どうしてこの世に数学なんてあるんだろう、何か間違ってると思うのは僕だけだろうか



 カッカッと、横に長くゆるやかに歪曲した黒板にチョークの白い文字がおどる。意味を少しでも知っていなければただミミズがのたくった跡にしか見えない。それだけ教師の字が雑なのだ。
 教師がテキストを読みあげながら展開する数式を一応は目で追いつつ(テキストに載っている例題そのままだからノートは取らない)ルルーシュはあくびを噛み殺した。ルルーシュの席は窓際の最後尾で、日当たりは良いし教師にはあてられにくいしの絶好のスポットだ。誰もがその席の魅力を知っているので昼寝していても教師すら文句を言わない。
 なんだかクラス全体が落ち着かない。教師も、クラスメイトも、それに自分も。
 その原因全部ひっくるめて、となりでのん気に数式の板書をしているスザクのせいだとルルーシュは悟っていた。ほかに疑いようがない。疑う余地すらない。そうでなければ神経質で有名なあの数学教師が教科書をさかさまに開いたりチョークを持つ手が震えたりするものか。基本的に授業中私語をつつしまないクラスメイトたちがみな一様に沈黙してまじめにシャーペンを握るわけがない。
 なぜ今日にかぎってスザクが登校しているのかというとそれはルルーシュとの約束を果たすためと言えば事足りる。
 先日スザクが高熱を出したせいでルルーシュは大事な学力テストを欠席した。それも一日も欠かさずだ。テストが終わった翌日になって登校してきたルルーシュは当然担任に追試を言い渡され、それの実施が今日だ。いつもなら自宅受験で済ますスザクもわざわざスケジュールを調整してまで出てきた。このあたりに優越感を覚えるルルーシュはばかなのかもしれないと彼自身も自覚していた。
「あれ、」
 突然スザクがつぶやいた。シャーペンを顎にあて、自分のノートと黒板とを何度も見比べては首をひねっている。しかしスザクのつぶやきは本当に小さなものだったにも関わらずしんと静まっていた教室によく響いた。クラス中の視線を独り占めにしたスザクはルルーシュが腕を突いたことで顔をあげた。
「へ、なに?」
「前見ろ、前」
 教師がスザクを睨んでいた。そのくせ黒板に触れたチョークがかたかた震えている。あきらかになにかを言われることを警戒している。
「ど、どどどした? く、くくくくるるるぎ」
 めちゃくちゃどもっている。しかも「う」が抜けていて「る」が一つ多い。よりにもよってスザクの名前間違えるなんてばかじゃないのかあのばか教師。ルルーシュがぼんやりと考えながらとなりに首をまわせば、スザクはにこりとして「なんでもありません。つづけてください」先をうながした。
「そ、そうか。授業中は静かにしたまえ」
「はい。すみません」
 普通すぎる内容なのに寒気が感じられて仕方がないのは、上にいるのがスザクだからだろう。その気がないのは本人だけで、もしもスザクに危害(判定をくだすのはブリタニア家だ)をくわえようなら即効で懲戒免職が決定づけられている。それについてはルルーシュも賛成派だ。
 授業は再開された。先ほどよりも教師の声が硬い。
 スザクは机のフックにかけたバッグから無地のルーズリーフを取り出してノートとは別になにやらがりがりやりはじめる。亜高速に動くボールペン(芯を出すのが面倒らしい)と途切れることなくペン先が紙をたたく音から耳と目をそらして、ルルーシュはシャーペンをくるりとまわした。あれで板書も完璧なのだから反則だ。

 昼休みにはいるとすぐに教室はがらがらになる。女子は持参した弁当を片手に中庭やカフェテリアに集まり、男子のほとんどが購買か食堂に走るのだ。今日の日替わり定食は昨日とどう違うんだろうと考えながらルルーシュはバッグから紙袋を二つ出す。
 今朝はスザクの愛車である陸王(かなり昔に日本でライセンス生産されたハーレーダビッドソン車のオートバイクだ。元が軍用らしい)で来たので昼食は途中で寄ったドトールのサンドイッチだ。陸王もまた改造を何度もされていつの間にか一〇〇〇CCになった化け物なので止まっているときだけでなく走っているときもめちゃくちゃ目立ち、背中に警察の白バイクがついたときはものすごく焦った(スザクもルルーシュも制服だったから)。だと言うのにやけに慣れた様子だったスザクが心底恐ろしい。
 スザクはまだ計算をつづけている。ルーズリーフは裏表を隙間なく使って三枚目だ。
 追試は五限目から開始されることになっているので今食べておかないときつい。放っておけばスザクはこのまま没頭したままであることは間違いないのでルルーシュは迷わず肩を揺すった。
「スザク、もう昼休みだ。昼食にしないとまずい」
「ん。もうちょっとだけ待って」
「……なにしているんだ?」
 返事をしながらも止まらないスザクの手に、ルルーシュはふと思いついてルーズリーフを覗き込んだ。延々と書きつづけられているのは先ほど教師が説明していたテキストの例題の応用問題だ。
「これなんだけど、何度解いても先生のと答え合わないんだよね」
「はあ?」
「あ、やっぱりだめだ。ちゃんと常用対数表見ているんだけど……」
「……………………」
 ルルーシュは肩を落とした。
 スザクの性質の悪いところはときどき本気でこのようなことを素で言い出すところだ。彼は教師の解法が間違っているとは微塵も思っていないのだ。それを教える者が正しいのが常識。そういう世界に生きるスザクにとってしてみれば当たり前すぎることだ。
「まあ、いいか。ぼくが困るわけじゃないし」
 ぐしゃぐしゃと計算用紙を丸めてごみ箱に投げ捨て、一枚だけ飛行機にしてこれもまたごみ箱目掛けて飛ばした。そそくさとボールペンをペンケースにしまう。そのままルルーシュの持つ紙袋に「ミラノAもらっていい?」のん気に手を伸ばす。
「スザク……」
「なに?」
「数学のほかに答えの合わないものはあったか?」
「今日だけでごろごろあったから不安だよ。あとでセシルさんに聞かないとね」
 テープで留められた包装を剥いて、スザクは笑う。
「おれにも教えろよ」
 ルルーシュはもう一つの紙袋からミルクとガムシロップが載ったほうの紙コップを手渡し、自分ではミラノCに噛みついた。