又従姉の夏希がフィアンセと称して連れてきた(前提として婿取りなあたり夏希姉だと心底思う)小磯健二が女だと発覚したのはわりと早く、彼女が“彼”として親戚一同に紹介された日の翌日のことだ。たしかに住民票を見れば年齢から学歴からなにまでわかるけれど、小磯健二というあきらかな男の名前で検索できてしまった事実に気がついたのは曾祖母の葬式を終えた夜のことだ。
 もともと四日間だけ、という約束で恋人の振りをすることを了承したらしい健二は荷物も着替えもそれ相応にしか用意しておらず(にしてはレポートパッドだけは異様にストックがあった)、いくらなんでも着の身着のままではかわいそうだし夏場に不衛生だとして洗濯物をすべて取りあげられた健二はいま理香のお古である浴衣を着せられていた。水色の地に金魚が裾を泳ぐのになぜかくしゃっとした色鮮やかな帯。朱色に黄色にピンクに白。まるで子どもみたいなかわいらしい配色。あきらかに縁日とかそういうのに着ていく用だ。しきりに裾を気にして正座している様子から着慣れていないのがよくわかる。
 納戸の床は廊下と同じく板張りでつめたい。あまり正座慣れしていない感じもする健二にそれは拷問のような気もするが、だからって夏場に座布団を敷くのは間抜けっぽい。けっきょく佳主馬はどうすることもできずなにもしないままいつものようにノートパソコンの鍵盤をたたく。今晩はOMCではなくて、キング・カズマのユーザーと再契約を望む企業とのメール。正直にめんどうだ。あちらもビジネスなのだから仕方がないとして、佳主馬とて遊びのつもりはさらさらない。
 ぱちぱちと鍵盤を鳴らす。OMC中はコマンド入力がミスなくしっかり伝わるように力強くなるけれどメールとかその程度のことならばタイプ音はあまりうるさくならない。キータッチの正確さには自信がある。ただ普段以上の精密さがOMCには必要なだけだ。
 謝罪からはじまるメールを読んで、もともと作成してあったテンプレートをところどころ変更しては片っ端から送信しながらちらりと前髪の隙間からうしろを見る。
 納戸にはいってすぐ横にある棚の前が定位置になっている健二は佳主馬の邪魔にならないようにとおとなしく正座中だ。べつにはじめて遭遇したときのようにヘッドフォンでMIDIを聞いているわけでもないのに気を使っているのか話しかけてくるでもなく、きちんとそろえた膝の上に両手を置いてにこにこしている。絵に描いたような大和撫子、ここに極まれり。夏希じゃこうはいかないだろう、そもそも陣内の女がおとなしく三つ指ついたり三歩うしろを歩いたりするわけがなかった。男を立てつつ尻に敷くなんて常套手段だ。
「ねえ」
「へ? あ、はい!」
 浴衣のせいでさらに目立つ撫で肩がぴんともちあがった。ひざの上に置かれた手もぎゅうとにぎられて拳になる。
 妙に警戒されている気がして、佳主馬はからだごと健二のほうに向きなおった。
「座ってるだけでつまんなくないの?」
「え? うん。つまらなくなんてないよ」
「あ、そ」
 そうは言われたものの、ふたたびメールの返信作業をする気など完全に失せてしまっている。パソコンを載せている文机に肘をついて頬をくるんで雑談の体勢。べつに佳主馬が呼んだわけでも、健二が用あって来たわけでもないだろうけどほったらかしにしておくには気が引けた。なんとなく。
 なにか適当な話題でもあったかな。普段なら絶対に考えないようなコミュニケーションの糸口を検索する。あ、あった。
「そう言えばさ」
「うん。なになに?」
「本物?」
 首をかしげてみせれば、健二は「は?」目を見開いた。それもそうか。
「本物って、えっと、……なにが?」
「名前」
 なまえ、と健二が声には出さないまま口を動かす。ちょっとどころじゃなくて、だけど冷静におどろいていた。言うなれば明日出かける約束だったけど覚えてるよね、なんて言われたみたいな感じ。あるいは今さら過ぎて気にしていなかったを指摘されなかったみたいな。
 もしかして訊いてはいけないことだっただろうか。そのあたりが判然としないまま佳主馬はつづける。
「だって女の人じゃん。夏希姉の恋人の振りするための偽名じゃないの、それ」
 曾祖母の葬式を終えて、一応ぜんぶまるく収まってから冷静になってみてはじめて気になった。小磯健二の名前で検索できてしまった住民票。たぶんみんなぽつぽつ気がつきはじめていて、けれど健二に遠慮して訊けないことだ。翔太あたりは教えられないかぎりわからない気もするが。佳主馬ですら気づいた変なこと。名前だけでなくて、一人称も、短い髪も、服装も、仕草だってどこかおかしい。思いかえしてみればそのひとつひとつにつくった感じがなかった。あまりにも自然な男っぽい仕草。性別がちがうとわかった時点で逆にそれが不自然だ。
「えっとね」
 こまった風に健二が人差指で頬をかいた。よくよく見ればちゃんと女性的なのに、反対に言えば注視しなければそう見えないという矛盾。どう言ったら誤解にならないかな。そう独り言つ様子にかなしいとかさびしいとか、マイナス的な感情は見えなくて。
 ついに耐えられなくなったのか健二はひざを崩した。
「本当はお兄さんがいたんだ」
 会ったことないから実感ないけど、と健二。
「史一って言ってね、ぼくが生まれる前に風邪をこじらせて死んじゃったらしくて。てゆか。死んじゃったからぼくが生まれたって言ったほうが正しいかも。父さんも母さんも男の子がほしかったから。でもぼくはそうじゃなくて、でもふたりはあきらめられなかったみたい」
 なんだそれ。予想を軽々と超えたヘビィな話に佳主馬は絶句する。
 死ぬとか、生まれるとか。あまりにも身近な話だ。曾祖母が亡くなってまだ間がない。もうすぐ生まれてくる妹。それは別個のことであって同一でも連続でもない。それくらい曾祖母が死んだから妹が生まれるわけじゃないし、妹が生まれるから曾祖母が死んだわけじゃない。なにかがはいるためになにかが出ていく。そんな風に世界はできていない。そんなこと佳主馬にだってわかる。だから余計にわからない。壊れたから、なくなったから。まるで日用品かなにかのようにいのちを継ぎ足す、わからないのはそういう風に考えている人間――そう、健二の両親。
「……なにそれ」
 佳主馬はもう一度、今度は実際に声にしてくりかえす。
 さあ、なんなんだろうね。小首をかしげる健二の髪は短すぎて肩に流れない。
 裾の浅瀬を金魚が泳ぐ。少しだけはだけてかたちがくっきりした足首が見えた。運動をしている夏希とはちがって大きくくぼんだようにはなっていない、棒みたいにがりがりな白い足。目を凝らさなくても血管が透けて見えそうなそれはあきらかに男のそれではない。
 髪を伸ばして口調を直して、服だって夏希みたいなのを着ればちゃんと女の人に見えるのに。
 逆を言えばそうやってちゃんとしなければ本当の健二に会えないのだ(でも本当の健二さんなんて知らない)。
 訊ねたのは佳主馬だ。佳主馬から振った話題。みんなが気づきはじめていて、それで目をそらそうとしていたものを直視した自分の責任は負わなければならない。後悔はない。同情も、ない。健二がそう名づけられたことで得たことも経た時間もぜんぶぜんぶ佳主馬は知らないでいいことだ。掘りかえしてはいけないこと。だから訊いて聞いた佳主馬がショックを受ける意味はない。これはただの推測的共感にすぎなくて、わかったつもりになっているだけ。そう、健二は気持ちなどなにも言っていない。ただ事実をあるがままに言っただけ。佳主馬が訊いたから。それだけのこと。
 立てた片膝に腕を置いて、意識して深呼吸。落ち着け。間をあけるのは愚策。変なところで妙に聡いひとだから。言うことに迷って、ちょっと考えていました。そんな振りで。
「改名とかは、考えなかったの?」
 たしかそういったことに関するニューススレッドがOZで立っていた気がする。なんだかむずかしい名前のついた、性別の問題を抱えた人たちが改名したとかできたとか、そういうスレッド。
 けれど健二は「うーん」こまった風な微苦笑を浮かべて首をひねった。
「実は家庭裁判所にでも訴えてみようかと思ってたんだけどね、なんだかんだで呼ばれ慣れちゃってるし……それに」
 一度言葉を切って、健二はたたずまいをなおす。きちんとひざを正して、背中がぴんと伸びた。その動作に付随する意味の有無はわからず、浅い色を泳いでいた金魚は隠れてしまってもう見えない。
 うつむき加減だと思っていた顔は気がつけば真正面から佳主馬に向いていて、ぴたりと合わさった視線が前置きなくやわらいだ。
「それに、ぼくが健二じゃなかったら佳主馬くんに会えなかったかもしれないでしょう」
 思いがけないそれに佳主馬は目を見開いた。かあっと顔に血がのぼるのがよくわかって、唐突に早鐘をうちだした心臓が忌々しい。ええい、落ち着け心臓! どっどっど。エンジンかけっぱなしの車みたいな音が耳の奥にひびいて胸を押さえるも効果なし。直接的原因である健二はのん気にも、どうしたの、なんて首をかしげる始末だ。本当になんなんだ、このひと。
 夏希のフィアンセを演じるために連れてこらえた年上のお姉さん。金魚の泳ぐ水の色が思いのほか似合うあなたを見つけたのがぼくだったらよかったのに。そんな恥ずかしいセリフなど言えるはずなく、代わりというわけでもないが佳主馬はばかじゃないのと吐き捨てた。





デザートフィッシュ
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