※健二→佳主馬のつもり。かつ、健二がガチ……?



 健二には秘密がある。親友である佐久間にも言ってない、正確には誤魔化した。それは初恋のこと。佐久間が健二の家に泊まったときか、あるいは健二が佐久間の家に泊まったときか。もしかしたら部室で夜を明かしたときかもしれない。とりあえず寝入り端の話題としてトップ・スリーにはいるのがコイバナで(男だってコイバナくらいする。大半が下ネタだったりするけれど)。佐久間ともそういう話になった(むしろ佐久間としかそういう話をしない。恥ずかしくて死ねる)。
 そのときは前もって用意してある学童でいちばん若かった先生という答えをかえしたけれど本当はちがう。健二の初恋は(自分であれは恋だという意識があるのは)小学校四年生のときの、となりのクラスの担任の先生だ。集会だとか自習の時間くらいにしか直接かかわっていないその先生はあまり家にいない父親に肩や背中が似ていたのをいまでも覚えている。となりのクラスの先生はずっととなりのクラスの先生のまま、健二が卒業するよりも早くに異動してしまった。これは先日卒業文集をめくって気がついたことだが佐久間の担任だったようだ。
 二回目は中学生のとき。三年生の六月だけ教室にいた数学の教育実習生。佐久間とは学区がちがったから学校がべつで、言っても仕方がないからこれも内緒にしている。考えてみれば当時の健二との年の差は十もなかったのだ。昔から数学は好きだったので内気な自分にしてみればよく話していたと思う。
 しかし健二の学校、というか学年では女子のあいだでだけ(男子にとって)残酷なゲームが流行っていて。それはなにかに負けた女子がだれかに告白するというもので。例に漏れず地味で冴えない男子だった健二は何度かそのゲームの標的にされて、あるときその現場を教育実習生に見られた。事情を知っていた彼は健二をなぐさめてくれたけれど彼も彼で告白してきた女子を食い物しているという噂が生徒のあいだで蔓延していた。期間を終えたのか、噂が本当だったのかは知らないけれど彼は七月になる前に学校を去った。体育館のステージで挨拶をする教育実習生の頬にガーゼが当てられていたのがやけに頭にのこっている。
 高校では示し合わせたわけでもないのに佐久間といっしょになって。部員数が廃部寸前の物理部にはいって部室を乗っ取って。ふたりでナンパしたり失敗したり、飛びこんできた夏希先輩(最初は篠原先輩って呼んでたけど他人行儀だからって改めさせられたんだっけ)にOZの使い方を教えて。夏希が学校のアイドルだってことは知っていたからちょっと得した気分になったりもしたけれどやっぱりそれはあこがれで、恋じゃないのはわかっていた。恋じゃなかったのにバイトを引き受けたのはたとえ恋じゃなくても健二は夏希を好きだったからだ。
 上田に来て、はじめての田舎、はじめての大きな日本家屋(武家屋敷?)、はじめての大人数での食事に圧倒されて。思わず佐久間に電話してしまったのは仕方がなかったと思う。愚痴を聞いてほしい気分だったし、なにより佐久間の声を聞かないのはなんとなく落ち着かなくて。高校にはいってからは毎日あの声を聞いているような気がする。クラスがちがっても部室で会うし、学校がなくてもOZで駄弁るのはよくあることだ。
 外から見ても無駄に広い(きっと住んでいるのは数人なのに、こんなに広くてさびしくはならないのだろうか)家に案の定迷って。けれど健二は迷った先で佳主馬に会った。
 翌朝からはそれもう非常事態だったから深くは考えなかったけれど。状況が落ち着いてみればひどいくらい惹かれていた気がする。自分がきたない生き物に思えるくらい、ひどく。たとえばタンクトップやハーフパンツからのびる日に焼けた手足だとか、パソコンのキーをたたく細い指や、片方が長い前髪に隠れたどこか気だるそうな目。
 これは恋だろうか。いいや、恋であるはずがない。恋であってはならない。健二が秘密にしている、となりの先生が好きだったこと、数学の教育実習生に好意を抱いていたこと、佐久間とまたいっしょにいられてうれしいこともぜんぶぜんぶ胸に抱えて隠して閉じこめたままお墓にもっていくつもりだから。だれにも言わない、打ち明けないつもりだった。だからこれは恋じゃない。

 なにより、明日。明日になれば健二は東京に帰るのだ。

 背中がつめたい。夏だというのに板張りの床は冷えていて、その温度がTシャツに浸みこんでくる。水みたいなイメージ。倒れたときに頭を打ったと思ったけどそんな痛みなど気にならないくらいに、たとえるなら走馬灯のように健二は自分の恋なんて恥ずかしい思い出を振りかえっていた。
 ぱた、ぱたぱた。雫が降ってきた咄嗟に目を閉じかけたのを理性でもってむりやり留める。生理現象であってもいまだけは目を逸らしてはいけない場面だ。なにより健二がそれを見ていたかった。
 最初は明かりのない納戸でふたりならんでノートパソコンの画面を見ていただけで、佳主馬がリズムカルにキーをたたくのをBGMにして主に健二が話をして。そのなかで東京に帰ることを伝えた。健二がそのことを夏希から聞いたのも数時間前の夕食の場で、そこに佳主馬はいなかったので必然的に伝言ゲーム。ぼくもさっきから聞いたんだけどね、夏希先輩が明日帰るよって。
 アドレスもなにも交換していないし、なにより佳主馬とは偶然会っただけだからきっと細くなっていくだろう縁はちょっとざんねんだったけどそれは健二の我儘で。佳主馬は中学生だからきっとすぐに健二のことなんか忘れてしまうだろう。恋ではないと決めた気持ちを片づけてしまうこと(捨てられないから不便だよね、気持ちって)を決めた健二にとってそれはとても都合のいいことで。いいことのはずだったのに。
 音をたてて雫が落ちてくる。あの日は横から見えた光景を、いま健二は真下から見ている。前髪が垂れているから見える両目からぽたぽたと落ちてくる。
 また会えるかな、だったか。もう会えないのかな、だったか。来年の夏ここに来るつもりのない健二はそのどちらかを言ったと思う。自分で声にしたのにあまり覚えていない。キーをたたいていた佳主馬の手が突然止まって、どうしたのって訊こうとして顔を覗きこんだ瞬間に突き飛ばされた。あっと言う間もなく佳主馬は健二の腹にまたがって、両手は手のひらを広げて檻みたいに健二の頭の横にある。
 涙を落とす佳主馬は時おりしゃくりあげるだけでなにも言わない。ただ、濡れた両目は爛々として健二をにらみつけている。実際はぼやけてしまって見えていないかもしれないが。情緒不安定な。突然押し倒したかと思えば泣き出してでもなにも言わない佳主馬に健二はなにも言えない。言わない。自分の気持ちに嘘をついている健二にはなにも言ってくれない佳主馬に応えることはできない。
 ぱたり。まばたきをした拍子にまた雫が降ってくる。
 だんだんと赤く充血していく目が痛々しくて、健二はとくに拘束されているわけでもない右手を緩慢にもちあげた。そ、と触れる。皮膚と皮膚とが接した瞬間びくりとふるえたのが直接伝わってきて。同時にわかる温度に健二はぱちりと意識してまたたいた。
 つめたい。
 音にはせずに口のなかでだけ転がす。夏で、先ほど風呂から出てきたばかりだというのに佳主馬の頬はおどろくほど冷えていた。血の気が下がっているのだ。では下がっていった血はどこに溜まっているのか――考えてみてふと思いたつ。目が赤いのはそういうわけだろうか。
 このままだとキング・カズマみたいになっちゃうよ。
 言葉にしないまま健二はひそりと笑んだ。びっくりしたように佳主馬が目を見開いて、ひくっと息を呑んだ。なにをそんなにおどろいているのだろう。ちょっとだけ不思議に思いながら健二は佳主馬のつめたくてやわらかい頬をゆるゆると撫でる。
 だれにも言わないつもりだった秘密の話。お墓までもっていこうと決めてしまっていた気持ちのこと。それとも健二から言ってあげたほうがいいのだろうか。けれども佳主馬はなにも言わないでただ泣いているだけだから健二が決めてしまったことでいいのかわからない。わからないことは、あまり得意じゃない。
 はく、と佳主馬が酸素不足の魚のように口を開けた。しかしやっぱり声は出てこないままだ。開けたり閉じたり、それがひどくもどかしい。健二としては言ってもらいたいのに。でないと健二はなにも言えないのに。
 それとも言いたくないのだろうか。だとすればとてもかなしいことだけれど、佳主馬が言いたくないのであれは仕方がない。健二は頬に触れた手をそろりと動かす。ごめんね、ごめんなさい。そんなに言いたくなかった? すっかり冷えてしまっているなめらかな肌に手を這わせて、健二は喉をふるわせる。
 だけどね。
「ぼくは佳主馬くんが好きだよ」





また会えるときまでおやすみなさい