妹の栄里佳は、かわいい。それはもう。
 生まれる前は意味がわからなかったし生まれたばっかりのときは猿みたいに真っ赤だったし昼間はおとなしいのに日付が変わるあたりで夜泣きがひどくなってそのせいでOMCの試合に負けそうになったことなど一回や二回じゃないけれど首が据わってはいはいができるようになって立てて歩けて少しずつ話せるようになってきたらもう否定要素も文句のかけらもなくかわいい。佳主馬のキャラ崩壊もいいところ。妹ができたと知ってものすごくデレデレしていた父の気持ちがわからないでもなくて(でもあそこまで気持ちわるくないと断言する)、兄の贔屓目とかを抜いても栄里佳はかわいい。
 栄里佳が生まれたのはあの年の冬だ。いろいろあって東京の高校に行こうと中一の時点で決めていた佳主馬は妹の誕生によってふたたび脳内会議開催を迫られ、しかし東京に行きたい理由である健二が都内にキャンパスがある大学に進学してしまったので(一時はアメリカに行く行かないの騒動があったがあれは思い出したくない黒歴史)、ある意味必然的というかその場の勢いで佳主馬は東京の私立高校を受験した。本当は健二の母校がよかったけれど他県から都立高を受けるのは住所やら住民票やらの手続きがめんどうで、わざわざ新幹線を使ってまでなぜ公立かと学校側からつっこまれるのも嫌だったので実家暮らしの夏希よりも現在絶賛ひとり暮らし中の健二の家に近いところを選んで。
 しかし三年間も地元を離れてしまって栄里佳に忘れられるのは堪えられないのでゴールデンウィークやハッピーマンデーなどの連休はこれまた離れがたい健二を連れて(だって佳主馬がいないあいだに合コンとかされたら!)名古屋に帰る始末。栄里佳はまだチャットができないから母経由でテレビ電話をよくするけれどやはり直に会うのがいちばんだ。健二もまた実の妹のようにかわいがっている栄里佳に会えるということで文句を言われたことはまだない(そういう予定は早めに言って、とはよく言われるけども)。
 なのに。せっかく好きな人を連れて実家に帰っているのだから家族水入らずでのんびり過ごしたいのにOZはそんなこと考慮してはくれなくて、エンターテイナーとしてのキング・カズマに連休を理由にしたエキシビジョン・ゲームをもってくる。しかも前金として賞金の半分がすでにネットバンクに振りこまれている(OZが用意するゲームは基本NPCで構成されていてなにがあってもキング・カズマが負けないようにできているからやり甲斐がなくてあんまり好きじゃない)せいで断れなくて、けっきょく母に「またOZ?」と厭味を背中にぶつけられながらも相棒にステージを跳ねさせる。でも妹をひざに乗せた健二が「栄里佳ちゃん、佳主馬おにいちゃんにがんばれーって。ね?」なんてそれだけでも十分うれしいのに、栄里佳も栄里佳で「かずまおにいちゃん、がんばれー!」と素直に応援してくれるものだからヘッドフォンで重低サウンドを聞いているよりもテンションがだだあがって最終的にレコード更新。健二ばんざい。妹ばんざい。現金でなにがわるい。
 東京に出てきて半年、はじめての夏休み。高校にくらべて夏休みが遅くて長い健二の前期試験が終わるのを待って佳主馬は長野行きの新幹線に飛び乗った。健二はだれかが迎えにいくか強制的に連行するかしないとどうも意味不明の遠慮をして栄の誕生会(年忌よりもこちらがメインだ)に参加しようとしない(去年もおととしも受験がなんだ、大学がどうだで来なかった)ので健二を上田に来させるのはごり押しにごり押しを重ねて同居に成功した佳主馬にあたえられた厳命だ。もちろんそんなものなくたって今年こそは連れていくつもりだったから。一ヶ月以上もある夏期休暇を離れて過ごすとか馬鹿だろう。
 健二の試験が終わったのが本日七月三〇日。上田に行くことはあの手この手でだまくらかして説き伏せてあったから大学を出たその足で荷物をもっている佳主馬と東京駅で合流、上田駅に着いてからは本数の少ない在来線とタクシーを乗り継いで伊勢山まで。東京を出たのが夕方近くだったのと、在来線のダイヤの関係で陣内の屋敷に到着したのは夕飯が終わっておとなたちが本格的に飲みはじめる時間だった。ちびっ子ギャングたちはともかく、幼い妹はもう寝てしまったかもしれない時刻。そのことについては移動中健二に何度もあやまられたけれどなにも休みは今日だけではないので気にしない。寝顔はばっちり見られるし。あとで写メっとこう。
 玄関からではなく、いつかの侘助のように広間に面する縁側にまわって顔を出したら予想通りというか、早々におとなたちに捕まって先に来ていた夏希に飛びつかれた健二が放り投げた荷物を拾っておととしから割りあてられている部屋へと向かう。それまでは両親といっしょだったが栄里佳が生まれたのを機に部屋をべつにしてもらったのだ。思春期ってやつ? などとからかわれもしたけれど。お気に入りの納戸からは少し遠い、あの夏に健二が寝起きしていた客間。
 もうふたりで雑魚寝が前提になっている部屋割りなので自分のスポーツバッグとケンジのリュックサックを容赦なく畳にどさどさ落とす。愛用のノートパソコンは先に納戸に設置してきた。夏布団もふた組おろさないとならないがあれでも一応成人したらしい健二がそう簡単に解放されるとは思えない。陣内の男は酒豪ぞろい。それ以上に飲めるのが女性陣。
 輪ゴムのようなそれでむりやりくくった髪をほどいてばさばさ散らしながら広間にもどるために廊下を素足で歩く。板張りの床はフローリングとちがってひんやりと肌に馴染む。ひさびさの感触を内心楽しみながら丁字に分岐する角を曲がりかけたところでばたりと母に鉢合わせた。
「あら、佳主馬。来たのね」
「さっき。健二さんもいっしょ」
「本当に? やったじゃない」
「うん」
 うなずいてみせれば母はほっとしたように微笑んだ。息子も娘もなついているせいか、彼女はひと際健二の来訪を楽しみにしていた。
「それで、その小磯くんは?」
「広間。師匠たちに捕まってる。あと健二さんだから。名字禁止」
「そうだったわね」
 うっかり言っちゃわないように気をつけないと。年甲斐もなく母はぺろりと舌を出した。
 健二のことは名前で呼ぼうと決まったのはおととしの夏だ。大学生になった夏希が健二を連れてこなかったことに対してやれ婿殿はどうした、小磯くん置いてきちゃったの、などと他人行儀的な名称が飛び交ったのが原因だ。言いだしっぺは夏希。理由は栄おばあちゃんが認めた家族だから。以来そういうことになったのだけれど肝心の健二が上田に来ていなかったためにある意味非公開だ。健二が気づくかはあやしいところ。気づかないまま馴染んでしまうのがいちばんいいこと。
 佳主馬は小さく息をつく。外堀さえ埋めてしまえば勝ち。権謀術数もまた陣内家が得意とした戦略だ。
「母さん。栄里佳は?」
 去年の夏あたりに背を抜いた母を見下ろして、いつも足もとにくっついている妹のすがたを捜す。
 今冬で三歳になる栄里佳はその年齢にしては語彙が多いすぎるくらいよくしゃべるくせに人見知りが激しくて、母か佳主馬がいなければ親族の集まりに出るのも嫌がった(父だけではアウト。発覚したとき父はもうものすごくへこんでいた)。いったいだれに似たのやら、という師匠のつぶやきに対し、納戸にこもらないだけマシよ父さん、なんてもちろん聞こえなかった。
 唯一の例外は健二で、実家に連れていけばひざの上が定位置だしテレビ電話で話していてもかならず健二のことを訊いてくるくらいにべったりだ。そのうち健二と結婚するとか言い出しかねなくて佳主馬は正直警戒している。恋敵が十三も離れた実妹だなんて笑えない。そうでなくたって夏希とか夏希とか佐久間とか夏希とかその他とかさり気に競争率高いのに!
「栄里佳だったらさっきまで夏希に遊んでもらってたけど、健二くんが来たならわからないなあ。真緒たちといっしょか、それか万助じいちゃんのところかしら」
「師匠?」
「ええ。あのお腹が気に入ったみたい」
「ふうん」
 敬愛する師匠の体形がぱっと脳裡に浮かぶ。たしかにあの福狸みたいなビール腹は親しみがもちやすい。そう言えば最近妹のお気に入りはトトロだったなと思い出す。お腹に乗っかってトロロとメイごっこ、は佳主馬も覚えのある遊びだ。恥ずかしながら。そういうところを見るとやはり栄里佳は佳主馬の妹だ。好みが似通っている。まあ健二はあげないけど。
 迷彩仕様ミリタリーカーゴのポケットに両手をつっこんで、とりあえず母に道をゆずる。本当に今さら気がついたが洗濯物の籠を抱えていて。人数が多いと洗濯機をまわすのも大仕事だ。手伝おうかと声をかけたら断られたのでそのまま見送る。
「佳主馬!」
「……なに」
 呼ばれ、曲がったばかりの角をうしろ向きに数歩巻きもどって顔だけ覗かせる。
「あんたたちごはん食べたの?」
「まだ」
 栄の遺した手紙のせいか、この家の人間はやたらと空腹かどうかを気にする。食事時でなければちゃんと食べているのかを。だから訊ねられたならきちんと答えをかえすのがルールになっていて。このあたりは健二との共同生活においていろいろ鍛えられた(だってあのひと放っとくとカロリーメイトとウィダーinゼリーで過ごすんだもん! 遺言聞いておきながらなんだって悪化してんだ!)
 それならいくつか結んであげるわね。台所に向かう母と別れて今度こそ広間にもどる。たぶんおかずののこりや酒の肴がぽつぽつ置いてありそうだが成長期的には炭水化物がほしいところなので母の申し出はありがたい。さすが母さん、わかってる。会えていない二年間で佳主馬の身長が伸びたように、同じく成長期が満了していなかった健二もまた伸びていて。非常識にもまだ伸びているらしい。なかなか縮まらない身長差八センチにもう止まってしまえと毎晩思う。
 ぺたぺた歩いて広間の鴨居をくぐれば、なんと言うか、あり得ない的な意味でワンダーランドだった。一部が。主に翔太が。一升瓶の首をつかんで真っ赤な顔でなにごとかをわめいて(呂律がまわっていないせいで意味不明)、それを健二が懸命になだめている(このあたりワンダーランド)。組んだひざの隙間にはプラスチックのカップをもった栄里佳がもぐりこんでいて、眠そうな様子もなくなにやらものすごくご機嫌だ(このあたりメルヘン)。おそらくは健二が自分よりも栄里佳になつかれているのが腹立たしいのだろうが根本的に翔太はうるさいのがわるい。その上で自分の好きな人に怒鳴り散らしてばかりいるのだからなつくわけがないだろう。下手すれば敵あつかいされたって文句は言えない。佳主馬個人としては最低でも二、三発はぶん殴りたい。健二が上田に来ることに消極的だったの理由に翔太への遠慮があったとしったときは本気でぼこぼこにしたかった(夏希と共闘でもしようか検討中)。
「あ、佳主馬くん」
 ふとこちらを見た健二が佳主馬に気がついた。顔いっぱいに助かったと書いてあるあたり翔太の相手は相当負担だったのだろう。酔いがまわりはじめている師匠や万作たちに適当な挨拶をして、使われた様子のないコップに麦茶を注いで健二のとなりに座りこむ。アルコールは成人してからで十分だ。なにより未成年だし。
「荷物置いてきた」
「わ、ごめんね。ありがとう」
「べつに。母さんがおにぎりもってきてくれるから」
「ほんと? さっきからなにも食べれてないんだよねえ」
 恥ずかしそうに健二がうしろ髪をかきあげる。畳に直接置いてあるコップの中身が水であるはずがないのでもしかして空っ腹で飲んでいるのかこのひと。家では飲まないので知らないがアルコールには強くなさそうなのに大丈夫なのか。思わず半目になってにらみつけた。両手でカップをもった栄里佳も首を反らせて健二を見あげる。
「けんじくん、ごはんまだなのー? たべなくちゃメッ、だよ?」
「ああ、うん。そうだね。今から佳主馬くんと食べるよ」
「えりかもたべるー!」
「おまえはもう食べたろ」
 いろいろなことに興味があって、同時に真似したがる妹を間髪容れずにたしなめる。あまり強く言うと泣かれるか拗ねられるかされるが、母のことだからきっと栄里佳の分のおにぎりも小さめに結んでいることだろう。まったくもって頭があがらない。ご機嫌取りのつもりで若干拗ねている栄里佳の頭を撫でてやりながらもう片方の手を伸ばしてサラダ菜に乗った唐揚げをつまむ。市販の粉ではなくてちゃんと肉自体に味を揉みこんで揚げてあるので冷めていても十分においしい。きっちりと油を切っているのでぎとぎとしていないからいくつでも食べられる感じ。醤油をベースに生姜を利かせている味つけから揚げたのはたぶん典子だろうとわかる。揚げる人それぞれで味がちがうから飽きもこない。こういうのに慣れてしまうと冷凍食品なんて食べられたものではなくて、健二とくだらない論争をしたのもいい思い出だ。指先についた油を舐めとりながら少しだけ健二のほうに寄って片あぐらをかく。
「で、どうしたの。これ」
 目だけで翔太を示せば、健二はあははと空笑う。どうせ碌でもないことだと思っていたがやはり碌でもなかったようだ。いい加減健二を認めている自分を認めてしまえばいいのに。
「また夏希姉のことでなんか言われた?」
「ううん、ちがうよ。あ、でも」
「ん」
「原因を置いていったのは先輩、かな」
 原因、と言ったとき。健二は一瞬だけ栄里佳に目を落とした。なるほど。てゆかその夏希はどこへ行った。佳主馬は麦茶をあおって首をひねる。
「もうちょっとくわしく」
「えっとね」
「かずにぃ! あのねあのね! けんじくんかっけーの! おみずごっくんしてしょうたにぃにかったの! すげーの!」
 瞬間、佳主馬はびしりと硬直した。自分でそれがわかったのだからとなりにいる健二にもまるわかりだろう、むしろ彼もぎょっとしている。けれどそれだけで済んでいるのはたぶんダメージが少ないからでクリティカルヒットを食らった佳主馬はたまったものではない。てゆか日本酒一気したのか健二さん。しかも勝ったのか健二さん。それはたしかにすごいし意外だしかっこいいけどええと今はそういうことじゃなくて。うさぎ柄のカップでジュースを飲む栄里佳が大きな目をぱちんとまばたかせてそれがすごいかわいい。かわいいけれどだからそれどころじゃなくて。
「栄里佳ちゃん」
「んー?」
 フリーズしてしまっている佳主馬に代わって先に復旧した健二がとまどいを笑顔に隠してお姫さまを呼ぶ。
「なあに?」
「あのね、ちょっとぼくのこと呼んでみてくれないかな」
 栄里佳は不思議そうにきょとりとまたたいて首をかしげた。
「けんじくん?」
「うん。じゃあ夏希先輩は?」
「なっちゃん」
「翔太兄は?」
「しょうたにぃ」
「……佳主馬くんは?」
「かずにぃ!」
 眠そうな様子もなく元気いっぱいな栄里佳が佳主馬に向かってにっこりする。ちょっと待ってだからなんで。
「なんで!?
 思わず声が引っくりかえった。大声をあげたせいで妹は肩をびくつかせたがジュースが揺れただけで済んだあたり親族の満場一致で亡き栄の字をあたえられただけある。胆力が半端ない。陣内家を継ぐのは夏希か栄里佳だな、と酒の席で冗談混じりに言った侘助が思い起こされる。
 反対に佳主馬は無意識に肩をわななかせた。犯人は見当がついている。そういう呼び方をいちばんに強要しはじめたやつだ。佳主馬自身が滅多に呼ばないから失念していた可能性。呼びやすさと、栄里佳が真似したがりの盛りということと、子ども同士が仲良くなるのに時間はいらないということをすっかり忘れていた。
「佳主馬くん……」
 同じように下手人を察したらしい健二が栄里佳をひざに乗せたままそっと佳主馬の肩をつかんだ。ふと連想があの夏につながる。ラブマシーンにしてやられて、感情で力を他人に向けてはならないという師匠の教えをやぶって翔太の鼻っ柱を殴りつけた、あの夏。あのときは自分でもびっくりするくらい易々と押さえこまれてしまったがたぶん今なら三分ともたないはず。あのときだって十五分もあれば絶対に競り勝ったと思う。身体的力関係ならば確実に佳主馬のほうが上。ただし腕力だけならばどっこいどっこいだ。馬鹿力め。
 さすがに年端もいかない妹の前で暴力を振るうのは教育的によくないので衝動のまま不満をぶつけるわけにもいかず、佳主馬は瞬時ににぎりしめていた拳をほどく。表情をくもらせている健二に渋々うなずいてみれせればあからさまにほっとされた。こういうところにも健二のやさしさ(てゆか愛?)を感じているあたり自分はこのひとのこと好きすぎるんじゃないかとときどき思う。いや、好きだけど。
 とりあえず翔太をシメるのは後まわしにして、今すべきは栄里佳の口調をなんとかすべきだろう。……百歩ゆずって呼ばれ方は佳主馬が慣れればいいとしてもかっけーだのすげーだのと男の子みたいな話し方はいただけない。なんのために努力したと思っている。自覚している異常に咄嗟について出る口がわるい佳主馬にとってそれなりの労苦だった。
 ふと、栄里佳が点けっぱなしのままだれにも見られていなかったテレビを指差して「あ!」目をかがやかせ、花が咲いたように大きく笑ってみせた。
「えりかね、きのう、かずにぃのうさしゃんバトってるのみたよ!」
 ちらりと横目で見えたテレビ画面(アナログ放送終了に際して太助がもってきたという薄型のプラズマテレビ)ではちょうど最高の相棒がOMCの宣伝にと運営側が用意した仁王像の巨大アバターの顎に得意のサマーソルトキックをたたきこんでいて。
「かっけー!」
 きゃらきゃらとはしゃぐ妹の声をBGMに、佳主馬はその場に沈没した。K・O!





easy angel, easy devil.
「あれー? かずにぃ、ねんねなの?」「うーん、きっとつかれちゃったんだねえ……」