健二はサラリーマンの息子である。自身も週三でバイトをしていて都内に居をかまえてはいるがそれでも収入はふつうに中流家庭のそれだ。まずしいわけではなく、かと言って特別裕福なわけではない。大学には奨学金制度を利用して通っている。とにかく健二は数学が他人よりできるだけのふつうの男子学生だ。
 そう、ふつうの。
「――話がちがうんだけど」
 流し台の下にずるずる座りこんで寄りかかりながら健二は耳にあてたケータイのマイクにきびしい声を発する。当然だ。まさか親友に詐欺まがいのことをされたとあったはいくらなんでも黙ってはいらない。
「いったいなにをあずかってほしいって?」
『まあまあ。そう怒るなよ』
「怒ってないよ。いいから説明して」
 音が必要以上に漏れないようにマイクに手をかぶせながら健二はちらりとリビングのほうに首を伸ばした。いつも健二以外の体温がなく物音ひとつしないそこはソファの上でまるくなっている影がある。
「あの子、なに?」
 発端は今日の昼間のことだ。いつものように大学キャンパス内にあるカフェテリアの円テーブルをひとつ占拠して愛用のティータ(※ノートパソコンのことだ)の鍵盤をたたいていた健二のところに他学部に通う佐久間がバイトをもってきた。
 内容は子守り。給料は前払い――というか無記入の小切手が一枚で、バイト期間は未定。
 どこの三流小説だと聞きたくなるくらい耳と目をうたがう誘い文句だがそんな条件でもって健二がその仕事を受けてしまったのにはきちんと理由がある。もちろんお金に目がくらんだわけではない。ひとつは健二にバイトの斡旋をしているのが佐久間だということ。もうひとつは佐久間がその場に子守りの対象を連れてきてしまっていたことだ。
 気がつけば周囲の注目の的と化していたその子どもは小綺麗な顔をしていた。
 浅黒い肌に黒髪黒目とオリエンタルな雰囲気。片目を隠す前髪が印象的なその子はまるみを帯びた輪郭をしているのに目だけは爛々とした鋭くひかっていて、まるで検分するように健二をにらんできた。金ボタンがふたつついた濃灰のジャケットと同色の短いズボンはこの季節には寒そうで、足もとは意外にも編みあげのロングブーツ。開襟シャツは白く、ボウタイは赤い。
 男の健二から見ても将来が楽しみな顔立ちをしていると思う、たぶん男の子。イギリス映画なんかでよくみる皮のトランクが似合いそうな感じなのにそばに置いてあるのは円筒型のばかでかいスポーツバッグだった。
 じゃあおれこれから授業だから、よろしく。書類はあとで送るわ。まだ仕事を受けるともなにも言っていないうちに佐久間は子どもと小切手を置いてカフェテリアを去っていった。ガチで。あんまりにも非常識が過ぎる親友の行動に健二はあんぐりと開いた口がふさがらなかった。
 置いていかれた子どもはひと撫でしていった佐久間に迷惑そうにして、けれどその場に立ち尽くしたまま健二をまっすぐに見ていて。
 幸いにも健二はもう授業を終えていたので仕方なしに自分の荷物とスポーツバッグを担ぐと子どもの手をとって帰宅した。
 健二といっしょに家に来た子どもは脱いだブーツをきちんとそろえ、リビングのソファにおとなしく収まった。ここまで終始無言。たとえば健二はだれかとか、佐久間への文句、そして自分のこともなにひとつ言わないままただ健二に手を引かれていた。
 そのあいだにどこを探せども小さな子(見た目から年齢がわからないけれどたぶん小学生くらい?)が飲むようなやさしい飲み物は見当たらず、仕方なしに冷蔵庫にあった濃度四・四の牛乳をマグカップに注いで、ちょっとだけ考え直して鍋でぬるめにあたためたのを出してやった。
 子どもは低いテーブルに置かれたゆるゆる湯気のぼらせるそれを床につかない足をぶらぶらさせながらじいと見て、ふと健二とマグとで視線を行き来させたかと思えばマグを両手で支えて口をつけ、のんびりのんびり飲んで飲みきった途端ソファに倒れこんで寝息をたてはじめた。
 そこで話はいまに帰る。
「佐久間、はっきり言って」
 なけなしの勘と、眠っているらしい子どもを観察した結果から判断してあの子どもはふつうではない。どこがどうふつうではないから大雑把過ぎて口で言うにはつらいが健二は説明を求める権利がある。佐久間には義務が。
『――わかった。言うからおどろくなよ?』
「内容によるよ」
『そりゃそうだ』
 けけけ、とスピーカーから佐久間の笑い声が聞こえてきて。瞬時にそれが収束する。
『健二、おまえプランツドールって知ってるか?』
「プランツドール? プランツドールって、噂の……え。じゃああの子ってまさか」
『そ。ばか高価いお貴族さまの遊び道具。植物みたいに育つ人形ってわけ』
「……はああ!? な、なんで佐久間がプランツドールなんて……」
『だーかーら。バイトだって言ったじゃん。おれだって頼まれたの。もともと知り合いの持ち物だったらしいんだけど訳あって面倒見れなくなったらしくてさ、そこでおれにまわってきたんだよね』
「だったら佐久間が面倒見ればいいだろ!」
『パス。おまえも見ただろ。あのプランツ、おれにはちっとも懐きゃしねーっての』
「う……」
 たしかにそうだったかもしれない。テレビなどで見るプランツドールは直接の持ち主ではなくても懐く人には懐いて、にっこりと、それはもう花も霞むような笑顔を浮かべていた。
 歌うプランツ、占いをするプランツ、人のように育ったプランツ。さまざまなプランツがいることは健二も知識として知っている。大学でもプランツをもっているという学生が何人かいて(お金の出所はあんまり考えたくない)、いかに素晴らしいものかを語る口はいくつも目にしているけれど。
「あ」
『ん? どーした、健二』
「いや、ちょっと……」
 リビングとキッチンをつなぐ短い廊下に、眠っていたはずの子どもがぽつんと立っていた。少しよれた白いシャツ。太ももの半ばからまっすぐに伸びる細い脚はフローリングを踏んで、先ほどとは異なり眠たげにとろんとした目を手の甲でこすりながら健二を向いている。
 ぺた、と素足が冷えた床に一歩出される。目もとをこすっていた手が下ろされて、前髪の奥でひかる黒曜石に似たそれが迷子のように揺れたのが一瞬だけ見えた。
「……佐久間。この子の名前は?」
『は』
「だから。名前。あるんじゃないの?」
『あ、ああ。〈佳主馬〉っていうらしいぜ。“名人”輩出で有名な陣内家の職人が育てあげた一級品だってさ』
「さんきゅ。じゃ、また明日」
『あ、おい。健二――』
 佐久間の声を無視して通話をぶち切る。人間だろうとプランツドールだろうと子どもがいる前で電話をつづけるのはあまりよろしくない。これは健二の過去経験から言えることだ。話を聞いてほしいときにかぎって母親は電話中で、それがとても悲しかった。
 ケータイのフリップをぱちんと閉じて、健二は子どもと視線を合わせる。
「えっと、佳主馬くん?」
 名前を呼べば、子どもは見える片目をぱちんとまたたかせた。
 子どもは見下ろされるのを嫌う。それはたぶんプランツドールも同じだ。本当はこちらから寄っていって当然なのかもしれない、けれど子どもから受ける印象は警戒している猫に似ている。ならば向こうから来てもらうほうが正解だ。
「ぼくは小磯健二」
 手を伸ばせば届く位置にまで近づいてきていた幼い子どもに健二は手を差し出した。今後面倒を見ていくことができるのかわからないがさびしがっている子どもを見なかったことにできるように健二はできていない。
「よろしく。佳主馬くん」
 そっと子どもに笑いかける。これで縁はできたから。せめてこの家にいるあいだだけでもこの子がさびしくないといい。





愛の挨拶
あなたの憂いでおとなになるの