洗い桶に水を溜めて、健二は食器を洗う。そんなことしなくていいのに、と佳主馬が言えば、水道代が高くなるとわるいから、なんてかえされた。洗い物しても、先ほど見た庖丁のあつかいにしてみても手慣れた感じがして、感心すると同時に佳主馬にはそれがなぜか不愉快に思えた。
 お腹のふくらみが目立つようになったころから佳主馬は母を手伝うようになったけれどそれでもここまで手際良くないし、たぶんここにあつまっている男どもはだれを見てもそんな感じだ。女系家族なせいで男は役立たずあつかい。どうせ邪魔になるだけだからと台所は立入禁止だ。亡くなった曾祖母や夏希あたりは男児たるもの台所に立ち入るべからずとか言いそうだがとにかく陣内の男は総じて料理ができない。できてインスタントラーメンとか、そのあたり。かく言う佳主馬も庖丁をもったのは調理実習と家庭科の宿題をこなさねばならないときくらいだ。そういうのはたぶん料理ができるとは言わないだろう。
 濡れた布巾でテーブルを拭きながら佳主馬は洗い物をしている健二の背中を見やる。水色のポロシャツ。エプロンをつけていても違和感がないようなうすい背中が世界をまもったのかと思うととても不思議な感じ。それはきちんと事実で、佳主馬はそれをとてもちかいところで見た。とびっきりの特等席。ぜんぶ終わったから言えることだけれどあのときの健二はとてもかっこよかった。佳主馬なんか、キング・カズマなんか目じゃないくらい強かった。まだ負けてない。力強い言葉はまだ耳の奥で反響している。たぶん、ずっとわすれない。
 ざぶざぶと健二が水を鳴らす。翔太に連れて行かれたあのとき、家ではいつもひとりなのだと曾祖母に言っていた。父親は単身赴任、母親も仕事。仲はあまりよくない。大勢でのごはんがめずらしくて楽しいと言っていたのはまだ鮮明な記憶だ。
 佳主馬とて名古屋に帰れば両親と自分の三人で、もうすぐ四人になるけれど、それでも学校から帰ってくればいつもおかえりという母の声があって。まとまった休みがあればこうして上田の家に来ていたからさみしいとか、そういう気持ちにはあまり縁がない。師匠のほかにもOZを介しての交流もあった。そもそも陣内の一族に夫婦仲や家族関係が険悪といった家庭はない。佳主馬が知らないだけかもしれないが広間にあつまる面々に見るかぎりにその可能性はひくい。侘助といった例外もあるが、あれはまたべつだろう(実は佳主馬は侘助のことをほとんど覚えていない。十年前といったらまだ三歳になるかならないかのころだから当然だと主張する。閑話休題)。
 だから訊いていいのかわからない。ふたりきりだと思っていた留守番と、お昼ごはん。佳主馬はふたりきりでよかったけれど、了平が顔を出してからのほうが健二はより楽しそうだったから。
「ねえ」
「ん? なに、佳主馬くん」
「おにいさんて、料理得意なの?」
「得意ってほどでもないけど、かんたんなものならできるよ」
「ふうん」
 少し遠まわしに訊きすぎただろうか。意図したものより手前の回答に佳主馬は小さく相槌をうつ。お世辞にも聡いとは言えないひとだ。にぶい。動揺がすぐ顔に出る。だからこそ健二に対しては多少強引でも歯に衣着せぬ物言いのほうが有効だし、佳主馬もまたオブラートに包んだ言い方は慣れていないので、どうにも伝わらない。しかしあまりストレートに訊いてもダイレクトに受け止められそうでこわいのもたしかだ。
 ああ、面倒だな。テーブルを拭く手を止めて佳主馬は肩を落とした。OZとはちがう、顔が見えて実際に触れられるというだけでコミュニケーションはひどく疲れる。もともとOZでも師匠に少林寺拳法を習うか、OMCに参加するか、ときどきショッピングツールとして利用するかくらいでコミュニケーションはしていなかったから比較対象にはならないが、それでもやはり。リアルにしろ、OZにしろ。佳主馬は言葉の選び方があまり上手くない。声も抑揚を欠いていて、我ながら冷淡に聞こえる。朗読は苦手。言葉に感情を乗せるのはとてもむずかしいことだ。
「でも、そういうこと訊くなんてめずらしいね」
 反射的に、それはどういう意味だとかえしかけて、佳主馬は一度言葉を呑みこんだ。そんな言いをしたのでは健二はきっとあわてて謝ってたくさん理由を探してしまう。言い訳は自分を隠すためにするもの。それなら多少の不快くらい我慢する。とりあえず今だけは。だってじゃないと話ができないんだから、仕方ない。
 変に空いた間を誤魔化すのに「べつに」とはさんで、佳主馬はつづける。
「少しはできたほうがいいのかと思っただけ」
「ああ! 妹さん生まれたら聖美さんたいへんだから」
「そんなとこ」
 嘘ではないのでうなずいておく。妹が生まれたら母がいそがしくなるのは目に見えているし、恭平の世話をする由美を見ていたら助けてあげなくちゃと思うようになった。まだ数えられるくらい最近までは妹ができるという感覚すら曖昧だったのに、あの一件のせいで価値観がぐるっと半回転はしている。あと、自分がいかにおとなの振りをした子どもだったか。それは師匠のおかげで、でもいちばんは健二の影響だ。
 広間の座卓にくらべればいくらも小さいテーブルを端から端まで拭き終えた布巾を適当にたたんで健二のとなりに立つ。鍋の底をこすっていた彼は佳主馬からそれを受け取るとせめいスペースにそれを置いた。かるく水をすすいだスポンジを受け皿に乗せ、蛇口をひねる手つきなど母のそれと大差なくて。
「で、やっぱり慣れ? すぐにはできないもの?」
「うーん、どうだろう。麺類ならお湯沸かせれば茹でられるし、カレーとかもつくり方のとおりにやれば簡単だと思うけど、ちょっと凝ったやつとか、見た目もきれいにつくるのは何度もつくらないとダメかも」
「たとえば?」
「ぼくの場合はたまご焼きと、ホットケーキ」
「……ホットケーキ?」
 たまご焼きはなんとなくわかる。お弁当にはいっていたり、ときどき朝ごはんのおかずとしてならんでいたりするそれは焦がさずに焼くことがむずかしいと母が嘆いているのを聞いたことがある。ちなみにいちばん上手く焼けるのは大伯母ではなくて奈々らしい(母よりもずっと若いあの人のことをおばさんあつかいするのは気が引ける)。
 その一方で、ホットケーキ。
 佳主馬は邪魔にならない位置に立ったまま、シンクの外に水を撥ね散らかさないように皿やコップをすすいだのを水切りに立てかけて、最後にのこった木桶をどうすべきか頭を悩ませている健二を見あげる。
「練習したの? ホットケーキ」
「ん? うん。まあ……ちょっとちがうけど、結果的に」
「なにそれ。どういうこと?」
 少しきつい口調になってしまったが佳主馬はそれを見逃すことにした。常にひかえめでいたところでコミュニケーションになるわけではなく、話題が話題だ。そう、ホットケーキくらい佳主馬でも焼ける。焼けるが、本当に焼けるだけだ。きれいにまるくならないし、黒焦げだったり生焼けだったり、なにより箱の写真みたいに厚くなんて焼けない。母ですらこんがりきつね色ではなくてまだらな焼き目になる。なるほど、思いかえしてみればたしかにむずかしい。しかし、健二の口振りでは焼けるようになりたくて焼いたわけではなさそうで(そもそもホットケーキをきれいに焼けるようになりたいって、なに)。
 けっきょく木桶はシンクの縁に引っかけておくことにしたらしく、引っくりかえして脇に寄せると健二は先ほど佳主馬が渡した布巾を流水ですすぎながら「えっと」順番を決めるみたいに頭上の棚のあたりに目をやった。
「かっこわるいからあまり言いたくないんだけど、夏希先輩たちには言わないでね」
 白い布巾をかたくしぼって、健二はそう前置きする。
「ぼくね、小学生の低学年くらいから鍵っ子だったんだ。あ、鍵っ子って言うのは親がはたらいてて家にだれもいないから家の鍵をもたされている子のことなんだけど」
「知ってる。それで?」
「うん。そのころは母さんとごはん食べててね。でもまだ土曜日に学校があったからお昼くらいに帰るんだけど、だれもいないんだ。当たり前なんだけど、会社は休みじゃないから。それで、テーブルにはメモと冷めたごはんが置いてあった。そのうち週休二日制になって土曜日は休みで、月曜から金曜までは時間割が増えて帰るのが遅くなって。小四だか小五くらいのときに父さんがホットケーキミックスをやたら買ってきたことがあって、理由は忘れちゃったけど、あれは笑ったなあ」
 だからかな、今でも土曜日のお昼ごはんはホットケーキってイメージなんだよね。照れたように濡れた手で頬をかく健二にかなしみだとかは見えない。彼にとっての当たり前を言っているだけ。もう過ぎたことで、これからも過ぎていくこと。
 なにか言わなくちゃ。そう考えて口をひらいて、のどが変にかわいていることに気がついた。佳主馬は唾を飲みこんで、そうしたら今度はなにを言えばいいのかがわからなくなった。パソコンとちがって辞書ツールなんてないから一所懸命探すけれど見つからない。でも、なにも言わないのがいちばんよくないことだというのは佳主馬にもわかっていた。健二はお人好しなうえにやさしいから。
「さびしく、なかったの……?」
 けっきょく出てきたのはそんなありきたりの言葉で。声なんてふるえていた。もっとちがう言い方があったはずなのに(たとえば彼を傷つけないでもいいような)。佳主馬はそんなものを知らない。年齢のせいにはしたくなんかない。師匠は中学生でもおとなだと言ったけれどやっぱり佳主馬はおとななんかじゃないのだ。
「さびしかったよ」
 ささやくような声はいかにも平気そうに聞こえる。
「さびしくて、ごはんは食べるんだけど何度も吐いた」
 水気をしぼりきった布巾を吊るすと、入れ替わりに陣内水産とプリントされているかわいた布を引き下ろして健二は水切りにならんだ食器をぬぐっていく。食器同士がぶつかるたびに甲高い音がして、それをぐしゃぐしゃの気持ちのままぼんやりと見ていた佳主馬はあれを片づけるのはぼくなんだろうと思った。
 ひょろひょろした手足。うすっぺらいからだ。それでも夏希が東京からもってきた大荷物を苦でもなく運べるくらいには筋肉がついていて。健二が育った環境を佳主馬は想像することはむずかしかった。介護福祉士としてはたらく母は変則なりにシフトを組んでの仕事だったらしく(これは小学生のとき学活の課題で知ったことだ)家に帰ればたいていリビングでくつろいでいるか、台所でごはんの準備をしている。靴を脱いで手洗いうがいをすればすぐさま自室に引っこんでしまっているがそれでも母が家のどこにいるのかを確認していたことに佳主馬は今さら気がついた。ただいまを言っても言わなくてもきちんとおかえりがあった。だからここまでおどろいているのだと自分を省みて思う。当然だと信じてうたがわなかったことが否定されて、だから。「ああ、でも」思考の線を遮るみたいなそれに佳主馬はのろのろと健二を見た。おねがい、もうしゃべらないで。そう言いたくてたまらない。話をせがんだのは佳主馬なのに。
「さすがに長い休みのときは学童に通ってて、佐久間と会ったのも学童だったっけ。中学にあがってからはお金が置いてあったりして、自分でちゃんとごはんつくるようになったのはそのころ」
 今じゃあ炒飯とか得意だよ、と。なんでもない風に健二が笑った。彼にとってはなんでもないのかもしれない。けれどどうでもいいことではないからあのとき彼は曾祖母にああ言ったのだろう。ささいな衝撃をあたえた本音を聞いたのは曾祖母だけではなかったから、あの日から健二の取り皿は料理があふれんばかり盛られている。だれもがあれやこれやと載せていくからで、とくに師匠は健二がいか刺しを気に入ったと知れてかなりよろこんでいた。夏希もまた甲斐甲斐しく世話を焼いているようで、一部をのぞいたおとなにとってはそれが微笑ましいらしいが佳主馬にはちっともおもしろくない。
 ぐっとこぶしをにぎりしめる。くやしい。訊いてはいけないことを訊いた。きっと暴いてはいけなかったこと。少なくとも、今の佳主馬が聞いていいことではなかった。たぶん夏希でもたりないだろう。それならだれならいいのか。曾祖母なら? サクマなら? それともべつの人? くやしい、くやしい。聞いたのは自分なのに役者不足なのがくやしい(本当はもっとちがう理由。だけど今は目を逸らす)、だったらたりない分を埋めなくちゃ(だれよりもたりないのは本当だから)。くやしい気持ちを呑みこんで、佳主馬は顔をあげる。
「明日」
「え?」
 おどろいたような声をあげて、はじめて健二がこちらを見た。きょとんとした表情で何度もまばたきをして首をかしげる。
 五日前はあんなにおどおどしていたのに。まるで表情のつくり方が小動物だと思いながら佳主馬はポロシャツの裾をつかむ。
「明日。どうせ暇でしょ。おにいさん、デートだから。ぼくと」
 瞬間、健二の顔が真っ赤に染まった。
「で、でででデートって……!」
 あきらかに動揺して上ずっている声に佳主馬は小さく笑った。ともすればグラスを落としてしまいそうなのを見かねて「落ち着きなよ」いつかみたいに言ってやる。
「なんてね。ケータイ見に行くだけ」
「け、ケータイ? 佳主馬くん、ケータイ買うの?」
「ちがう。おにいさんの。アカウント、取りなおすんでしょ」
「そのつもりだけど、べつに急ぐわけじゃないし。東京に帰ってからでも……」
「ダメ。こういうのは早いほうがいいって、おにいさんもわかるよね」
「そりゃそうだけど、でもお金とか……」
「貸してあげる。なんなら全額出しあげようか?」
 なにを渋っているのかあれこれ理由をもち出してくる健二に佳主馬は本気四割のいじわるを言ってみた。実際にOMCのスポンサーからいくらか振りこまれているから佳主馬の電子マネーバンクはそこらのサラリーマンよりも文字通り桁ちがいだ。なにかのテストプレヤーだったり、ただの宣伝効果だったり。株なんかよりずっと健全だと思う。振りこまれる一方で減らないお金は下手すると両親の給料を合わせた額より多いかもしれなくて。それが母には複雑らしいのだけれど。
 案の定、健二は顔を赤くしたり青くしたりで首をぶんぶん音がしそうな勢いで左右に振った。
「結構です! てゆか、中学生が軽々しくそういうこと言ったらダメです!」
「どうでもいいよ、そんなの」
 あともうひと押しかな、と佳主馬は積みあげられた食器に手を伸ばす。小鉢、皿、箸。水気をていねいに拭きとられたそれらを定位置に片づけて、食器棚のガラス戸をすべらせると健二を振りかえった。





残照レディネス
(で、行くの、行かないの? ちなみに答えは聞いてないから)(それ意味ないよね!)