背の高い椅子の間を移動しながらかたくしぼった布巾でカウンターをていねいに拭いて、アレルヤは息をつく。きれいにするのは好きだ。食品をあつかうのだから衛生的でなければいけないし、なにより小さなことでも彼の役に立てるのがうれしい。だって彼はハレルヤの恩人で、今はふたりの恩人なのだから(本当はそれだけじゃないんだけど)。
 うしろではハレルヤが椅子をテーブルの上に引っくりかえして床をモップがけしている。今はモップの柄にバランスよく袖をまくった腕を組んであずけているけれど、なんだかんだ言うまでもなく村にいたときとはくらべるのもばかばかしくなるくらいに片割れは率先してはたらいていた。
「ウォッカ、カカオ・リキュールのブラウン、生クリームをシェイク」
「ショートのルシアン・ベアだね。セルゲイさんたち元気かなあ」
「……どういう思い出し方だ、それ」
「あれ、ちがうの?」
「ちがうわ!」
「もう、すなおじゃないなあ。ペパーミント・リキュールのグリーン、ベイリーズ・アイリッシュ・クリーム、グランマニエをプース」
「すなおもなにも本気で思ってねえっつの。アイリッシュ・フラッグ、ショート。この名前、妙に腹立つのはなんでだろうな」
「そう? ぼくはそうでもないけど」
 ちょっとびっくりしたハレルヤの積極性のおかげで運良く雇ってもらえておよそ二週間。接客や雑用にもようやく慣れてきて、五日くらい前から昼間の準備時間を使ってお店のメインでもあるカクテルのつくり方を教わるようになった。
 人手不足というのは真実うそではなくて、アレルヤとハレルヤがせっせとオーダーの品を運んでいる間、彼はカウンター席に座る常連のお客さんたちのために文字通り腕を振るうことに専念できたようだった。目のまわるような、とまではいかなくともじゅうぶんにいそがしい。これをひとりでさばいていたのかと思えばより一層彼の役に立ちたくて。レシピひとつ覚えるのにも熱がはいるというものだ。
「ホワイト・ラム、フランジェリコ、ブルー・キュラソー、レモンジュースをシェイク」
「ショートのアルディラ。イタリアの言葉で『すべてを越えて』って意味だっけ」
「知るか。そこまで覚えてねえ」
「だって青くてきれいだったし。イエーガーマイスター、オレンジジュースをビルド」
「ロング。イエーガー・オレンジ。薬っぽくて好きじゃねえ」
「ベースがハーブ・リキュールだしね。それならぼくはマカディア・マイスターのほうが好きかな」
「同感」
 さいわいなことにアレルヤもハレルヤも記憶力はいいほうなので彼が見せてくれたレシピだけならばほぼまる暗記しているようなものだが実物はそうもいかない。けれど彼はそんなふたりを気にかけてくれて、カクテルのオーダーがあるとどちらか一方にでも完成形を見せてくれる。ただし「未成年だからだめ」の一点張りで飲ませてくれたことだけはない。つくってもいいけど飲んじゃだめってどうなんだろう。アレルヤにはよくわからない。でも彼が見ていないところで常連さんがこっそり飲ませてくれたりするのでお酒の味を知らないわけではない(でもってそのあたりは彼も黙認しているみたい。おとなって案外適当だ)。
「あー……ウォッカ、ヴァイオレット・リキュール、グレープフルーツジュース、レモンジュースにカンパリをシェイク」
「……スプモーニ、じゃないし。なにそれ。ぼく知らないんだけど」
「スペース・ファンタジー。たしかショート、って……悪ぃ。見たのおまえいないときだ。偶然覚えたから今のなし」
「それはいいけど……ずるいよ、ハレルヤ。じゃあ、クレーム・ド・カカオ、プルネル・ブランディ、クレーム・ド・バイオレット、生クリームをそれぞれ等分でプースして」
「うっわ。なんだてめえそりゃ嫌味か、なに言わせやがる。……ショート、エンジェル・キッス。おまえ本当プース得意だよな」
「だって比重覚えればいいだけじゃない。そう言うきみだって適量とかダッシュとかよくできるよね」
「あんなもん感覚だ、感覚」
 それこそ覚えやがれ、とハレルヤは犬歯を見せるようにけらりと笑った。アレルヤの歯もそこそこ丈夫でとがっている(なにせ半分は狼だ)けれど片割れほどには目立たない。それはたぶん笑い方のちがいもあるのだろう。
 ハレルヤはなんというか意外にも感情をストレートに表出させるほうで、感覚を重視しているのに理路整然とした考え方を好む。反対にアレルヤは感情を重点に置きたいのに理論的道徳的に考えてしまって悪循環に陥るのが常だ。
 そのハレルヤが、アレルヤほどとまでは言わないけれど思い悩んでいるのがおもしろいようで心底意外だった。なんでも言いたいことは包み隠さず表現するのが片割れなのに。相談されたわけでもないのでよけいな首はつっこまないが(だれだってけがはしたくない。精神的にも肉体的にも)思うにたぶんハレルヤは自分が彼をどう思っているのかちゃんとわかっていないのだろう。同一で別個でひとくくりだからこそわかる片割れのこと。そう言えば、とアレルヤは手を止める。五年前、どうしてハレルヤは村を飛び出したんだっけ。
「ドライ・ジン、ドライ・ベルモット、デュポネ、クレーム・ド・バナナをステア」
「テキーラ、ボルス、マラスキーノ、レモンジュース、フロシー、シュエップスをシェイク」
 一瞬の間隙を狙うタイミングでハレルヤがふたたび口を開く。けれどそれはアレルヤにも確率計算的にわかっていたので結果としては同時になった。
「ショート・カクテル――――ストラトス」
「ロング・カクテル――――アレルヤ」
 こたえたのもやはり同時。似声異句。ただこめられた想いは同じものだ。
 数多ある組みあわせ。今後も増えつづけるであろう混合酒。それでもこればかりは瞬時にわかる。同じ名前にびっくりして、教えてくれたことがうれしくて、ぜったいに覚えていようとそれぞれ思ったふたつのカクテル。だからどちらがどちらを問うてもこたえてもけっきょくは同じことだ。
「おーおー、完璧だなあ。おにいさん感心、感心」
 かたん、と音がしてそちらに目をやれば、濃い飴色の扉を押して彼――ロックオンがすがたを見せた。アレルヤが出会ったとき(ハレルヤにすれば再会したとき)と同じようにカッターシャツとベスト、黒いパンツスタイルだ。襟につける蝶ネクタイはゆるく引っかかっている程度。
「ま、熱心なのはけっこうだがいつまでも掃除していなくていいぞ、ふたりとも。それよかちゃっちゃと腹に入れとけ」
 言われてアレルヤは「あ」声をあげる。もうひとつ重なったのはいつものことだ。
 よくよく見なくてもかっちりとした格好の上から深みどりのエプロンをしたバーの主は両手でなにやらトレイを支えていた。載っているのはほかほかとあたたかいのがわかるスープとサンドイッチ。
 あわててばたばたとモップやら布巾やらを片づけて、ふたりがかりで椅子をもどしてテーブルを整えた。
 復習に夢中になって時間がすぎてしまうのはこれで五度目(つまりはじめたときからずっと)だ。ロックオンがチャームや肴の下ごしらえをしている間に掃除をするのはほぼ日課になっていたにもかかわらずのことなのでアレルヤは情けなくなる。どちらもおろそかにしたくないので、そうすると時間ばかりかかってしまってやっぱり申し訳ない。なんだか逆にめいわくをかけているような気さえするのでいろんなものが下降する。これがハレルヤならばそういう失敗をうまく処理できるのに。自分の性質をわかっているからこそ片割れがうらやましくて自分がうらめしい。
 布巾をすすいでもどってくればハレルヤはもうカウンターの椅子に座っていて、目の前のスープ皿をスプーンでつついていた。
 水道を使ったのでまくった袖を直しながらハレルヤの右どなりにならんで座る。利き手がそれぞれ逆なので自然とアレルヤが右でハレルヤが左にいるのが定位置だ(でないと肘がぶつかってしまう)。
 アンティークな時計を見れば十八時半をすこし過ぎたくらいで、このバーの開店が二十時なのをかんがえれば妥当な時間の夕食だ(ちなみに閉店は午前二時くらい。なんというかとっても健全だ)。ポテトとポワロねぎのスープにパストラミ・ポークとチーズとトマトをフランスパンにはさんだサンドイッチ。ロックオンに言わせれば賄いもいいところだと笑うけれどそんなことは全然ない。
 住みこみのパートタイム・ワークということで彼は三食プラスおやつや夜食まで手ずから用意してくれる。住むところを提供してもらい、給料までもらっているにもかかわらずあたたかい食事までなんてことないように与えてくれる彼には頭が下がりっぱなしで、だからこそもっとがんばらなくちゃと思うのだけれどなかなかうまくいかないのが現状だ。
 カウンターの内側にいるロックオンはパンをひと切れつまんでからシェイカーを取り出し、背後の棚から先ほどハレルヤが磨いてアレルヤがラヴェルを見せてならべた酒瓶の首に指を引っかけた。思わず目がそちらにいく。
 シェイカーのボディにウォッカを注いで、キルシュワッサーとグリーンティー・リキュールをそれぞれティースプーン半分ずつ、それとクラッシュアイスを入れて(お客さんがいるときはきちんとメジャーカップで計るけれど今はまだ開店前なのでだいぶアバウトだ)ストレーナーをかぶせて一拍。それからトップをかぶせて左手に持ち、手首のスナップでリズムカルかつスピーディーにシェイクする。およそ十五、六回。最初はゆっくりと、徐々にスピードアップしてゆるやかにダウン、自然な流れで終了する。右手に持ちかえてボディとストレーナーを固定し、底部分に花びらのようなものがあるカクテルグラスにすばやく注がれたのは。
「わ、きれいな色だね」
「だろ。日本生まれのカクテルだよ」
「ふうん。名前は?」
「吉野。この塩漬けのチェリーブロッサムの品種をソメイヨシノって言うんだ」
 カクテルのグラスをカウンターのまんなかに置いて、リキュールの瓶の口を拭きとりながらロックオンがこたえる。リキュールのように糖分の多いものはその都度拭いておかないと糖分でかたまってカクテルに不純物がまざってしまう。こういうことはロックオンもいちいち教えてくれないので見て盗んでいる知識だ。たぶん訊いたら教えてくれるのだろうけれど。
 何気なくハレルヤがグラスに手を伸ばしかけていたのをすんででかすめ取り、ロックオンはそれを流しこんだ。ベースがウォッカということで決してアルコール度数がひくくないカクテルを一気飲み。たぶんアレルヤもハレルヤもできなくはないけれど、きっともったいなくてできない気がする。
 ふてくされた様子でスプーンをくわえるハレルヤの頭をぐしゃぐしゃ撫でまわすロックオンと、拗ねているようで実はわかりにくくよろこんでいる片割れの表情をちらりと見てアレルヤはスープをすくった。





臆病者カクテルパーティー