幼馴染と言いますか腐れ縁と言いますか



 ルルーシュの朝は早い。一人暮らしにも関わらず毎朝六時にのそのそとベッドから起き出して身支度をととのえ、その三十分後にはバッグを持って自宅を出る。そのときに朝食は取らない。階段を使ってワンフロア下り、エレヴェータホールをはさんで反対側の棟のエレヴェータに一番近い四○三号室の玄関ブザァを押す。びー、としばらく鳴らしてみるがここで反応があったことは年間で四度くらいだ。それさえも慣れたもので、バッグの内ポケットからカードキィをリーダにスライドさせる。ランプがレッドからグリーンになったのを確認してからドアハンドルをつかんでニ、三度深呼吸する。よし、と心の中でつぶやいてハンドルをにぎる手に力を込めた。
「スザク、起きろ!」
 ルルーシュはドアを開けると同時に怒鳴り込んだ。
 玄関から延びるフローリングの短い廊下の先はやけに暗い、がらんと印象の部屋だ。ものがないというわけではなく、どこの家にでもあるようななじみのある家具があまりにも少ないのだ。間取りはルルーシュの部屋とそう変わらないはずなのに、見るたびにすかすかした感じがする。
 ベランダに出られるガラス張りの引き戸には分厚いカーテンが引かれ、その隙間から朝日が細い筋になってあふれている。毛足の長いカーペットの上にはさまざまな言語で書かれたジャンル雑多な雑誌や本が乱雑に積みあげられて氾濫し、その合間にある脚の短いラックに載ったパソコンが五台、くるくるとスクリンセーヴァを変化させていた。ラックのわきにはモバイルサイズのキィボードが立てかけられ、床にはパソコンやその他の機械から伸びたコードが血管のように這っている(固定のためのガムテープが紙ではなく布であるあたりがスザクらしい)。一○○○ピースパズルの額(たしかダリの、『記憶の固執』だったはず)の下にはキングサイズのソファが背もたれを壁にぴったりつけており、本来、人が腰かけるための部分にはやわらかそうなミルクキャラメル色のブランケットが不自然に浮きあがっていた。
 ローファを脱いで(前に靴を履いたままあがったら笑顔で放り出された)本の山を崩さずコードを踏まないように気をつけながらソファに近づき、ルルーシュはブランケットを豪快に剥いだ。
 もこもこしたフォーション生地のクッションを二つ下敷きにして寝ていたスザクはこの程度では起きない。ルルーシュはぐらぐらと根気よく揺する。
「起、き、ろ!」
 いきなりカーテンを開けないのはルルーシュの優しさではなく、ただ本が焼けるからというスザクの意見だ。この部屋においての決定権はすべてスザクにあるのでさすがのルルーシュも強くは出られない。スザクはばかみたいに心が広くて寛容だが決して性格がいいわけではない。彼はいい性格をしているだけなのだ。
 五分ほど揺らしつづけた結果、スザクはようやくのろのろと薄いまぶたを持ちあげた。常盤色の目にはうっすらと疲労の色がある。どうやらまた明け方近くまで潜って≠「たらしい。その証拠に、ソファのすぐ近くにキィボードにつながったままのHMD(ヘッドマウントディスプレイ)が無造作に転がっていた。
「……おはよ、ルルーシュ」
「ああ、おはよう。学校はどうする?」
「今日ってなにかあった?」
「いや、なにも。だが……もしかすると会長のお遊びがあるかもな」
「つまりなにもないんだ。ふうん……」
 スザクはソファにあぐらをかいたままくるんとした茶髪を手ぐしで簡単に梳く。ぼんやりとした様子にふたたび寝てしまいそうな気もするが、スザクは基本的に寝起きはいい。しかし生活が変わってからは眠れるときに寝とけ精神に移行したらしく、よほどのことがないかぎり絶対に起きない。それでも寝汚くはないので一度覚醒してしまえばあとは楽だ。
「で、どうするんだ?」
 ルルーシュはもう一度尋ねる。ここで言質を取ったところで彼は不言実行・有言不実行が常なので意味はないのだが心がまえくらいできる。
「なにかあったなら行くんだけどね、なにもないなら行っていられないな。また問題起きちゃってその後始末に追われているんだ」
「……聞いても?」
 あくびを噛み殺してスザクはうなずいた。
 スザクは俗に言うところの天才だ。それも機械工学・情報化学に関しては過去の偉人に並ぶほどの才能を見せる。それはソフトであろうとハードであろうと同じことだ。
 しかし、その非凡な才能は日本では日常に埋没していた。昔と違って今の日本人は他人に対して無関心であり、スザクもまたその才能をあまり誇示しなかったせいもある。
 そんなスザクを偶然見つけ、ルルーシュの父親がトップに立つブリタニア・カンパニに引き込んだのは二番目の異腹兄だ。
 ブリタニア・カンパニは一企業としては異常なまでに財界、政界などのあらゆる業界に影響力がある。また、国家レヴェルの資本力・組織力を持ち、主流である国際貿易のほかにさまざまな事業で成功を収めている。十年ほど前からは情報産業にも着手しており、スザクはその日本支部である特派――特別派遣嚮導技術部に表向きにはアシスタントとして登録されている。しかし実体としてスザクは連日連夜はたらきっぱなしだ。他社の、ひいては他国よりも早く新たな技術の開発に勤しむために特派は常に人手不足なのだ。スザク自身はそれを苦とは思っていないようで、どちらかと言えば楽しそうに0と1の世界に潜って≠「る。
「C.C.がまたパニックを起こして手当たり次第データを書き換えたんだ」
 C.C.は特派が新たに開発したセキュリティ管理システムの通称だ。正式名称をコントロール・コントローラ(支配を統制する人)という。そのシステムをインストールした会社すべてのセキュリティ支配権を人工知能に与えようという初の試みで、どうもその人工知能――システム名のイニシアルをそのままにC.C.がじゃじゃ馬らしい。人のように柔軟に、という上の希望を反映させてみたらかなりの自己矛盾を抱えてしまい、エラーを出しっぱなしなのだという。
「復旧の目処はざっと見ても一ヶ月はかかるし、本当、猫の手も借りたいってやつだ」
 ぼくは学生なのに、とスザクはうそぶく。
 はたで聞いていたルルーシュはふざけるなと言ってやりたくなった。どうせ暇であろうとなかろうと学校に来ないのだ、こいつは。十四歳のときになぜかドイツでうっかり大検に合格ってストレート卒業してしまったせいで、スザクは現在高校課程のやり直し期間中なのだ。そのため学校にはほとんど出てこず、定期考査はほとんど自宅受験だ。あくまでも高校を卒業したという証明書が欲しいだけであって出席日数も授業も行事もスザクにしてみれば興味がほぼない。
 めずらしく完全に覚醒しきっていないスザクに適当な着替えを持たせてバスルームに押し込むと、ルルーシュはキッチンに入った。広々としたキッチンはたしかに使い勝手がいいのだが、なぜかコンロだけガスを使っている。滅多に使わないくせに調理器具はル・クルーゼがいいとスザクが言い張ったところおもしろいことが大好きな彼の上司がどこをどうやってからオール電化のキッチンをコンロだけ改造したらしい。どこからガスを引いているかはまったくの不明だ。頼んだスザクさえ知らないという。それにしたって意味がわからない。
 冷蔵庫の中に常備されているものと言えばミネラルウォータに固形バランス栄養食、それとなにかの錠剤が数種類だけとあいかわらず乏しい。まともな食品はそう多くなかったのでそろそろ買い物に行かなければと思いつつルルーシュはベーコンのパックとたまごを四つ取り出した。
 なかなか流通していないル・クルーゼのフライパンにサラダオイルを引いて、ぱちぱち跳ねはじめたところでベーコンを焼く。焦げてちりちりになったらそれを二枚のプレートに移し、つづいてたまご四つをフライパンに落とした。二回に分けて焼くという考えはルルーシュの頭にない。いつまで経ってもなかなか慣れない火加減に気をつけながら厚切りの食パンに切り込みを入れてトースタに押し込んだ。ざあざあ聞こえるシャワーの音に耳を傾けながらポットから二人分のお湯をケトルに注いで火にかける。ティーバックとはいえ毎朝紅茶なのは単純にルルーシュがコーヒーを好きではないから。
 両目のそろった目玉焼きの黄身は半熟、カリカリベーコン、トーストは厚さを問わず狐色。
 それがスザクの出した最低課題で、これがこなせなければルルーシュは合鍵の取りあげが決定している。できるくせにやらないスザクは放っておけば何日も水とカロリィメイトで生活することがわかりきっているので幼なじみのルルーシュとしてはなんとしてでも回避しなければならない事態だ。
 スザクが大検を受けたときにルルーシュはイギリスに帰国していた(一人暮らしの今と違って、当時は枢木家にホームステイしていた)。しかもスザクにそれとなくそのような指示を出したのが上から二番目の異腹兄だと知れた瞬間からルルーシュは一度もイギリスに帰っていない。母や実妹、片親しか血のつながらない兄弟姉妹との交流はほとんどメールだ。
「しまった……」
 ぼんやりとしている間に白身のはじが焦げてしまった。ルルーシュはあわてて火を消してフライ返しでなるべく均等にベーコンのあるプレートに切り分けた。フライパンを、水を張ったシンクに沈めると同時にトースタが軽い音を立ててパンを跳ねあげたので、ポイントを溜めてもらったという白いプレート皿にトーストを乗せた。
「ケトル焦がさないでね」
 いつの間に出てきたのか、スザクが首にタオルをかけながらかたかたと揺れるケトルを指差した。よれたロングTシャツに色あせたジーンズ。しっかり拭いていないのか、濡れそぼった髪から水がしたたってぽたぽたと床を濡らしている。それを見てルルーシュは眉をしかめつつも「わかっている」ケトルの湯をティーカップに注いだ。口当たりのいいアッサムティーだ。本当なら茶葉から淹れたかったけれどそんな時間はない。
 キッチンの対面にあるカウンタに身を乗り出して皿を並べた。カップを両手に持ってそちらにまわると、四つあるスツールの奥から二番目にスザクが座っていたのでルルーシュはそのとなりに腰をおろした。バーカウンタのようなつくりになっているためにルルーシュでも足がつかないので少しだけ心許ない(スザクのほうがルルーシュより二センチだけ小さいのが、今のところのルルーシュの強みだ)。
「いただきます」
 二人並んで同時に手を合わせる。人は生きるために多くのものの命を奪っている。だから相手の命を自分の命にする前に礼を言うのだ。今日も命をいただきます、ありがとう、と。この習慣を知ったとき、ルルーシュは無意識のうちに涙がにじんだ。わあわあ泣いていた自分とそれをなだめるスザクを思い出すと今でも顔が熱くなる。
 もそもそとバターを薄く塗ったトーストをストレートの紅茶で飲み込みながらスザクは片方の目玉にフォークを突き立てた。上手い具合に半熟だったようで、ぷつりと開いた小さな穴から黄身がこぼれる。片目をつぶして食べるのはスザクの昔からのくせだが、いつ見てもルルーシュは気分が悪くなって仕方がない。自分がつくったというのもあるし、両目がそろっているせいでウルトラマンに似ている目玉焼きを哀れに思うこともある。ルルーシュは黙ってトーストをかじった。おたがい食べている間はほとんど無言だ。しゃべるくらいなら飲み込めという話。
「そういえばさ、」
 皿の上があらかた片づいたところでスザクは二杯目の紅茶から口を離してつぶやく。ルルーシュのほうを向いて、首をかしげた。
「ルル、時間いいの?」
 言われ、ルルーシュは最後の一口を刺したフォークを口に入れたまま紫玉をしばたたかせた。スザクはとんとんと左の手首を指先でたたきながら「じ、か、ん」
「ああ!」
 フォークが皿にぶつかってけたたましい音を立てるのも気にせずにルルーシュは制服の袖をまくった。
 ルルーシュが毎日通い、スザクが一応籍を置いているアッシュフォード学園はここからバイクを飛ばして二十分くらいのところにある。朝から満員の送迎バスに乗るなんてルルーシュは死んでもごめんだし、スザクは免許を持っているが毎朝なんて送ってもらえない(いや、頼めば笑ってそれくらいしてくれるだろうがなんとなく頼みづらい。それにそんなこと言ったら善意一○○パーセントで絶対に学園付属の寮を勧めてくるだろう)。仕方なしにルルーシュはバイク通学のクラスメイトに相乗りさせてもらっているのだ。もちろん安全運転で。待ち合わせは四十分。規格外の広さを誇るアッシュフォード学園は校門から校舎までかなりの距離があるので余裕を持って登校しないとそれこそ朝から走るはめになる。
 腕時計は七時四十三分を示している。別に遅刻するのもクラスメイトを待たすのも知ったことではないが、そのことがスザクに露見するとあとあと面倒だ。どうも彼は自虐趣味の気があって、一度悩むととことん悩むのだ。ルルーシュはさあっと青ざめる。
 ルルーシュの内情を知ってか知らずか、とにかく見かねたスザクが笑顔で助け舟を出した。
「片づけておくよ」
 ある意味無敵の呪文に、ルルーシュははじかれたように席を立った。食器をそのままに、玄関の置きっぱなしだったバッグを引っつかんで蹴破る勢いで部屋から飛び出した。エレヴェータに乗って一階のボタンを押す。ぐん、と重たい反動をつけてワイヤに釣られた箱が階下に向かって下りていく。こればかりは焦っても落下スピードは変わらないので(これで加速なんかしたら事故だ)、ルルーシュは壁に寄りかかった。「いってらっしゃい」という声が追いかけてきたのを思い出して、今日はちょっとくらい良い日になるかもな、とルルーシュは現金にも笑った。

 一日の課程を終え、所属している生徒会の業務をこなし、ついでに買い物もしてきたルルーシュが自宅(というかスザクの部屋)に帰ってきたのは十九時をすぎてからだ。ルルーシュが自室を出てから半日以上経っている。
 なんとなく買ったミニサイズの缶コーラがビニル袋の中でがこがこ言うのを耳ざわりに思いながらポケットからカードキィを出してスライドさせる。電気はついていなくとも夜はたいてい起きているので朝のように怒鳴り込む必要はない。夕飯どうしよう、と考えながら(習得レパートリが少ないのでどうしてもワンディッシュディナにならざるを得ない)ルルーシュはハンドルを引っ張った。
 部屋は真っ暗で、あいかわらずがらんとしている。スクリンセーヴァはちかちかと、ミネラルウォータとカロリィメイトくらいしか入っていない冷蔵庫はヴヴヴと羽虫のようにうなった。そこまでは朝と一緒だ。しかし明らかに違う。
 嫌な予感に眉をしかめつつも、ルルーシュはキッチンのオルタネイトスイッチをオンにする。シンクにはフライパンのほかに二人分の食器が水に浸かっていた。そばにはメモ用紙がコップを重石に置いてあり、『ごめん。今度はピザが食べたいとか言い出したらしいので直接説得に行ってきます。明日の夜までには帰るから』と走り書かれていた。
 ぴしゃん、と蛇口から水滴がこぼれて跳ねた。
「…………スザク――――――――っ!!」
 近所迷惑など考えず、ルルーシュはメモ書きをぐしゃぐしゃとちぎってばらまいた。