ざあざあと雨が降っている。健二が上田に来てはじめての雨だ。この家は窓ガラスというものがなくて、けれど雨が降っているからといって雨戸を閉めないので水の音がよく聞こえてくる。土砂降り。東京のようなゲリラ豪雨ではなくて入道雲が連れてきた夕立の延長線上の雨は風向きのおかげで吹きこんでくることもなく、空気が冷えてとても涼しい。クーラーがないのにこれほど過ごしやすいのは風通しと、天然の打ち水効果だと教えてくれたのは意外にも侘助だった(日本は暑いだのなんだの言っていたくせに)。 「昼間はあんなに晴れてたのに……」 涼しいことは結構だが湯あがりには少々肌寒く、寝間着の上に一枚羽織った恰好で健二は借り物のパソコンをいじる。持ち主である佳主馬は入れ替わりに風呂だ。当人にも借用の旨を伝えて、かつ許可も得ているのでそれなりに気兼ねなく使える。 すいすいとパッドに指をすべらせて、特定のところをクリック。ラグなくひらかれるOZへのログインページ。しかし所定の欄にもう打ちこみなれたニックネームとパスは入力せずにページを反転させる。 『贅沢言うな。こっちはクソ暑いっての』 「ははっ」 反転させた入力画面はOZの職員専用フォームだ。アルバイターとは言え健二もまたOZ職員であり、登録されていたアカウントはラブマシーンに食べられた挙句キング・カズマにもろとも砕かれてしまったものだがそれはそれ、管理塔の内側から開けてもらえば堅固な鍵も無意味に等しい。もちろんそのあたりはちゃんと佐久間が上に掛け合ってくれているので無問題だ。健二のアカウント消失の一件についてはOZ側も黙認していることだし、そのあたりは触らぬ神に祟りなしの方針だ。藪をつついて蛇を出したくない。健二としてはしばらくOZへのログインをひかえておきたいところだったが佐久間曰くそれでは滞る業務が多いそうなのでこうしてアカウントを取りなおすに至っている。手早く新規アカウント申請に必要な情報を入力していると、右上のウィンドウで佐久間が首をひねった。 『キングは?』 「佳主馬くんなら、いま風呂行ってる」 『んで、いないあいだにやっちまおうってわけか。なかなかひどいやつだね、健二くんは』 「そういう言い方やめろよ」 姓名、住所、電話番号、メールアドレス等々を入力する手を止めないまま健二は唇をとがらせた。目撃した佐久間はかわいくないと一蹴する。 『んなこと言ったってキングは渋ってたんだろ? おまえがアバター変えんの』 「うん、そんな感じ。でもゲストアバターじゃなにかと不便だしさ」 『そりゃな。しかもその家の電話で取ったやつだし。こっちもどってきたら使えないもんな』 「うん」 個人データのインプット作業を一時中断して、健二はそばに置かれた二台のケータイを見くらべる。塗装がはげてくたびれた感じがすると、似たようなデザインの真新しいもの。どちらも白いそれらは健二のものだ。夕立が降ってくる前、お昼ごはんの冷や麦を食べたすぐ後くらいにバスと電車に揺られて赴いた繁華街で変更してきたばかりで。健二はあまり乗り気でなかったのだがけっきょく佳主馬に押し切られた。アバターを変えるのを渋ったり、反対に強引にケータイを買わせようとしたり。今時の中学生ってわからない。 以前のアカウントはラブマシーンとともに消えてしまったから新規申請はすんなりと済んで、初回ログインページのアドレスが新しいケータイのほうに送られてくる。ぴろりん、と初期設定の着信音が鳴ってフリップを開けるもアバターがいないディスプレイはやはりさびしい。メール本文に記載されたURLをアドレスバーに直接入力してアバター作成ページに飛ぶ。 『にしても。傑作だよな、そのゲストアバター。我ながらいい仕事したわ。おれ天才過ぎ』 「ああそう。非常事態だったから妥協したけど、佐久間にどう見られてるか友情うたがいかけた。正直」 『あ、そういうこと言うか? 親友のピンチに先駆けていろいろ根まわししてやったってのに』 「はいはい。それについては感謝してるって」 『ありがとうございます佐久間さま、て言ってみ』 「ありがとうございます佐久間さま」 『おま、なんだその言い方愛がない!』 「あってどうするんだよ、愛なんてさ」 容赦なく軽口。こうやって佐久間と話しているとどれが本当の自分なのか少しだけわからなくなる。家での会話はちょっと特殊だし、夏希をふくめた陣内の人たちとだとやっぱり余所行き用な感じだし。かと言って佐久間を前にしているときだけが自分だとは思わない。思えない。 『おれは愛してるけどなー、健二くんのこと』 「ぶっ飛ばすよ」 浮かべた窓のひとつで佐久間が科をつくったのを一蹴する。ぶっ飛ばす、なんて。そんな乱暴なセリフ陣内の人たちはとてもじゃないけれど聞かせられない。いくら典型的草食系男子といえども健二とて高校二年の男なのでそれなりに口はわるいしガサツだ。他人さまの家のお邪魔しているからこうして努めておとなしくしているわけで。これが自宅だったり、遊びにいきなれた佐久間の家だったりしたならもっとちがうのだけれど。さすがにそこまで実演できないのでうっかりこの会話を聞かれたらたぶんものすごく意外に思われる。べつに隠しているわけじゃなくて。聞かれるとすごい恥ずかしいので。下手するとやっぱり男の子ねえとほのぼのされそうな気もするけれど。それはそれで恥ずかしい。 『まあふざけるのはおいといてだな』 「そっちがはじめたんだろ……」 『うっさい。いいからちゃっちゃかつくっちまえよ』 「やってるし。見てわかれよ」 中央に表示される二頭身くらいのうす青い素体はそれだけで愛嬌がある。ラブマシーンとのこいこいの場面で現れたドイツの男の子は素体のままだったから、もしかしたらナツキに胸をうたれてアカウントを取ってくれたのだろうか。そう考えると感動的だが同時にOZのアカウント申請システムが通常運営していたことにおどろく。我にかえってはいけない部分なのだろうけれど。いくら数学オタクの理系男だとしても多少の空気くらい読めます。 素体の頭身をもう少し伸ばして各パーツを探していく。目つき、髪型、服装はもちろんのこと、表情の変化や待機中モーションまで細かく。 佐久間とふたりで(ナレーションなんかは本職の人におねがいしたけれど)つくったOZのプロモーションビデオで作成したアバターは基本設定であって、こだわれば細部までこだわることができる。たとえばドット絵調のサクマみたいにお絵かきツールで自作するとか、キング・カズマのように常にバトルモードスタイルだとか。まあカスタマイズにはべつの手続きが必要だったり課金があったりするので基本的にテンプレートのパーツを使うユーザーが圧倒的に多い。ほかにもアバターに追加できるパーツは懸賞やイベントなどでゲットできて、OMCのチャンピオンベルトやケンジのクマ耳なんかがそうだ。多くの人にはねずみのそれだと思われていそうだがあれはクマ耳。単純にケンジの頭が小さすぎてアンバランスなだけであってもともとついていた耳はクマらしいちょこんとしたやつだった。 アバターをつくったときにいちばん古い記憶を引っぱりだしながらかしゃかしゃとパーツの山をかきわける。ちんまりしたクマらしい耳や服装などはすぐに見つかったけれど、肝心な目のパーツがなかなか見当たらない。この際べつのパーツを使ってもいいのかもしれないがあのアバターにはそれなりに愛着がある。今では出生届なんかといっしょにOZアカウントを取得してアバターをつくるらしいけれど健二のころはまだそういうシステムではなかったから、あのクマのアバターは自分でつくった分身だ。OZファミリーとしてのケンジ。もうひとりの自分。 「あ、あった」 単体で見ると不気味な感じのする、楕円の二重丸の内側を塗りつぶした目にカーソルを合わせてクリック。次にページが移って表情やモーションの選択だ。この組み合わせでアバターをつくりますか。YES。カーソルを合わせて、かちり。 瞬間、アバターに重なるようにテキストウィンドウが出現した。 「あれ」 『どした?』 「エラー出た」 『はあ? アバターつくんのにエラーが出るわけないだろ』 「や、まじで」 部室でとなり合って座っているわけではないからディスプレイを見せることはできないけれど。冗談でないことをちゃんとわかってくれた佐久間頬杖をつきながらいつものようにもう一台ノートパソコン(自宅にもノートとデスクトップとあるのはもう見慣れた光景)のほうに手を伸ばして手早くキーをたたく。 『ちょっと見てみるわ』 「ん。頼んだ」 『おう』 返事をしつつ、ウェブカメラからは佐久間の横顔が映る。ものすごくどうでもいいけれどひさしぶりに私服を見た気がする。主に健二のせいだけれど。 たしかに学校の近くにコンビニも弁当屋もあるし、ちょっと歩けば銭湯もあって、贅沢を言わないのであればプール横のシャワー室を使えばいい。唯一の難点は寝心地だがそれさえ気にしなければ一週間くらい余裕で寝泊まりできる部室。毛布なんかだって去年の冬に持ちこんだきりだ。 ずっと学校にいるせいで佐久間のイメージが制服で固定されかけていたがちゃんと私服でなぜか違和感とワンセットで安心する。でも黒地に蛍光色でサイケデリックな絵がプリントされたTシャツの趣味はよくわからない。健二のことをよくダサいと言うが佐久間は佐久間で奇抜すぎる。わりとなんでもできて、雑誌に載っているメンズモデルみたいな恰好もできてしかも似合うくせに単品で着るものがおかしいのだ(これは夏希にもこっそり同意をもらった)。 佐久間観察はさておいて。健二は一度パソコンから身を引いて床に手をついた。ちょっとかたむいた身体を手首で支えるのは意識してやるとそれなりに負担で。負荷がかかる。でも不可能ではない。ざあざあと鳴る雨に冷やされた空気に触れた板張りはひんやりとした温度を手のひらに伝えてくる。じわじわと冷たさが羽織ったカーディガンをパジャマをすり抜けて直接皮膚に浸みてきて。つめたい。健二が上田に来てはじめての雨。今年も空梅雨だったからたぶん植物や畑の野菜にとっては恵みの水。きっと甘い。東京で濡れるのとはちがう、浴びるように降る自然の循環機能は入道雲が連れてきた。 目を閉じればもう雨の音しか聞こえない雑音の静寂。 あったかいものが飲みたいな。しぱしぱまたたいて、立てた片ひざを抱えながら健二はふたたびパソコンの画面に目をやる。一度閉じて、また作成完了のボタンをクリックしてみたけれどやはり表示されるテキストウィンドウの警告メッセージ。 「この組み合わせらは認証できません、って……なんでだよ」 『おい健二。ざっと見たけど誤作動もバグもないぞ』 「ほんとに? じゃあなんで? 意味わかんないんだけど」 『おれにだってわかんねーよ』 そばに置いてあったファンタグレープの五〇〇ミリ缶を手にとって飲み干す勢いでごくごく喉を鳴らした後でビールみたいに縁をつかんで支えながら手首で軽く振る。仕事からかえってすぐに食卓に突っ伏した母がよくやる仕草。大して強くないくせにアルコールが大好きなあのひとは決して飲ませはしないけれどよく健二に相手をさせるので見慣れたそれだ。 カン、と。机にぶつけられたアルミが軽い音をたてた。 『もうさ、いっそゲストアバターのスタイルにしちまえば? なんだかんだ言っておまえだって気に入ってるんだろ、あのアバター。それに、いまさら元のやつにもどしたって印象わるいからスレだたきに遭うぜ』 おまえの写真といっしょに報道もされたしな、と佐久間。 「それは……」 言われ、健二は口ごもる。思い出されるのはブラウン管に映った自身の写真とアバターの関係図。相互の矢印で結ばれて同一人物。 冷静になってみれば佐久間の言うとおりだ。たとえあの騒動を引き起こしたのがアメリカ国防総省の実証実験だったという事実は報道されても完全に浸透しているわけではない。いくら吸収されたとは言えなぜ健二のアバターのすがたをしていたのか。それはだれにもわからなくて、だれにもわからないからこそ自衛が必要なのだ。リアルでは――よくない言い方だが侘助が盾になってくれたおかげで健二は被害者として映るけれどOZではちがう。ラブマシーンが仏像に似たあのすがたを取る以前に擬態していた、あるいは乗っ取っていたのがケンジであることに変わりはない。 なによりケンジは健二の不正解を運んでいったにもかかわらず最後までラブマシーンとあったから。夏希によって奪いかえされなかったアカウント数は二。ひとつは健二のだとして、もうひとつはだれのものだったのだろう。ラブマシーンはハッキングAI。検索エンジンなどと同じ人工知能であってユーザーとイコールでつながるアバターではないはずなのに。だがアカウントはOZでの身分証明。OZに姿形が存在しているのであれば逆説的にアカウントが存在することになる。リアルで言う戸籍と同じ。もちろん戸籍がない人だっているけれどOZにおいてそれはあり得ない。アカウントが認証できなければログインすることは適わない。それは健二が身でもって知っている。 たとえば。そう、これはたとえばの話。骨と肉と水をもつ人間を示す骨も肉も水もないアカウント情報より生成されただの0と1が構成するアバターというかたちをあたえられた“なにか”に意識的なものが存在するとして。果たしてそれは だろうか。 健二には文学も哲学も心理学すらわからない。健二が手にとって理解できるのは真理的な数学だけ。それすら完全に解しているとはわからないけれど、それでも介さずにはいられない。心、感情、情緒。数学に触れる者としては好ましくない概念。文学とはちがうから人の気持ちは符号にはならない。うれしいからプラス。かなしいからマイナス。そんなことはありえない。数式の理に対人認知じみた帰属理論は適応されない。数学は法則だ。 風向きが変わったのだろう、背後に吹きこむ雨がざらりと鳴った。 『――健二? おーい。け、ん、じ!』 回線の向こう側からカメラを通して名前を呼ばれ、健二は我にかえった。思考は霧になって拡散する。なにをしていたんだっけ。ちょっとだけわからなくない。けれどすぐさま現状把握。新規アバターを作成中。記憶力にはそれなりに自信があって。でなければ暗算なんてできやしない。 パッドに指を這わせてカーソルを動かし、テキストウィンドウを閉じて。 「佐久間」 『なにかな、健二くん』 「ゲストアバターのテンプレ寄こして」 『テンプレートをください佐久間くん、だろ』 おどけた佐久間がずれてもいない眼鏡を押しあげる。 『うそうそ。いま送った』 「さんきゅ」 認証されなかったアバターを破棄。もちろん名残惜しくはある。けれどひとり目を模したふたり目をOZは認めなかったから。複製品の拒否。そこにははたらく意思はどんなものでだれのものだろうと霧より広くてうすい靄々と考えながらページを繰る。テンプレートではなくオリジナル。二頭身くらいのうす青い素体は先ほどと同じに見えて実はちがうのかもしれなくて。0と1のコストレス。材料も費用もかからない限界なしの情報形状。それに佐久間から送られてきた情報を重ねる。服を着せるというよりは皮膚をかぶせるイメージ。擬態。連想されるはやはりラブマシーン。あたえられた措定をまっとうしただけのハッキングAI。 相変わらずぶさいくなリスに権限をいろいろ足していく。幸いにもパーツは後から追加できるから季節や気分で服装を変えるのもいいだろう。そう思うのはいまだけで、けっきょくめんどうになってそのままになってしまうかもしれないけれど。あんなことがあったばかりなので少し不安だけれど、それでも健二がもっているのと同じだけの権限をアバターにあたえる。ただしく分身。もうひとり。0と1でできた。 「これでどう、だ、と」 タブキーで作成完了のボタンまでもっていって、エンターをたたく。先ほどの拒絶が嘘のようにリスのアバターはぽこんと貼りついていたパネルから飛び出した。マニュアルどおりにWELCOME TO OZ ! の文字がおどる。ジョンとヨーコが歓迎してくれるのはグリニッジ標準時で毎月一日の〇時と、世界的なイベントがあるときくらいだ。彼らもまた人工知能であるので製作者の意図するところでないケース・バイ・ケースの行動も起こすらしいけれど(ナツキにあたえられた吉祥のレアアイテムは入手条件がきちんと存在していたから状況下は置いておいておそらく想定内のことだ)。 『どう?』 「ん。平気っぽい」 『そいつはよかった。んじゃ、おれも風呂行くわ。キングによろしく』 「わかった。ありがと、佐久間」 『この借りはからだでかえしてもらうからな』 「はは。覚悟しとく」 けらけらと笑った佐久間がいたウィンドウがブラックアウトして四方が中央に向かって溶けるようにフェードアウト。同時にサクマが目を閉じる――オフライン。 短い足でディスプレイを転がるように走るリスを眺めながら健二はため息をついた。陣内家の、とくに女性陣からはなかなか評判のアバターだが絶賛高校生中の健二にしてみればなんだかなあという気分だ。もちろんいままで使っていたアバターもどちらかといえば害のないかわいい系で、まちがっても陣内家の人たちのように強い印象をあたえるものではない。筆頭であるキング・カズマやマンサクにくらべれば月とスッポンもいいところ。くらべるだけでもう充分に失礼だ。おこがましい。むしろ今回の一件でもナツキも有名になってしまったからよけいにいっしょにいられやしない。せっかくお近づきになれたのに、と少々しょんぼりしてしまうのはいくら草食系とはいえ健全な男子の健全な思考だろう。 ふと。OZのメインステージには向かわずにディスプレイに浮かべた窓のなかでえっちらおっちら走っていたリスが突然きょろきょろあたりを見渡したかと思うといきなりその場に潜った。それとほぼ同時にケータイが着信を告げる。初期設定のままの着信音。フリップを親指で跳ねあげれば無事に初仕事を終えたらしいリスがその体格に対して少し大きいくらいの白い封筒を頭の上に掲げていた。 「OZメール?」 主にOZからの公式情報――要はメルマガを届ける特別な封筒はいつもならスルーしてしまうようなものだけれど。 開封しますか? のテキストに少しだけ迷う。 ラブマシーンがばら撒いた二〇五六桁の暗号メールもOZメールを模していたもので、アバターが運んできたものだったからこそ健二はそれを開けてしまった。OZ内の公式コミュニティのひとつにジャンル別の問題を自動配信する懸賞企画があって、健二はそれに登録していたから暗号メールをなにかの問題だと判断した理由がこれだ。もしかしたらラブマシーンはその登録情報を利用して暗号をばらまいたのかもしれない。決定キーに指をかけながら健二は逡巡する。なんでもないならそれでいい。けれどOZはいまだ復旧作業中のところもあって、とくにセキュリティ関連は総点検の真っ最中と聞いている。ラブマシーンと似たケースがそう連続してあるわけがないと冷静な部分が確率をはじき出しているがそれでも警戒心くらいもつ。いろんな意味で二度目はない。もう一度、なんて。冗談ではない。キーに触れる親指が震える。ひらくだけなら無害かもしれない、けれどひらくだけで害になるメールなんてごまんとある。開けないまま削除するのもひとつの手だ。しかしそれで不都合が起きたらまた手間になってしまう。 開けるか、開けないか。極論で言って選べるのは二択しかないのに健二は迷っていた。生唾を飲みこむ。耳の奥で血がめぐる音が聞こえてきて、外で鳴っているはずの雨なんかかけらも音にならなくて。人によってはものすごくくだらないこと。けれど一度騒動の中心になってしまった健二にとってみればトラウマにも近しいこと。ばらり、と雨が瓦で葺いた屋根をたたく。ばらばら、と飴玉を落としたみたいにかたい音がようやく耳に届いて、健二は無意識にとめていた息を再開する。ひとまず落ち着くために。深呼吸。吸って、吐く。呼気を吐いているときがいちばん無防備になる。スポーツに疎い健二に教えてくれたのは、 「お兄さん、なにやってんの」 「……うわあ!」 まるめていた背骨を反らせて、健二は悲鳴をあげると同時にケータイを放り出した。昼間買ったばかりに真新しい白いそれが床にがつりとぶつかって、それを見ていた佳主馬が「なにしてんのさ」とため息混じりにくりかえした。 「か、佳主馬くん」 尻もちをついたような体勢で健二は納戸の引き戸に手をかける佳主馬を見あげる。心臓がばくばくする。いくらなんでもおどろきすぎだ落ち着け心臓! 見下ろす佳主馬はひたひたと納戸にはいってくるとすんなりかがみこんで放り出されたケータイを拾いあげ、ていねいにもディスプレイを健二に向けた。 「いくら新しいからってこんな風にしたらすぐに壊れると思うけど」 「あ、うん。そう、だよね……あは、あははは……」 「なに。いきなり笑い出して」 気持ちわるいんだけど。語尾にそうついた気がして思わず頬が引きつった。そういう年ごろなのか、あるいは持ち前の性格がそうさせるのか、佳主馬の物言いはなかなかきついものがあって。ファースト・コンタクト、セカンド・コンタクトがああだったから想像がぜんぶ済んでみるといっそきらわれているような感じさえしたが、なんだかんだでいっしょにいてみたらそうでないこともちゃんとわかって。いまでもはもう言葉ひとつ、動作ひとつが佳主馬らしいと思う。それでも厳しい言い方にはどうも慣れない。あまり怒られないように生きてきたせい。だから翔太とは仲良くしたいけれど会話をするのは少しこわい。 差し出されたケータイをやっぱり空で笑いながら受け取って、健二は何気なく目を落とす。 「あ」 放り出した拍子にでもキーを操作してしまったのだろう、アバターはユーザーである健二の決定にしたがってメールを開封していた。画面にはリスと同じくらいはあろうかという箱。みどりに青の星模様、赤いリボンが巻かれていて。既視感を覚えるには酷似しすぎていた。 「これ……っ」 「なに。どうかした?」 腕を目いっぱい伸ばして遠のかせたケータイを佳主馬が覗きこんだ。 「プレゼント?」 「ちが、いやちがくない!ちがくないけど!」 「だから、なに。もっとわかりやすく言って」 「これ、前にも似たの送られてきて! ラブマシーンから!」 「はあ?」 首をひねった佳主馬が怪訝な顔を一転させて目を大きく見ひらく。ケータイをにぎる健二の手首を勢いよくつかんで引き寄せると相手の出方を待つように画面をにらみつけた。 メールの添付ファイルは容量がよほど大きくないかぎり自動的に展開される。リスのアバターもまたその基本に則ってプレゼントを飾るリボンにぶら下がってむりやりにほどきはじめた。する、とリボンでつくられた花のような部分がリアルにくずれたところで、「わ!」バイブレーション機能でケータイが震動し、健二はふたたび機体を取り落とした。 「まただ……」 買ったその日のうちに二度も落としたケータイを見下ろしながら健二は茫然とつぶやく。画面のなかでは以前と同じようにびっくり箱がひらいていて、リスはその横で目をまわして倒れている。ぱらぱらと舞う紙吹雪を浴びて目をぐるぐるさせるリスのアニメーションはなかなかシュールだ。ちがうところを探してみれば、前は単純な黄色い顔がバネでびよんびよんと跳ねているだけだったのが、今回は灰色の頭にまるい耳がついている。馬鹿にしたような表情も微妙にちがっていて、典型的に舌を出しているのではなく歯をむき出してきしきし笑っている。 「これ」 ふいに、佳主馬が伸ばした人差指でびっくり箱をちょんちょんつついた。 「あいつに似てない?」 「あいつ?」 「ラブマシーン」 「あ……」 よくよく見てみればたしかにそれは健二のアバターに擬態し、キング・カズマによって暴かれたもうひとつの顔に似ていて。ラブマシーン。あの仏像のようなすがたが本当なのかはだれもわからない。0と1と機械語で構成された、侘助の組んだハッキングAI。情報を得るために仲間を得るために自分をまもる鎧のようにアカウントを奪いアバターを吸収しナツキによって二にされてキング・カズマの拳で二のまま〇に還った〇から生まれた一。そう考えると遣る瀬ない。健二たちはラブマシーンの行動を遊びと判断したけれど実際はどうだったのだろう。不毛な問いだ。OZをふくめて、ネットとはシステムでしかないのだから。意思が有るように見えるだけ。 「でも、わるいメールじゃないと思う」 「え?」 「ここ」 かたちのいい爪のついた指先が仰向けになっているリスの付近につうと不可視の線を引く。散らかった紙吹雪は一見するとただの吹き溜まりをつくっているが実はちがった。ぱらぱら降ってくる色のかけらのなかひっそりと、けれどちゃんと見ればわかるように規則的に落ちているものがあって。赤やピンクの小さなハート。色鉛筆よりもたくさんある色のなかに隠れていた。 「あと、こっち」 よく見て、と佳主馬。 示されたメールのタイトルはところどころが文字化けしていたがそれらに雑ざってあリガとウとあるのがわかる。あリガとウ。たった五文字の言葉。発言が同時翻訳されるOZの魔法が通用しないメールで用いられた日本語での言葉だ。とりあえず全世界に通用するThank youではない、日本人にとってあたたかみのあるそれはもうそれだけでなぜだか胸があたたかくなって。文字化けしている部分すら書きなぐった跡のように見えてくる。仮にこのメールの送り主がラブマシーンだとして。あのすがたで鉛筆をにぎるすがたは実に微笑ましい。実際のところはもっと機械的なのかもしれないけれど。想像するだけならば自由だ。しかし疑問は解消されていない。 拾わないまま寄せていた顔をケータイから離して、健二は首をかしげた。 「でも、なんでぼくに」 「知らない」 「ですよね……」 「てゆか、お兄さん。アバター変えるんじゃなかったの?」 「え、ああ、うん。ちょっといろいろあって、このままにしたんだ」 「ふうん」 踵を床にぺたりとつけたまま佳主馬は立ちあがり、数歩移動すると興味をうしなったようにノートパソコンの前に座りこんだ。ぐるりとディスプレイに浮かぶ窓が横にずれて待機中のキング・カズマがディスプレイに現れる。特徴的な長い耳がふるりとそよいで、心なしか上機嫌そうに見えるのはたぶん健二の錯覚だろう。どうも自分はアバターを擬人化しすぎる傾向がある。言葉を換えれば夢見がちというか。発想が幼いでいる。口に出せばきっと佳主馬に一蹴されるであろうことはわかっているから努めてつぐんでいるけれど。 ぽたり。雫が落ちる音がして。 「佳主馬くん、髪、濡れてるけど。拭いてないの?」 「ちがう。面倒なだけ」 「そんな、風邪引いたらたいへんだよ」 言いながら、健二はええととあたりを見まわして、ふとパソコンの横にざっくりとたたんで置いてあるタオルに一瞬だけためらう。自分はあまり気にならないがけれどもし佳主馬が潔癖症だとすれば自分が使ったタオルなど申し訳ない。しかし考えあぐねているあいだにも髪から滴る水はぽたぽたとタンクトップを濡らしていく。慣れているといっても今夜は夕立から延びた雨が降っていていつもよりもさらに気温が低い。気づいておきながら風邪を引かせてしまうのは良心的にゆるされなくて、なにより佳主馬がかわいそうだ。 意を決し、健二はひざ立ちになってそっとタオルを取りあげると佳主馬の頭に落とした。「わあ!」聞こえた声は聞こえなかったことにしてそのままがしゃがしゃと、けれどなるべくていねいに髪の水気をぬぐう。 健二の行動をどう思ったのか、佳主馬が鍵盤をたたく手をとめた。 「お兄さん。いきなりなに」 「濡れてるの気になっちゃって。タオルぼくが使ったやつだけどたぶんもう乾いてるから」 「べつに、いい」 「よくない。それに、ぼくがやりたいだけだから。ね?」 「……勝手にすれば」 ちらりと横目でこちらを見た佳主馬はふいと顔をパソコンに向けてふたたび鍵盤をたたきはじめる。払いのけられなかったからひとまず了承と捉えていいだろう。頭のかたちをタオル越しに知覚しながら健二は小さく笑う。まるで猫みたい。 ざあざあと雨が降っている。健二が上田に来てはじめての雨だ。数年前に都市部を襲ったゲリラ豪雨とはちがう、入道雲が連れてきた夕立の延長線。あまりにもうるさくて、でもそれ以外の音がないからとても静かだ。納戸を満たすのは佳主馬のキータッチとかすかな衣ずれ。 OZで見た天気予報が当たるのであれば明日は晴れだ。雨の後の雲ひとつない快晴の予定。それなら明日は佳主馬といっしょに、朝顔畑にでも散歩に行こう。
雨色パルティータ |