一時間ほど前からひどくなりだした雨に打たれながら家まで走る。新しい画本とスケッチブックを買いに駅前まで出たらこれだ。まったくついていない。自分はともかく紙類はぜったいに濡らすわけにはいかないから上着でつつんでひたすら走る走る。
 何気なく上を見あげれば待ってましたとばかりに閃光。
「げ」
 数秒置いて轟音。まだ遠いけど万が一近くで落ちたら困る。家まであと一○○メートルほど。疲れるのは大きらいだがうっかりショック死はいやだ。あんまりにもまぬけすぎて新聞の地方面なんかに乗ったら大笑いされるにちがいない。
 ばしゃばしゃと水たまりを蹴散らしてポーチに飛びこんだ。びたびたの袖や裾をしぼり、顔に張りつきっぱなしの前髪を後ろに撫であげる。指できられた水分が背中にしたたって気持ちわるい。
 視界のすみでまた稲光りが走る。ジーンズのポケットから出したそれを鍵穴につっこんで乱暴にドアを引き開ける。いやな予感がした。そしてそれははずれない。勘がよすぎるのも困りものだ。
 十畳ほどのワンルーム。バス・トイレにキッチンは小さいながらもついていて家賃はそこそこ。上京して三年になるが住めば都とはこのことだ。視覚の暴力みたいな紙や極端にみじかい鉛筆、色鉛筆が転がる床に足の踏み場なんてなくて、適当にのけられた毛布のそばには今朝食べたトマトサンドイッチのラップフィルムがぐしゃぐしゃにまとめられて放置されている。キッチンのシンクにはマグカップと一緒に絵筆が数本差さったバケツ。我ながらあきれる散らかりっぷりだ。
 そこまでは今朝と一緒。
 けれど今朝とはちがうところがふたつ。
 ひとつは割れた窓ガラス。かなり大きな穴が開いていてざあざあ雨風が吹きこんでいる。あとで新聞紙でも貼っておこう。
 もうひとつは、
「……わーお」
 真っ黒な、同じようにびしょ濡れになってなお素晴らしい毛なみをした仔猫がお粗末なパイプベッドの上で毛を逆立てていた。警戒しているのありありとわかる。そりゃそうだ。しかし不法侵入したのはあっち。それとも空き家と判断したのか(言われてみれば見えなくもない。きっと住人は夏らしく腐乱死体)。
 カップラーメンができあがるくらいの時間たっぷりやらかしていた視線だけの攻防戦はあっけなく終戦した。
 仔猫が小さくくしゃみをして、それでおたがい濡れたままなのを思い出す。
「って、風邪引くじゃん」
 だれもいないのでひとりつっこみ。じゃなくて。とりあえず抱えていた荷物を床に落とし(仔猫がびくんとしたのがおもしろかった)、代わりに仔猫の襟首をつかんで浴室に放りこむ。にゃあにゃあ騒ぐわ暴れるわでかるく命の危険を感じたりもしたが(あれはあきらか凶器だ)一回頭からぬるま湯をぶっかけたらおとなしくなった。人間あきらめが肝心、これ真理。シャンプーのポンプを押してあとはひたすらわしわし泡立てる。これにはもっと暴れるかと思ったけど存外じっとしている。
「おー、美人」
 息を止めているのに笑いそうになりながらざあっと泡を流してやれば出てきたのはかなりの上玉。チューブから出したばかりの油絵の具みたいな黒い毛に、目玉も同じくくりくりしている。
 浴室から引っぱりだして真っ白なタオルで水気を拭き取る。ドライヤーでなんて気の利いたもの持ってないから丁寧に拭いて、そのままタオルに包んでベッドまで運ぶ。あきらめたのか身じろぎひとつしない。
「ちょっと待ってろよー」
 仔猫を置いてキッチンへ。冷蔵庫を開ければかなりみすぼらしい中身。ミネラルウォーター、牛乳、コロナビール、栄養バランスゼリーのパックがいくつか。あとはちくわ(なんでだ)と桃ふたつと蜂蜜しかはいっていない。
「やべ、買い物行かなきゃ」
 もし個性豊かな友人たちがこれを見たら一時間は正座させられてまた同居だルームシェアだ嫁になれだのやかましいことになる。
 とりあえず牛乳と蜂蜜を出してレンジでチン。本当ならミルクパンであたためるのがいいのだが風邪を引かれるのも目覚めがわるいし洗い物が増えるのはいやだ。
 ホットミルクを持って戻ってみれば仔猫のすがたはなく、代わりにがさごそとなにかを漁る音がしている。さすが仔猫。クールななりをしていてもまだまだ好奇心旺盛なガキだ。生意気にも眼垂れてきたとは思えない。
「ここ置いとくぞー」
 ひと声かけてから直接床に置いて(この部屋にあるテーブルは折りたたみ式)風呂場に取って返す。仔猫もだが自分が風邪を引く。そんなことになったら笑い話にしかならない。
 それにしてもあの仔猫はどこの子なのだろう。どう見ても野良ではないし、かといって家出でもなさそうだ。とくに追い出す気はないが果たしてちゃんとめんどうを見られるのか。自分で言うのもあれだが逆にめんどうを掛けたらどうしよう(笑えない!)。
 がしゃがしゃといささか乱暴に頭を拭きながら風呂場を出る。なんとなく抜き足さし足で。ホットミルクなんざ置いてみたはいいがあのままどこぞへ行っているともかぎらない。勘はいいほうだけど、猫は気まぐれだから(そこがかわいいわけだけど)。
 いるかいないかは五分五分だ。ドアが開いた音はしなかったから、また窓に穴ができているのだろうか。なんて、いろいろと考えていたのだが、
「……かーわいー」
 思わず声が漏れた。それは仕方ない。だって、床に置かれたマグカップはからっぽで、どっから出してきたのかサイズの合わないバスキアの黒いティーシャツをワンピースみたいにして寝こけているのだから。
 外はまだまだ雨が降りつづいていたけれど、おれは一晩中奇妙な子どもの観察に明け暮れていた。





ルキンフォー
(写メったら起きるかな)