崩国の片割れに上体をあずけ、いつもの表情で曹丕が竹簡を次々処理していくのをながめていた妲己は人目がないのを理由ににんまりと笑った。
 彼はよく鉄面皮などと揶揄されているが実はそうではないことを妲己は知っている。よく見ているとわずかばかり表情が動くのだ。
 気がついているのはそう何人もいないはず。
 敵であった妲己がそれに気がつけたのは曹丕が彼女の生家――殷王朝最期の皇帝である紂王の側にはべる際に憑坐となった娘の出身地に近いところに住んでいたからだ。蘇州に暮らしたことなどないが、あの地の空気はおぼろ気ながら覚えていた。
「曹丕さんはさ、不器用よね」
「なに……」
 つぶやいたそれに反応して曹丕が竹簡から顔をあげた。たいてい無視されるので返事を期待していなかった妲己は数度またたく。
「私が不器用など」
「だってそうでしょう。せっかく曹魏復活のために着々と爪を研いでたのに、曹操さんが帰ってきたらみんなして曹操さん曹操さんって。まるで曹丕さんなんていなかったみたい。なのに文句もなにも言わないんだから、曹丕さんは不器用だね」
「仕方あるまい。あの方はそういうものだ」
 さも当然のことのように曹丕は言う。
 けれど妲己はそれを彼の表層として見ている。
 本当はさびしいのに、頭が良すぎた青年は己が心の裡を自身でいてさえわからないでいるのだ。難儀なことだ。妖怪にすらわかる人間の心がわからないなんて、同情するよりほかない。
「曹丕さん、あとどれくらいで暇になるの」
「暇などない。が、これで手空きだ」
「じゃあ遊びにいこうよ。君主の仕事なんて君主にやらせればいいんだから」
 妲己は笑う。曹魏など滅べばいい。そうすればきっと素敵なことが起こるのに。
「妲己よ、おまえがそれを言うのか」
「だって贅沢するのは飽きちゃったんだもん。お仕事しているはずの曹丕さんがいなくて響く絶叫、阿鼻叫喚。聞きたいじゃない」
「くだらんな」
 そう言いながらも曹丕は筆を置いた。
 昔はどうだったかわからないが、遠呂智を倒してからこちらの曹丕は脱走癖がつきだした。いまだそれが曹操のように発覚していないのは見つかる前に室に戻っているからだ。とは言っても曹丕の室に来るのは三成か司馬懿、または執務から逃げてきた曹操くらいなもので叫ぶのは前者ふたりだ。
「ふふ、だから曹丕さん好きよ」
「私はおまえなど好いてはおらんがな」
「ひどいなあ」
 言葉とは反対の表情で妲己は崩国から離れて床に足をつける。古志城とはちがう、ひやりと冷たい床。その感覚を味わうたびに妲己は思う。
 世界がまた終わればいい。





さびしいから嘘を吐く
(あなたはどうせいらないの。だからわたしがもらってあげる)