さて、閉店の一時間前ともなればお客さんもまばらになってくる。もともと一見はあまり来ない、知っている人だけが通う隠れ家みたいなバーなのでのこっているのはほとんど見知った顔だ。 「本当にいい夜ね。お酒もおいしいし」 「それはいつものことでしょう」 「あら。わたしだって毎晩おいしく楽しく飲めるわけじゃないのよ?」 そんな常連さんたちのなかでもこの女性はロックオンがこのバーを手伝っていただけのころからの知り合いなのだそうだ。なんでも株価とか為替レートとかそういうのにかかわる仕事をしているそうで、だいたい日づけが変わったくらいに来店してカウンターのはじっこに座って産地種類年代を問わずにアルコールを摂取して閉店時間をすこし過ぎてから帰っていく。とにかくものすごくお酒を飲む人で、よくあれで仕事にひびかないよなあとロックオンもあきれていた。 「ねえ、ロックオン」 「なんです? ミス」 「今年もワインの出来がいいそうね」 組んで手の甲にあごを乗せてにっこりと微笑んだのにはこたえないで彼が差し出したのは脚の長いグラス。シェイクするところを見ていなかったし、さすがに記憶力のいいアレルヤでも完成したカクテルを見ただけで名前がわかるほど卓越していないのでそれがなにかはわからない。 女性はグラスの縁に指先をすべらせて、半分ほどをひと息に飲み干した。 「アメリカン・ビューティー、ね。なによぉ、怒ったの?」 「まさか。そこまで大人気なくないですって」 「それにしてはずいぶん皮肉が利いている気がするけれど」 「気のせいですよ」 言って、ロックオンはべつのお客さんにほうへと行ってしまう。ちょうど女性とは反対側に座る金髪の人もやはり常連で、あの人はロックオンにわかりやすく好意的なので(それにしてはだいぶ過激でアレルヤですらびっくりしたけれど)来るとハレルヤがぴりぴりする。さいわいなのは金髪さんがひとりで来店するのは稀なことだ。どうやら女性とも顔見知りらしく、あともうひとり男性を増やして三人で飲んでいるのもときどき見かける。 ポーズのように肩をすくめた彼女の相手をしようとアレルヤはカウンターにはいる。ホールのお客さんもだいぶ減ったし、ラストオーダーの時間もすぐだからいそがしくならないという判断。 「ワインがどうかしたんです?」 「ちょっとね……知りたい?」 「差し障りないようなら、ぜひ」 「じゃあバーボンでなにかおねがいするわ」 空になってもどってきたグラスを受け取って水を張ったシンクにひとまず沈め(じゃないと糖分がかたまって悲惨なことに!)、置いたままになっていたウィスキィのキャップをひねる。見目は相対するこちらが恥ずかしくなるほど女性的なプロポーションをしているのに重たいウィスキィをもストレートあるいはオン・ザ・ロックで飲むのはなんと言うか男らしいものがある。 大きめのロックグラスに大きく砕いたロックアイスをたっぷり入れて、そこにバーボンウィスキィとコーラを同じくらい注ぐ。ロックオンのように両手で同時になんていう器用なことはまだできないのでそれぞれゆっくりとだ。コーラの炭酸が抜けないように(そう言えば『炭酸』っていうのは登録商標なんだって)二、三回だけステアするビルド製法。ユニオンのほうでは若い層で一般的だというから、いつだったか向こうの大学に留学していたらしい彼女にはなじみあるものかもしれないとカットレモンを添えながら思った。 「アーリー&コーラ・ハーフロックです」 「ありがとう」 カウンターに置いた無骨なグラスをしっくり持ちあげて、コーラの炭酸もものともしないでぐいーっと飲んでしまう。だからそういう風に飲むものじゃないのに。 「彼がこのあたりの出身でないのは知っている?」 アレルヤはうなずいた。というか、教えてもらわなくても彼の肌を見ればなんとなくわかる。あれはもっと北の、寒いほうの人の特徴だ。ブルネットのアレルヤハレルヤとも、モンゴロイドとコーカソイドの中間みたいな女性ともちがう肌色は温暖気候のこのあたりでは少し目立つ。 「じゃあ弟がいるのは?」 それには首を振る。初耳だ。 「そう。あのね、彼の弟さんがワイン園ではたらいているそうなの。もともとは彼らのお父さまがワインを好まれる方で、そういう伝手らしいわ。今はフランスにいるそうよ」 「そうなんですか」 すなおに相づち。ロックオンはこちらの事情に深くつっこんでこない代わりに自分のこともあまり話さない人だから。思えばどうしてひとりでバーを営んでいたのかも知らない。ギブ・アンド・テイク的な世界共通マナー。反対を言えば言いたくないから訊かないのだろうけれど、それはそれでおたがいさまだ。アレルヤもハレルヤもふつうに言えないことが多すぎる。 「でも、どうしてそれをぼくに教えてくれるんです?」 出しっぱなしだった酒瓶を棚にならべなおしながら首だけふりかえってみる。 お酒がはいったせいで陽気になっておしゃべりになったのかもしれない女性(そんな人ではないことはもう知っている)はかりん、とグラスに氷をぶつけて不敵に笑みを見せた。 「さあ? なぜかしらね。でもこれ以上はないしょ。わたしがロックオンに怒られちゃうもの」 それからすぐにグラスをかえして寄越した彼女はショートもロングもわからないようなペースでかぱかぱとグラスを空けていく。サンライズ、スペース・エイジ・マティーニ、コズミック・レイ、セ・ラ・ヴィ、ディア・アゲイン、シークレット・ラブ、ブラッシング・ウルフ――自意識過剰であってもやはりどきっとするチョイスで(レシピは知っていてもはじめてつくるものばかりだったけれど、そこは彼女のほうが成否を判断してくれた)それはもういっそ気持ちいいくらい、けれど同時に彼女のお財布と胃が心配になるような感じでグラスをかたむける。ベースに使っているものはそれも強いものばかりだ。胃のなかではどのようなちゃんぽんになっているのやら想像すらしたくない。というかロックオンの説明だとカクテルというのはショートならまだしもロングはゆっくり味わうものであって、チャームもつままずにまるで水みたいに飲むものではない。断じて。 「おっそろしい飲みっぷりだな」 「ハレルヤ」 まるいトレイを脇にはさんで片割れがもどっきて、死屍累々とも兵どもが夢の跡とも言いがたい大小種類さまざまなグラスたちの惨状にわかりやすくあきれていた。 「ねえさん、いいかげんにしとけや」 「あら。あなたたちの練習につきあってあげているんじゃない」 「けっ。どーだか。カクテルを胃でカクテルしなおすつもりかよ」 「いじわるね」 先ほど出したばかりのトリニティをオリーブだけのこしてグラスを置き、女性は酔った風に子どもっぽくくちびるをとがらせる。そうしているととてもロックオンより年上には見えない(なんて言うと失礼なので努めずともだまっている)。 「でもなにかご馳走してくれたらもうひとつ教えてあげる。とっておきを、ね」 「はあ?」 ハレルヤは目をすがめた。しかし、すぐさまこちらに向けられたものが「あとで教えろ」と雄弁だったのでとりあえずアレルヤはうなずいておく。アレルヤにはわからない回路で彼女の言うとっておきの話とロックオンをイコールでつないだらしい。その反応速度たるや本能に近しいものがあるという。あいまいなものはきらいなくせに(それはアレルヤも鏡に映したかたちで同じなのだけれど)。人間のだれもがかかえる矛盾、ただ自分たちが半獣で双子だからこそどこかはきとしているだけのこと。 にまにまと笑う見た感じ酔っぱらいの提案に乗っかるのが癪なのだろう、それでもハレルヤはみじかく舌打っただけで淀みなくグラスや酒瓶をそろえていく。ウォッカ、レモンジュース、パイナップルジュース、オレンジジュース、アクセントにビネガーをミキシング・グラスに入れてかるくステア。それからストレーナーをかぶせて氷を入れたロックグラスに注ぐ。最後に月のかたちをしたカッティング・レモンピールを浮かべたそれは、 「南の月」 少しだけ昔――ハレルヤがロックオンに保護されていたときに、今のアレルヤたちよりも子どもだった彼が読んでいたという児童書の書いてあったらしい、ほとんどソフトドリンクのようなささいなレシピで。人間のすがたにもなれるようになってから、セルゲイさんのお酒をこっそり使って飲んでいたうすいオレンジ色のカクテル。その名前自体は最近になってから知ったらしくて(そう言えば図書館でなにか探していたっけ)、別名を幸運とも言うそうだ。 これはハレルヤのとっておき。だってこれを飲んでいるときの片割れはとてもしあわせそうだったから(だからべつに飲んでも止めなかったし、しかられていてもかばわなかった)。 大ぶりのロックアイスがひとつだけはいった、かわいらしいようで豪快なそれの縁を指先のみで支え、女性は一度だけそれをグラスのなかでまわしてから口につけた。今までとはちがう、たぶん正しいカクテルの飲み方。 「――――おいしい」 「どーも。で?」 「もう、せっかちねえ」 うどんのグラタンでも出してくれるのかと思ったのに、と言う女性にハレルヤが憮然とした感じで「ワインから猫も飛びださねえよ」とかえせば、彼女はけらけらと愉快そうに笑ってまたグラスをかたむける。なんのことか、ざんねんながらアレルヤにはわからない。もしかしたらロックオンが読んでいたという児童書の内容なのかもしれないので今度彼本人に聞いてみよう。少なくともキーワードはみっつくらいあったから引っかかるものもあるだろうし。 「ふふ、笑っちゃうようなことなんだけど。彼の弟さんったらワインづくりの風習に則ってなのか女装して、それで女の子たちに混ざってぶどうを踏むんですって。ロックオンの弟だもの、見た目的には問題ないわよねえ。きっとかわいいわ。彼にとっては頭が痛いことでしょうけれど。だから耳だのしっぽだの、そんなささいなこと気にすることないのよ」 かわいい仔犬の話はずいぶん前に聞いているの、と女性はグラスを頬に寄せてぱちんとウィンクして見せた。からん、と氷が鳴る。 アレルヤはびっくりして思わずその場にしゃがみこんだ。見るまでもなくハレルヤもだ。ついでに言えばどちらも反射的に両手を頭にやっていた。それはそうだ。だって耳が―― 「ごちそうさま」 しかし、双子のそんな恐慌行動になどなんら動じていないような声といっしょに白い手が伸びて隠し棚に入れてあった伝票を慣れた様子でさらっていく。そのままかつかつ遠ざかるヒールのかたい音がして、すぐにロックオンと金髪の人を交えた軽口が聞こえた。あれ、おかえりですか。きみが閉店前に帰るなんてめずらしいな。ちょっとね、からかいすぎちゃったみたい。ちょ……今度はなにしたんですか、ミス。失礼な言い方ね、あなたに弟がいるってことくらいの些末よ。なんと! 姫には弟君がいるのか! あーもうあんたうるさい。じゃあまた来るわ。ええ、またどうぞ。 入り口のドアが開いて閉まるベルの音がしてから、ようやくふたりそろって押さえてしまった手をそろそろと離す。びっくりしたけど、とりあえず耳もしっぽも出ていない(瞬間がどうだったかはわからない)。何度かさわって確認してみて、それから思わずハレルヤと顔を見あわせた。 「……びっくりしたあ」 「……何者だあ? あの女」 「さあ……でも、わるい人じゃないよね」 「たぶんな」 もしかしたら彼女は半獣族の知り合いがいるのかもしれない。 たしかに世間は半獣族に対してきびしい。それはふつうの人が半獣族のことをよく知らないでこわがっているせいだけれど、たぶん半獣族のほうだってふつうの人たちのことをうたがったまま近づかないでいるせいもあるとアレルヤは思う。ハレルヤもきっとそう。だってふたりを育ててくれたセルゲイさんもふつうの人の知り合いはいる。それでも風当たりが強いのはやっぱり半獣族がふつうの人に対して少ないからで。 「つーかなにか。おれは好きで女装するような変態と同じにあつかわれたってのか」 「あはは。ドンマイ」 それでも半獣族とふつうの人は、ぼくらとロックオンは仲良くしていけるだろう。 ハレルヤのこわい気持ちはほぼダイレクトな感じでわかるけれど、ぐずぐず足踏みしている彼は正直すなおに気持ちわるかったりするのも本音だ。もっと正直に言うなら、片割れがこれ以上煮えきらないようだったらアレルヤだっていろいろ改めたいことがある。そう思うくらいにはアレルヤもロックオンがふつうに好きだから。
臆病者カクテルパーティー |