから思ってもそういうことは黙っておくの。本当は思わないのがいちばんだけど。きみが自分は醜いと否定すれば一生そのままだ。人間ってだれかに言われてはいそうですかって考え変えられるほど頭やわらかくないからね。でもさあ、そうやってずっと否定していたらきみのことを肯定してくれる人に失礼だと思わない?」 話しているうちに背中のところどころがひたひた冷たくなってきた。ときどき肩を力強くつかまれるのは嗚咽をがまんしているからだろう。声をあげて泣くのはロウティーンまでの特権なのに。そう考えたら腹が立ってきてしまったのでむりやり溜飲をさげる。 「きみはまだ子どもなんだよ。わたしだって子ども。生まれがどうとかはあるかもしれないけど、頼れる人はかならずそばにいるものだよ。心配してくれる人だったり、叱ってくれる人だったりね」 だんだん的はずれなことを言っている気がしてきた。どうにも話しているうちに矛先がずれる。ただ雑談ならば会話の端々がきっかけになって延々とつづき、そのせいではじまりを忘れることがよくある。まじめな話でも同じこと。作文を書いて、提出前に読みかえしてみたらはじまりと終わりで趣旨がちがうというのがざらにある。 今は考えついたことをろ過しないまま口に出している。こうなるともはや支離滅裂もいいところで、言いたいことをわかってくれるのは親友と従兄をふくめて片手でたりるほどだ。それでも厄介なことに舌が止まらない。 「泣きたいとき泣いて、笑いたいとき笑って。それでおとなになったときに昔は子どもだったなあって恥ずかしがればいい。それならだれも怒らない」 忘れてしまうのが立ちなおる早道だがこの少年はそれを許さないだろう。危ういようでなかなか気骨がある。褒めるよりもたたいて伸びる性質なのだろう。少なくとも甘ったれではなさそうだ。 「って、子ども相手にえらそうに説教垂れた自分がいちばんうざいなあ」 こんなキャラじゃないのに、と肩をすくめる。 背中にある体温はいつの間にやら重みを増して、聞こえてくる小さな寝息に今度こそ笑うしかなかった。 |