打ちあげもなにもぜんぶ断って借りてきた優勝旗をかついですっ飛んで行った大ばーちゃん家。きっとよろこんでくれると、よくやったねって褒めてくれると思ったのに、大ばーちゃんは大好きだった朝顔にかこまれて額縁のなかで笑っていて。
 あと、城みたいだった家はむちゃくちゃで、親戚一同にまざって知らないやつがいた。

 小磯健二です。このたびは優勝、おめでとうございます。
 大ばーちゃんの葬式の晩、了平の甲子園行きを祝う宴会の席でていねいに頭を下げられた(しめやかじゃないところが本当にウチらしい)。佳主馬と夏希ちゃんにはさまれて座っているせいか、顔も半袖の先の腕も首の裏も真っ白だったのがやけに印象的だった。鼻の穴にまるめたティッシュがつっこまれていたのがすごい気になったけど、なんでも夏希ちゃんの彼氏らしい。大ばーちゃんも認めたって聞いてまた泣けてきてしまって半分くらいしか聞こえなかったが東京から来て向こうにもどってもひとりだから夏希ちゃんが帰るまでこちらにいるのだそうだ。数学が超できて、ほかの教科もそこそこで、同い年だからあんたも勉強見てもらいなさいとも言われた。そんなこと言われても了平が上田にいられるのは一週間もない。早いうちに兵庫へ行って調整しなければならないのだ。
「……あー」
 起きたら日が高かった、なんてのはよくあること。試合の翌日なんかとくに。最近は連続で試合があって死ぬかと思ったから爆睡して納得だ。ふだんなら朝飯のとき容赦なくチビたちに起こされるものだが今回ばかりは放っておかれたのだろう。夏用のうすい布団をのけて背筋を伸ばせば心なしか肩が張っている気がして、あとでだれかに頼んでもんでもらおうとひねった腰をもどしたら腹がぐうと鳴った。
 腹をひと撫でして、了平はタオルをつかんで蚊帳を出た。日差しがきつい。気温はまだまだあがるだろう。蝉の声が昨日よりも多く聞こえる。
 湧き水を引いた水場で顔を洗い、タオルを首に引っかけて家のなかを歩きまわるも人影はほとんどない。大方仕事や買い出しや挨拶まわりだとわかるがめずらしい。了平にとってここはにぎやかなところだ。チビたちまでいないからそれは余計なのかもしれない。水桶に浸された笊にトマトが浮いていたのでそれを手に取ってかじる。よく冷えていて味がわからず、塩がほしいなあと思いながらもうひと口。
 固形物が胃に落ちたからか自己主張するようにもう一度腹が鳴った。昨夜の宴会ではたらふく食ったというのにスポーツマンのからだというのは燃費がわるい。野球をしているあいだは水分だけもなんとなるのに(休憩中とか終わったあとでがっつり食う。腹が減るとなんでか怪我するから)。あとはたぶん気がゆるんでいるのもあるだろう。昨夜泣きそうになりながら見せてもらった大ばーちゃんの遺言書にもあった、腹が空いているのはよくないって。
 ぺたぺたとジャージのまま台所に向かう。米さえ炊けていれば適当ににぎって、なければ畑へ行ってなにか採ってくるつもりだ。ふと見あげた居間の時計は十一時過ぎ。トマトじゃ腹の足しにもならないがそのうちだれか帰ってくるだろうし。とにかく今はこの空腹が誤魔化せればそれでいい。
 納戸の前を通りすぎたとき、昼間でも暗いそこがちかちかしていた気がして同じ歩幅で後退。理香さんのものだと思うふるい少女漫画が多く積まれたそこにはノートパソコンが置いてあって、OZへのログインページが開きっぱなしになっていた。こんなところまで来てパソコンなんかいじるのはたぶん佳主馬だ。けれど当の本人のすがたはない。さすがに点けっぱなしで出かけるはずはないから家にはいるのだろう。無駄に広い家だ、どこにいるかなんて見当もつかない。勝手にさわって怒られてもいやなので(おととい翔太兄が鼻っ柱を殴られたばかりらしい。なにやったんだか)納戸にははいらずに通りすぎる。また腹が鳴った。
 台所の暖簾をくぐる瞬間、勝手口からはいったほうが早かったことに気がついて、しかし思わず敷居を踏みそうになって大きく脚をひらく。以前襖の敷居を踏んだとき、大ばーちゃんに叱られたことを思い出した。
 敷居を踏みつけかけた原因は眉をひそめて了平ににらむような視線を投げつけている。
「……なに」
「なに、って。佳主馬こそなにやってんだよ」
「見てわかんない? お昼ごはんの手伝い」
 無人だと思っていた台所には佳主馬がいて、三脚ある椅子のうちのひとつに足ごと乗せて麦茶を飲んでいた。テーブルには汗をかいてびしょびしょになったグラスがもうひとつ。佳主馬がここにいるということは残っているのは聖美おばさんだろうか。いやいや、そもそも佳主馬が台所にいる自体おかしい。庭で万助じいちゃんと取っ組み合いしているか、飯とか風呂とか。それ以外は納戸にいたはず。少なくとも春に会ったときは。
「手伝いっておまえ……」
 テーブルの上にはグラスのほかに茹でたトウモロコシが皿に山積みになっていてラップがかけられていて、これはきっと冷めている。あとは鍋がぐらぐら沸騰して湯気をあげているくらいだ。そのとなりには俎板と庖丁が出ているけれどとくに切られる予定のものも切られたものもない。お湯を沸かして調理器具の準備なんて、それじゃあただの飯事だ。あるいは中一なんてこんなものだろうか。口に出したらなにをされるかわからないので突っ込む代わりにトマトをかじる。弾けた汁が手首を伝うのを舐めとったとき、佳主馬がさらに目を細めた。
「ていうか、それ」
「え?」
「そのトマト。どっからもってきたの」
 どことなく咎めるような目線に了平は首をかしげる。畑で採れた野菜が外の水場で冷やしてあるのなんていつものことだ。基本的にそのとき食べる分だけ食べるときに採ってくるので常にあるわけではないが、それでもチビたちのおやつ用にとトマトやら胡瓜やらは常備されている。食事の支度中ならまだしも、今まで勝手に食べて怒られたことはない。
 だんだんあきれたように表情を変える佳主馬になにか言ってやろうと(たとえばこの現状だとか)口をひらこうとしたのと同時に、ぎいとドアノブがまわって勝手口が開いた。
「佳主馬くん、お待たせ。なんかトマトなくなってたから畑まで行ってきちゃった」
 ひょこり。そんな効果音がぴったりな動きでサンダルを脱いであがってきたのは小磯で。了平にとってはまだまだ未知の、けれど大ばーちゃんが認めた夏希ちゃんの彼氏。あたらしい“家族”の一員。小わきに抱えた笊をもちあげるときにでも跳ねたのか水色のポロシャツの裾がまだら模様に濡れていた。
「ちゃんと採ってきたと思ったんだけど」
「犯人いるよ。目の前」
「え?」
「あ……」
 顔あげた小磯と目が合った。静電気みたいな音がしそうだったそれに思わずうろたえる。本気でおどろいていたようだった色白の彼が酸素不足の金魚みたいに口をぱくぱくさせて、それから照れたように髪をかきながら頭を下げた。
「えと、おはようございます」
「え、あ、どうも……」
 時間としては不適切。しかし小磯のじれったいそれに釣られるように了平もまた同様に頭を下げた。もしキャップを被っていたのであればつばをもって下ろすみたいに。そこではたと気がつく。なんだこれ。
「ねえ」
 だから、割ってはいった佳主馬が救いに思えた。
「お湯、こぼれそうなんだけど」
「うそ!」
 引っくりかえった声をあげて鍋を確認すると、小磯はきゅうりの載った笊を投げる勢いでシンクに落として水切りに置いてあったグラスに水を注ぐ。
「み、水! 差し水しないと」
 今にも噴きこぼれそうだった鍋の湯が円を描いて加えられた水によって鎮まるのが了平の位置からでもわかった。ひと仕事終えたように小磯は肩を落とすと、すぐそばにあった白い長方形の包装を破かずにていねいに開け、やはり白い束をまとめてあった紙テープを剥がしてふたたびぐらぐらし出した鍋にきれいな扇状にして落とす。
 そうめん、と了平は口のなかでつぶやいて。浮かんだ疑問をそのままにうすっぺらい背中にぶつけた。
「なんであんたが昼飯の用意してんスか?」
 びくりとポロシャツを着た肩が跳ねて。あ、失敗したなと思ったが言ってしまったものは仕方がない。おそるおそるといった風に了平を振りかえった小磯の視線は完全に泳いでしまっていた。および腰というか。
「えっと、それは……」
「母さんや叔母さんたちは買い物。師匠たちは仕事で、理一さんや父さんは荷物もちについていった。夏希姉とチビたちもいっしょ」
「それで、なんだか夕方までかかるみたいで、さっき連絡が」
「家にいるのぼくたちだけだから。適当に食べてろってさ」
 猫背であるイメージのない佳主馬が背中をまるめるようにして麦茶をちびりと飲んだ。小磯はへらりと笑う。
 抜群のコンビネーション。なによりもあの佳主馬がここまで懐いているのがめずらしい。万助じいちゃん以外といっしょにいるイメージなどなかっただけにおどろきも一入だ。パソコンをほっぽり出してまでくっついているくらいだからよっぽど気に入ったんだろう。自分にはちっとも懐かなかったくせに、と思わないでもない了平だったが今はさておく。
 ふたりの話を総合するに、おとなと子どもたちは全員不在で、いるのは自分と佳主馬と小磯だけで、夕方まで帰ってこないから昼飯をつくっている。言われたままをならべただけだが整理はついた。が、いくら大ばーちゃんに認められたからってふつう一族の人間でもないいわゆる“お客さん”に台所をあずけたりするものだろうか。たしかに佳主馬はしっかりしているし少林寺拳法を万助じいちゃんに習っているからってまだ中一だ。そこまで信用していいのだろうか。まだ碌な会話をしていない了平にとってみれば不可解だが、まあ、それも話してみればわかるだろう。頭で考えるのはあまり得意ではない。大ばーちゃんの目に狂いがあるはずないからきっとわるいやつじゃない。
「もう茹だるので、座って待っててください」
 うながされて、手前にあった椅子をかるく引いて座る。なんか新婚っぽいやり取りだなあと思ったら、そんな了平の考えを悟ったらしい佳主馬がうざったそうな目を向けてきた。こう、ゴキブリでも見るような(自分で言ってへこんだ)。どことなく険しい、むしろ刺々しいものまで混ざっている。最近の中学生はそこまで潔癖なのか。
「あ、佳主馬くん。了平さんに麦茶出してあげてよ」
「なんでぼくが」
「だって、他人さまん家の冷蔵庫開けるのって気が引けない?」
「……それ、すごい今さらだと思う」
 そうかなあ、と小磯は首をかしげたが。了平としては佳主馬に同意だ。冷蔵庫を開けるよりも台所に立つことのほうがふつう遠慮したいものだと思うが、この様子じゃ女性陣のだれかにでも押し切られたのだろう。佳主馬はため息を吐いて椅子から降りると食器棚からグラスを出してくると氷を入れて、いかにもといったくすんだ金色のまるい薬缶から麦茶を注いだ。麦茶は夏のあいだもっとも消費される水分だ。いちいち冷やしていたのでは間に合わないので常に常温で置いてあって、冷たいのがほしければ氷を入れるのがルールだ。その氷もグラスひとつでふたつまで。麦茶は最後に飲みきったやつが沸かすことになっている。「ん」了平の前にグラスが置かれて、すぐさま溶けて小さくなった氷が音をたてた。
「さんきゅ」
「べつに」
 心底どうでもよさそうにかえして先ほどと同じ態勢にもどった佳主馬は茶葉が底にたまっている飲みかけのグラスに口をつけた。そうしているとたしかに手伝いをしているように見えるが、やはり佳主馬のイメージには合わない。むしろこいつが台所にいる時点で違和感があるのだ。もちろん他人のことを言えない自覚はある。
 まるで鴨の親子。思いついたそれを浮かべながら麦茶をあおる。だいたい、佳主馬のことだから聖美おばさんに言われても手伝いを渋りそうなものなのに――考えが顔に出ていたのかまたも佳主馬ににらみつけられた。なに考えてるのさ、気持ちわるいんだけど。辛辣な言葉もセットで。
「よ、と」
 ふいにあがった声にそちらを見れば、小磯が鍋をシンク目がけてかたむけていた。もうもうと白い湯気が換気扇に吸いこまれていく。
「佳主馬くん、氷出してもらえるかな」
「だから。それくらい自分でやりなってば」
 口では文句を言いつつ渋々とまた床に足をつけた佳主馬は冷蔵庫から製氷皿ごとを取り出して水で麺をしめている小磯にそれを手渡す。
「ありがとう」
「うわ、なんか麺あふれそうなんだけど」
「うん、もうちょっと大きい笊ないかな」
「桶とかでいいんじゃないの。そこら辺にあるやつ使えば」
「でもまるめないと食べにくくない?」
「どうでもいいよ」
「えー……」
 あまりにも自然すぎた会話の末に、けっきょくそうめんは酢飯とかを冷ますのに使うみたいなでかくて浅い木の桶のなかで溶けかけた氷といっしょに水に浸かった。いっしょにならぶのはラップがはがされたトウモロコシと、八分割されたぬるいトマト、細い棒状になったきゅうり。ガラスの小鉢と箸、あとひさしぶりに見た売っている麺つゆのボトルがテーブルに置かれた(この家でそうめん食べるときは麺つゆも手づくりだ)。
 ぱたぱたと動きまわっていた小磯が椅子に落ち着いて、三人で手を合わせる。いただきます。大ばーちゃんが言って、みんなで一斉にあいさつをするのが習慣になっていた。
 早速了平は手を伸ばして木桶のなかを泳ぐ麺をすくいあげる。佳主馬はあえてそうめんではなくきゅうりをかじって、置きっぱなしにされてテーブルを水浸しにしたグラスをもちあげて布巾で拭いていた小磯が「あ」唐突に声をあげた。
「薬味とかどうしよう。長葱か、茗荷とかあったかな」
「いらない。そういうの好きじゃないから」
「そっか。ええと、なら了平さんは」
「ん?」
 ずずっと麺で口をいっぱいにしたところで話しかけられた。口にものがあるときに話すのは行儀がわるいと大ばーちゃんにさんざんしつけられているので麺をぜんぶ飲みこんで、ふたたび箸で麺を捕まえながら小磯に答える。
「おれもべつになくて平気だけど、あえて言うならたまご」
「た、たまご?」
「なにそれ」
 怪訝そうな目をふたりに向けられ、了平は首をひねる。なにかおかしいことでも言っただろうか。ああ、もしや生たまごと受け取られたのかも。釜揚げならまだしも冷たくしたそうめんをたまごにつけたところで美味くもないのはわかるだろうに。
「ウチでそうめん食うときはいっつもあるぜ、細く切ったたまご焼き」
「ふうん」
 眉根をひそめたまま佳主馬はグラスを空にして、木桶に箸を伸ばす。
「変なの」
「こら。そういう言い方はよくないよ」
 咎めながらもグラスに麦茶を注いでやる小磯は実に甲斐甲斐しい。見ている分には微笑ましいかぎりだ。佳主馬がどれだけ人見知りなのかを知っているだけに、小磯に注意されてどこかむくれている年下の親戚はひどく新鮮だ。
 やたら仲のいいふたりを観察していたら、半分以下になっていた了平のグラスにも手を伸ばして麦茶を注ぎたした小磯が首をかしげた。
「えと、じゃあ焼きましょうか。たまご」
「んーん。べつにいらね」
 一度箸を置いて、了平はトウモロコシにかぶりついた。冷めているが、うちの畑で採れたトウモロコシだけあって甘い。粒もひとつひとつが大きくて食いでがある。なんとなく小磯はちまちま粒をはがして食べそうなあと思った。みかんでも筋をきれいに取るタイプ。あきらかに陣内家の血筋にはいない性質。翔太兄あたりはイライラしそうだ(事実、昨夜の宴席でもぐだぐだ息巻いていたし)。
「つーかさあ、敬語やめね?」
「へ」
 予想にたがわず数えて十本もないような麺を小鉢に移していた小磯がきょとんとまばたいた。さっきから行動が女子みたいだと突っ込みたくてしょうがない。
「夏希ちゃんの一個下ってことは同い年だろ。タメ語でしゃべろうぜ」
「でも……」
「でも、はなし。さん付けもなしな。おれも名前で呼ぶ。小磯ってんじゃ他人みたいだし、健二だっけ?」
 小鉢の上に箸を置いて、恥ずかしそうにひとつうなずく小磯。あらため健二。
「うし、健二な。よろしく、健二」
「えと、よろしく」
 へら、と笑う健二にどきりとする。色が白いせいで照れているのがよくわかる。男の健二でこうなのだから東京の女子はもっとかわいいのだろうか(って、これじゃあまるで健二がかわいいみたいじゃないか!)。
 それにしても。顔を赤くして笑っている健二を見るとこちらまで恥ずかしくなる。そう思ったのは了平だけではないようで、今の今までだまってそうめんをすすっていた佳主馬が健二を見ないままぼそりとつぶやいた。
「おにいさん、なに赤くなってんの」
「うえ! えとあのそのこれはちがくてっ」
「落ち着きなよ。みっともないから」
「うう、すみません……」
「謝らないでいいし」
 うまいように取り繕ってはいるが拗ねているのがまるわかりだ。健二は気づいていないようだが了平からは佳主馬の表情がふつうに見える。その証拠に一瞬だけにらまれた。言うなればあれか、お気に入りのおにいさんを盗られたようなものか。了平が言うのもおかしいが佳主馬の好意はわかりにくいと思う。たとえば名前で呼ぶとかしてストレートに懐けばいいものを。やっぱり殴られたらいやなので口には出さないまま健二に取ってもらった塩をかけたトマトをひと口で飲みこむ(ちなみに塩取ってと言ったとき佳主馬にすごい顔でにらまれた。どんだけ健二のこと好きなんだこいつ)。
 うすくなった麺つゆに原液をたしてかき混ぜながら了平は真向かいに座る健二に話しかける。おとなしく食べるやつは話を振るタイミングがつかみやすいことに今さら気づいた。
「健二って数学できるんだろ?」
「できるって言うか、それしかできないって言うか……」
「おれは野球以外てんでダメなんだよなあ。まわりも馬鹿ばっかだし」
「でも、甲子園行けるなんて十分すごいよ。ぼくは運動得意じゃないから、尊敬する」
「へへ、さんきゅ」
 昨日からずっと言われていることだが褒められてわるい気はしない。いちばんに褒めてほしかったのはもちろん大ばーちゃんだがきっと天国から見ていてくれているにちがいないので甲子園でも全試合投げきるつもりだ。半端なことをしたら夢枕で説教される確信があるのでなおさらだ。それに、健二は本気でそう思ってくれているのがわかるからこちらも素直にうれしいと思えた。
「でさ、おれ数学がいちばんできねーわけ。数列とか意味わかんねーもん」
「ああ、そういう人は多いね。意味を理解しちゃえばかんたんなのに」
「それができたら苦労しないって。おふくろは教えてもらえっていうけどおれ兵庫行くしさ、時間ないからOZで教えてくれよ」
「は?」
 耳ざとく顔をあげたのは佳主馬だ。信じられないものでも見たかような顔を了平に向けて不愉快そうに眉をしかめた。
「なにそれ。いきなりなに言ってんの」
「ちょ、佳主馬くん!」
「おれ、おかしいこと言ったかあ? 連絡先訊いただけじゃん」
「だからっ」
 テーブルをたたきそうなほどに食ってかかってきた佳主馬の肩を健二がつかんで「佳主馬くん落ち着いて!」自分もあわあわしながらそう言ってなだめる。健二の制止を乱暴に振り切るつもりはないらしい佳主馬は言いたいことをぜんぶ飲みこむようにグラスをつかんでぐーっと麦茶を一気に飲み干した。そこにまたも麦茶を注ぎながら健二が了平に向かってこまったように笑う。
「連絡先なんだけど、先に教えてもらってもかまわないかな。ぼくの教えるのは東京帰ってからになるけど」
「なんで? ケータイないのか?」
「や、ちょっと。アカウント取りなおそうかと思ってて」
「え」
 不機嫌そうな顔のまま三杯目の麦茶に口をつけていた佳主馬がぎょっとしたように健二を見あげた。
「おにいさん、アバター変えるの? なんで? あれじゃダメなわけ?」
 一度にまくしたてる佳主馬に健二はやっぱりこまったように笑って。氷もすっかり溶けてなくなった自分の麦茶を少しずつ飲みながらひとつずつ答えていく。
「今使ってるアバターっはこの家の電話で取ったアカウントだからね。しかもゲストだし。前のアバターは、ほら、もう使えないから。この際だからケータイごと変えちゃおうかなって」
 了平には事情がよくわからないが。とりあえず健二の正式なアカウントは使えなくて今あるのは仮のものらしい。OZのアカウントはひとりにひとつ。アバターもまたひとりにつき一体が原則だ。有名なアカウント、たとえばキング・カズマとかそのあたりになると管理局の意向でセカンドアバターが与えられるらしいがアカウントはもっていてもあまりOZにログインしない了平にはよくわからない話だ。たぶん佳主馬のほうがずっとくわしいだろう、現に反論もなくだまってしまった。
 これはあまりつつかないほうが得策だな、と了平はもうのこり少ないそうめんをかき集める。了平は父親譲りに焦ったり嘘をついたりするとすぐに顔に出るのでそれならだまっていたほうがまだマシだ。それでも顔に出るときは出るけれど。空気が読めないとさんざんに言われるが空気が読めないなりに気遣ってはいるのだ、これでも。
 変にだまってしまったふたりに責任を感じて了平はその後も適当な話題を振りつづけた。たとえば部活のこととか、試合中にやたらサイレンの音がしたこととか。なるべくOZでのことや大ばーちゃんのこと、壊れた家や湧いた温泉には触れないようにしたがそれでもときどき佳主馬の箸が止まったり健二の目が泳いだりした。本当になにがあったのやら。
 木桶も皿もきれいに空になったところで三人そろって手を合わせた後、了平は台所を追い出された。佳主馬曰く、片づけはこっちでやるからハヤテにもごはんあげてきて、らしい。しかしハヤテの食事は一日二回、それは佳主馬も知っているはずなので追い出されたという表現はあながちまちがいではない。
 今日明日はからだを休めるように監督やコーチからも言われているのですることもなく、了平は縁側に座って後ろ手を突いた。起きたときにも思ったが日差しはきつく、直射日光を免れているだけでもだいぶ涼しい。ところどころに台風が直撃したみたいな跡があるが努めてそれらからは目を逸らして寄ってきたハヤテの顔をぐにぐにといじくる。好きにさせているくせに迷惑そうな顔をするハヤテになぜか追い出される直前の佳主馬がよぎった。
「なーんか牽制球投げられた気ぃすんだよなあ」
 うたがわしいような、責めるような。お気に入りの兄ちゃんを盗られないように全力で威嚇するにしてはなにかがちがっていた気がする。健二と了平とでは対応に清々しいまでの温度差があっていっそ憎たらしくもない。そもそも健二は夏希ちゃんの彼氏だ。警戒するならあっちだろう、って。
「んん?」
 自分で考えついたそれに了平は首をかしげる。これではまるで佳主馬が片想いでもしているようではない。それも男に。たしかに健二はなよっちくてかわいい感じだが、それでも男だ。
「まさかな……」
 思わずご愁傷さまと言いたくなるその思いつきを振りはらうのに実際頭を振って、了平は飼い犬を見下ろす。両頬を押さえられて不細工な顔をしたハヤテはわんと文字通り意味不明に鳴いた。





親愛リミナリティ
(誰でもいいから早く帰ってきてくれ!)