いっしょにいるのに、ふとした瞬間ちがうことを考えられる。たしかに一分一秒欠かすことなく自分のことを想っていてもらえるのはうれしいけれど申し訳なくて、だけどその反対は腹立たしい。自分勝手な自覚はある。でも目を逸らされるのは我慢ならない。
 だからついに言ってやった。言ってしまった。
「好きなひとができました」
 東京と名古屋は遠い。少なくとも、中学生の自分にとってはものすごく遠いところだ。けれどそれはどうしようもない距離で、OZの中でならゼロにも等しい。カメラがあるなら顔を見て話すこともできる。できるが、本当は大好きなひとの顔を見て宣言できるほど勇気はなくて。いつもとはちがうケータイでの雑談の最後に何気なく付け足して、なにか言いたそうなのには気づかない振りで電話を切った。こちらから掛けた電話なのだから用件を言い終えればそれでおしまい。息を呑んだような気配に少しだけ胸が痛んだけれど。
 ぱちん、とたたんだケータイをパーカーのポケットにつっこむ。タンクトップの上に一枚羽織っているだけでも体感温度はずいぶんとちがって、ああもう夏は終わったんだと改めて思う。
 今年の夏、あのひとは上田に来なかった。その前も、その前も。本当は来ていたのかもしれない。もちろん名古屋でなんてもってのほかだ。OZでは毎日のように会っているからよけいにそれが腹立たしくて、なんだって東京の大学なんか選んだんだろう。
 ケータイを入れたほうとは反対のポケットで小銭がちゃらちゃら音をたてる。現在地は駅。お金がないことはないけれど東京はあまりにも遠い。だいたい家の場所なんて知らない。アナログなやり取りなんかしないし、たとえ知っていたとしても文字の羅列では想像もつかない。
 使った覚えがあまりない券売機の上に掲示されている路線図をたしかめて、手のひらで小銭を数える代わりにケータイを改札機のセンサーに押しあてる。TOICAとかSuicaとかPASMOとか多すぎ。
 タイミングよくホームにはいってきた電車は時間帯のわりに妙に空いていて、三人分くらいのスペースの真ん中に遠慮なく座る。首に掛けていたヘッドフォンを耳に当ててスタート。向かい側に座っていたおばさんが怖い顔でにらみつけてきたので少しだけボリュームを落とした。
 がたごと、がたごと。電車が駅をすべり出て速度をあげながら走りはじめる。両手をポケットにつっこんだままふた駅分目を閉じて待つ。各駅停車。お気に入りの曲がランダムで流れていく。いちばん聞いていて落ち着くのはOMCの公式BGMだ。むしろBGMだけでどういったコンボを決めているかすら目の裏に浮かんでくる。たたかうキング・カズマを見るのは生活の一部になっていた。
 車内アナウンスが目的の駅名を告げる。ふ、と目を開ければ対面に先ほどのおばさんはおらず、うっすらとよごれた窓から見慣れたホームが見えた。一分少々停車します。女声アナウンスはヘッドフォン越しにもちゃんと聞こえてくるのが不思議だ。ひざのバネだけで座席から立ちあがると電車から降りて改札を抜ける。きゅ、とスニーカーの裏がこすれて音をたてた。
 引っぱりだしたケータイのフリップを指で跳ねあげて親指で操作。リダイヤルから名前を選んだ決定を二度押し。少しだけ拍を置いてコール音が連続する。五回か六回ほど待ったところでぶつりと通話状態になった。
『――はい』
 とうに耳になじんでいる声はやはり聞いて安心する。あんなことを言ってしまった後だから、余計に。
「先生、いま家でしょ? 迎えに来てよ」


 好きなひとができました。
 聞いた瞬間、あなたはなにを思いましたか。


 先生は、厳密に言えば先生ではない。
 三十路に片足をつっこんだ彼は出会った当時塾のアルバイトをしていて、だからこれは渾名みたいなものだ。正直言って両親の手を焼かせるほど人見知りで人嫌いだった自分と根気よくコミュニケーションを取ろうとしてくれて、いまではもう家族と同じくらい信用に足る人だとして慕っている。ここ数年は東京にいるあのひとよりも交流が多い。
 そう言えば先生も以前は東京にいたと聞いたことがある。理由は知らないけれど名古屋の大学の、大学院という大学よりも上の学校に行って。いまはごちゃごちゃしたものを書いては雑誌やどこかへ送ってお金をもらっている。それがどのくらいのお金になるかはわからない。でも貧乏そうには見えないからそれなりにもらっているんだと思う。でもきっとキング・カズマの収入には遠くおよばない。もちろん先生にキング・カズマのことは秘密だ。言ったら卒倒されそうだし。
「それで。今日はどうしたの?」
 はい、と手渡された陶器のマグカップ。ほわりと甘い湯気がのぼるまろやかな色の液体にくるくると白い渦が巻く。インスタントコーヒーとココアの粉を混ぜてお湯で溶いたのにミルクのポーションを垂らした妙な味のこれは先生が唯一つくれる子ども向けの飲み物というやつだ。そもそも自分が出入りしなければたぶんココアすらないはず。一度先生が飲んでいるものを舐めたことがあるあれは飲み物なんかじゃ、もっと言えば液体なんかじゃなかった。さすがに許容できなくて、カップ一杯にスプーン一杯としつこく言いつづけた甲斐あって先生がもっているステンレスのサーモマグはちゃんと飲める色をしている。
 積みあがった段ボール箱に寄りかかってひざを抱え。隅っこで小さくなるような体勢は昔からせまいところが好きだったなごり。慣れたような問いには答えずに、まずいともおいしいとも言えないあたたかい飲み物に口をつけた。微妙な味。でもきらいじゃない。先生にしかわからないような割合で混ぜられたコーヒーとココアは家で再現しようとしてもぜったいにむりだ。てゆか家でまでこんなもの飲みたくない。先生がつくってくれたあたたかい飲み物を先生の家で先生と飲むからきらいじゃないのであって、これ単体ならば当たり前に願い下げ。だからってふつうにココアにされるのもいやだ。先生と同じのがいいと我儘を言って、ふたりで妥協し合った結果がこれなのだ。
 本や紙が乱雑に載せられたデスクに片手をついてからだを支えながら立ったまま先生がコーヒーをすする。先生は促すだけでむりに訊いてこない。だから話すのであればこちらから言わなければならない。
 カフェモカもどきをうすく舐めて、マグを両手でもったまま心を決める。先生相手に緊張する必要はない。けれどあまり褒められたことではないと自覚しているだけあって尻すぼみになってしまうのは仕方のないことだ。だれだって怒られたくない(こんなことで先生は怒ったりしないことを知っていたとしても、こわいものはこわい)(そう、叱られるはこわいこと)(もっとこわいのはきらわれてしまうこと)(忘れられて、しまうこと)。
 あたたかいものを飲んでいるのに変に喉が渇いてる。生唾を飲みこんで、口を開けた。
「……好きなひとできた、って言ってやった」
 サーモマグをかたむけていた先生は「ああ」と眼鏡の奥でまたたいた。
「東京のお兄さん、だっけ」
 早いレスポンスにうなずいてみせる。
 あのひととのことは言えないいろいろをはぶいて先生には何度も話した。OZでのこと。夏休み中にあったこと。本当はひとりでずっとしまっておきたい気持ちや思い出を先生には話した。人見知りをする自分にとって異常とも言える。けれど先生にならば話してもいいかな、と思えたのだ。ずっと秘めておくのはとてもたいへんで。しかし両親や親戚連中には言えたものではないから。
「いつも上の空なんだ、あのひと。大学に行ってからおばあちゃん家来ないし、遊びにいくって言っても理由つけて断るし」
「それは、また。あ、OZでは?」
「最近見ない」
「アバター」
「スリープ」
「でもメールや電話はしてるんだね」
「そりゃね。そこ拒否られたらなに言われようが東京行くよ」
 ただでさえあまりまめ 、 、ではないのに音信不通になんてなられたらどうしようもなくて。東京には夏希も理一もいるけれど、そうじゃなくて。向こうが来ないなら自分から行くしかない。中学生の自分にとって東京は遠いけれど。たぶんあのひとに会いにいくと言えば両親だって納得してくれるはずだ。なんでうちの男は毎度毎度いなくなるのよ! 全員の気持ちを代弁した万里子おばさんの声が耳の奥によみがえる。
「それで、好きなひとができた?」
 うなずく。
「焼餅でも焼いてほしかった?」
 首を振る。
 本当に伝えたかったのは好きなひとができたことではない。そもそも好きなひとなんていない。強いて言えば親戚以外でいちばん好きなのは先生かもしれないが恋愛感情にはほど遠い。ずっと昔、たぶん幼稚園に通っているか小学校にあがるかしたころにはとても好きだったひとがいて。いまになっては顔も声もなにひとつ覚えていないのに。すごい好きだったのに。子どもながらにそのひとと結婚するんだって宣言した覚えがある。家族どころか親戚一同の前で堂々と。その場かぎりの無邪気なものと思われて流された大胆かつストレートすぎるプロポーズはその場で夏希に、あとでもうひとりに反論された。もう十年近く前のこと。好きだったひとのことは忘れてしまったくせに、そんなことばかり覚えている。
 ダメだよ、あげないよ。冗談でもぜったいにダメ。
 あのひとはわたし/ぼくのだから。
 両手の握力だけで割れそうなくらい力強くマグカップをにぎりしめて一気にあおる。ぬるくなって溶けきっていない粉が沈んだそれは苦いのか甘いのかもわからない味をしていた。
 先生はなにも言わないで自分のコーヒーを飲んでいる。きっと先生には自分がなにを思って好きなひとができたと嘘をついたのか、その理由すらわかっているのだと思う。いつもはずぼらで鈍ちんでそういうところばかり勘がいい、変なひと。
 マグをかたむけたままこっそりと唇を噛む。言いたかったのは好きなひとのこと。当人不在の無邪気なプロポーズに対して本気のこわい顔を見せたあのひとに好きなひとのことを思い出してほしかっただけ。自分はもう忘れてしまって顔も声もわからなくて、だけどあのひとは何度も好きだと言ったのに。自分がしたプロポーズと同じように相手に伝わることのない告白を自分は何度も何度も聞いていた。
 東京の大学に行くと聞いたとき、ああ、ついに届けにいくんだと思った。だから連休に帰ってきてくれなくてもお盆とお正月しか帰ってきてくれなくても我慢できたのに。おかしいことなんてはひとつもない。だって自分はふたりとも大好きだから。それなのに。あのひとはいつも上の空でいっしょにいてもちがうことを考えていて。目を逸らしたいだけならいっしょにいないでほしい。
 ねえ、あなたはなんのために東京へ行ったの。
「唇、あまり噛まないほうがいいよ。痕になるから」
 タイミングを計ったような先生の言葉にはっと我にかえって、噛み締めていた唇をあわてて解放する。噛んだ跡がじんじんとした痛みでリアルにわかって、少しだけ血の味がした。
 このままずっとぼんやりしていたら思っていることぜんぶを見透かされそうな気がして、相変わらず立ったままでいる先生を見あげる。背は高いのに針金みたいにひょろひょろしていてうすっぺらい。ぱっと見て頼りない、けれど本当はすごく強いひと。いま気づいたがもう覚えていない好きだったひとに雰囲気が似ているかもしれない。
「先生さ、引越しでもするの?」
「どうして?」
「だって、前に来たときこんな段ボールなかったし」
 寄りかかっている山積みの箱をばしばしたたく。手ごたえがかたいから中身はたぶん本だろう。先生の部屋にはブックシェルフなんて洒落たものはなくて、アルミサッシの棚にずらっとならんでいるのは小むずかしいタイトルの分厚い古本、よく使う参考書みたいなものは机の上、そのほかの趣味で読んでいるらしい文庫本だったり実用書だったりは新聞紙を敷いた床から生えているのが以前の様子。けれど本の筍は収穫されてほこりをかぶっていた本はすがたを消していた。家具らしい家具なんてないような部屋だったけれど、たぶん段ボール箱をどかしてしまえばさらにがらんとしてしまう気がする。
「どこ行くの? 遠い?」
「うん。遠い」
「東京?」
「もっと遠い」
 けっきょくどこへ行くのかは答えずに先生は肩をすくめて、溶けきらなかった粉が沈むマグカップを取りあげた。流しのほうへもっていくかと思いきや自分のサーモマグといっしょに机に置いて、代わりに黄色いなにかのキーホルダーのついた鍵の束を手に取る。
「さ、もう暗くなるし。聖美さんも心配するから。送ってくよ」
「……先生、免許もってたんだ」
「身分証明書代わりにね。いつもは徒歩」
 でも全然乗らないわけじゃないんだよ。笑いながら鍵をもつのとは反対の手を差し出された。あのひととはちがう、女の人みたいに細いけどペン胼胝のある指が長い手のひらが冷えやすいことを知っている。なんでもないことみたいに差し伸べられる手は、手をつなぎたいのに恥ずかしくて意地を張る自分にはあまりにやさしくて。
「なにそれ。すげえ意味ない」
 いつだったか親戚のだれかに、あんたたちって本当にそっくりよね、と言われた顔で思いきり笑ってその手を引っぱった。


 好きになりたかったひとはとても賢いというか勘のいいひとで。
 自分がいかに子どもなのかを思い知らされるけれど、だからってあのひとはおとななんかじゃない。だってただ逃げているだけ。好きなひとを好きなことから逃げているだけ。
 本当に好きなくせに。


 先生の車はまるっこい感じの小さいやつで、青みがかったシルバーが先生らしくてかわいかった。ひんぱんに乗るわけでないというのは本当みたいで、車内は新車特有のにおいがまだのこっていて。このにおいが苦手で頭痛がすると愚痴ったことを覚えていたのかエンジンをかけてすぐに窓を開けてくれた。排気ガスを気にしてほんのちょっとだけ。
 オーディオにはCDが一枚だけはいっていて、もう何十年も前の曲。少し高めの男声があいたくてあいたくてと歌っていた。いわゆる懐メロというやつ。先生にとってはなつかしいのかもしれないそれは知らない曲。でもメロディラインはきらいじゃない。
 とくに話すようなこともなく、べつに気まずいような雰囲気でもなかったので会話はない。何気なくポケットに手をやってケータイを半身ほど出してみればフリップの一部がぼんやりと点滅していた。
「あ」
「どうしたの」
「メール。気づかなかった」
「あらら」
 あわてて取り出して指でフリップを跳ねあげる。大量のメールを抱えた相棒がこまったように長い耳を揺らした。とりあえず最新の封筒を開けてみれば『ケータイはこまめに確認しなさい』いきなりお小言。クリアボタンでもどって差出人を見てみればずらっとぜんぶ母からだ。いちばん下にある未読メールが届いたのはちょうど先生に電話してすぐくらいで、家に帰るのがちょっとこわくなってきた。
 とにかくメールを下から順に開けて、短い本文を読んでいく。池沢家の人間は総じて電話嫌いなので、それを考慮して五通までは返信がなくてもセーフだ。ただし六通目を送信/受信して十分以内に返信がないと電話による死刑宣告、帰宅後の説教大会がひかえている。
 メールボックスに溜まっていたのは六通で、気がついたのは受信して三分経過してから。本気でぎりぎりだったそれに心臓をばくばくさせながらぱちぱち返信を打って相棒にあずける。いざとなったら先生を盾にしちゃおうかという考えもよぎったけれど。
 フリップをぱくんと閉じて、けれどポケットにはしまわずに手でもったまま両の手足を前方のスペースに伸ばした。
「母さんからだった」
「聖美さん、なんだって?」
「いまどこっていうのと、何時に帰ってくるかって」
「あちゃー。心配させちゃったね」
「うん」
「だけど、来るときはちゃんと断ってからおいでって約束しなかったっけ?」
「しました」
「まったく……次回から気をつけるように」
「はあい」
 まるで本当に教師と生徒みたいなやりとりをして、どちらともなく笑い出す。いつもこんな調子だ。家族より遠くて、親戚より離れていて、でも家族にもだれにも言えないことを言える距離。好きになるなら先生みたいな人がいいのに。初恋はまだ来ない。赤い実ははじけない。先生を好きになって、ちゃんと初恋は実るって証拠を突き出してやりたいのに。
 好きなひとができた、というのは嘘。
 正解は、好きになりたい人ができた。
 気がつけば窓の外を見慣れた街並みが流れている。電車でふた駅。でも車を使えばもっと近くて三〇分もかからない。時間も時間だし、先生に送ってもらっていることをメールで伝えたからこのまま夕飯に巻きこんだりできないだろうか。いつもよりも早い時間に母からメールがあったということはたぶん外食でもするのだろう。もう三十路なくせにまともな体調管理もできないおとなは本当に碌でもないと思う。得意料理に堂々とホットケーキを挙げる三十路男。なにそれ、笑えない。
 信号機をいくつかくぐって角を曲がる。一階がファミリーマートのマンションが見えてきたらそこでドライブもおしまいだ。先生の運転はとてもなめらかで法定速度もきちんとまもっていた。機会があればまた乗りたい感じ。父の運転だとすぐに酔ってしまうから上田に行くときはいつも新幹線だ。下手なんじゃなくて雑。まだ翔太のほうがマシ。
 がらんとしたコンビニの駐車場にバックで車を停めて、先生はエンジンを切った。そそくさと車外に出れば空は濃紺の一歩手前だ。手指を組んでぐうっと上に伸びをする。車から降りるとついついやってしまうくせだ。押し入れとか納戸とかは好きだけど、車のような閉鎖空間は好きじゃない。
 コンビニをぐるりと半周したところにある階段をのぼって、そこがエントランス。変な造りのオートロック式マンションは三階からがふつうに部屋があって。アナログの鍵を差しこんで部屋番号を押しているとき律儀にも先生は目をそらしていた。いつもはコンビニでさよならするけれど今日は遅くなってしまったからといっしょに謝ってくれるらしい。基本的にいい人なのだ。ぜったいどこかで損してそう。
「そうそう、引越し先のことなんだけどね」
 九階まで一気にあがるエレベーターのなかでひとり耳鳴りとたたかっているとき、ふと思い出したように先生が口をひらいた。引っ越し先。知りたいのは本当。でも先ほどはぐらかされたことを思い出して意図的に憎まれ口をたたく。
「遠いところ行くんでしょ」
「うん。アメリカ行くんだ」
「…………は」
 がこ、とエレベーターのドアが開いた瞬間に聞こえた地名(てゆか国名)にぎょっとして、聞きまちがいであることを願いながら訊きかえす。
「待って。アメリカ?」
「そう。アメリカ」
 なんてことないようにうなずいて、先生は出入り口をふさいでいる自分の横をすり抜ける。名字をつぶやきながらどんどん奥のほうに行ってしまうのを小走りに追いかけて羽織っているチェック柄のシャツを思いきり引いた。同時に先生が足を止める。家の前だ。
「なんで? なんでアメリカなの?」
 たしかに先生の部屋には英語とか、知らない言葉で書かれていた雑誌が何冊も落ちていたし、先生が書いたというむずかしい文もぜんぶ英語だったけれど。
 アメリカと言えば思いあたる親戚がふたりくらいいる。侘助と夏希だ。もともとあまり日本にいない大叔父を追いかけるようにアメリカに行って、けっきょく年末年始と夏にしか帰国しない又従姉。それでも帰ってくるだけマシかもしれない。なんだかんだで侘助をみごと捕獲してくることだし、ってそうじゃない。そうじゃない自分。いま大事なのは先生がアメリカに行ってしまうということだ。アメリカなんて遠すぎる。東京なんてメじゃないくらい。電話はもちろん、OZで会うこともむずかしいところ。
「先生、なんでぇ……?」
 声に涙が混ざってきた。中学生にもなって、情けない。でもあのひとが東京へ行くと決めたとき以上に頭がぐるぐるするのはどうしてだろう。
 本当。いやになるくらい賢いひとだ。中学生の自分の考えなんてぜんぶお見通しで。たぶんいまだってどうして先生がアメリカに行くと聞いて混乱しているのかその理由すら知っている。シャツの裾を力いっぱいつかむ手を振りはらうでもなくそのままに、ずるいおとなは「うーん」首をかしげた。
「なんだろ。敵前逃亡、かな」
 それで、こまったように微笑って。いつもの微苦笑。伸ばした人差指で先生はインターフォンを押した。ぽーん、なんて。古典的なチャイムが鳴る。
 しばらくして音質のわるいがさごそした応答があって、先生が名字を言って。数秒の沈黙のあと、いきなり中がばたばたとあわただしくなった。どたどたと短い廊下を走る重たい音。時間帯的に父はまだ帰っていなくて、母はこういう風に走ったりしなくて。
 ばん! とものすごい勢いでドアが内側から開いた。そこにいたのは母でも父でもない、まさかここにいるはずのない東京へ行ったきり滅多に帰ってこない大好きな兄で。
「けんじ、さん…………?」
「ひさしぶり。佳主馬くん」
 栄里佳はうそだと思った。おどろきすぎて、涙も引っこんでしまった。





なぜ恋をするなら優しい人になさいと誰もが言うのかしら
あんなに怯えたような兄を、はじめて見た