〈魔法のランプ〉は欲しくはないか。 そう路地裏でささやいたのは水煙草をくゆらせるみどりの髪をした女だった。 さくりさくりと駱駝の蹄が砂を踏むたびに窪みができては埋まっていく。その都度上下するために起きる上下運動には疾うに慣れていて。それよりか上下するのにからだを合わせるのもお手のものだ。生まれてこの方と言っていいほど砂漠とは長い付き合い。寒暖差がはげしい気候も今となっては当たり前。むしろ夜でもあたたかいというほうが信じられないくらいで。 砂漠において太陽光は凶器そのものだ。肌をさらして暮らすなどできようはずもなく、日が出ているうちは布をまとっていたほうが安全ですずしいくらいなのだが。 「………………」 後方につながれたもう一頭の駱駝をそれとなく見やる。ただしくはその背なに己のそれをあずけて器用にも寝転がっている人物を。クルタでなくサドリーヤ、しかもそれに女物であるはずのシャルワールを合わせており、両腕はパンジャとチューリ、その上素足と砂漠という環境下ではありえないような恰好をしているその男は厳密に表すところ人間ではない。 男は〈ランプの精〉だった。 外見はこちらと同じくらい、しかしこちらとは異なる時流に身を置いているらしくくらべようもない時間を過ごしているのだけはたしかだ。聞いたところによれば彼はもともと人間であり、曰く“堕落して”〈ランプの精〉になったそうだ。 両手足を組んで。鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気でふらふらと揺れる足先から視線を前にもどす。さくさくと。駱駝は歩みを止めない。目的地もとくになく。ないわけでもないが当てがないのもたしかだ。正確には当てがはずれたとも言うがそれを口に出すことはない。ため息すら漏れなかった。 「さっきからなに?」 ふわり。そんな動作音も不似合いな空気をまとって男が目の前に浮かぶ。しかし駱駝が危険を察知した様子もなく砂に窪みをつくりつづけいくのは男に生物としての気配がないからだろう。根本的に生物は気配――生きていると判断できないものに危機を感じることはまず不可能だ。そして男にすがたはあれど気配はない。生死の概念より切り離された存在。とくに〈ランプの精〉はそういうものだ。願いを叶え終えたらつめたい砂のなかで永い永い時を流す。だからこそだろうか、〈魔法のランプ〉をよこした女はくゆる水煙草のけむりに像を浮かべながら奇妙に笑んでいたのをなんともなしに思い出す。 「そんなに不満?」 額に巻かれた布と紐の端が横に垂れて、気配はないくせに男の動作に動じてわずかに揺れた。こちらからは彼が身にまとうものにすら触れられないというのに。隔たる壁を疎ましく思うのは致し方のないことか否かを判ずる術はなく。 「おれはナナリーの……妹の目を治す当てをさがしていたんだ」 「それは聞いたよ」 なにもない空中があたかも床であるかのように片胡坐をかいて座す。男と属性を同じくする道具として〈魔法の絨毯〉なるものも存在するようだが実物を目にしたことはないので実在するかは定かでない代物だ。男はつまらなさそうにしかしなにかをすでに終わらせたような表情で肩を竦めてみせる。 「だけど、ぼくも言ったはずだ。万物には因果があり、それを左右する権限をもつのはアッラーのみだと」 「だからおれの願いは叶えられないというのか!」 「ぼくにはできないというだけだよ。それに、叶えられる願いは願った者に属する事象だけ。つまりきみの願いは妹さんが願わなければどの道叶わないことだ」 「くっ……」 あくまでもそれが摂理。そう語る声に歯噛みする。願いは妹のしあわせであるにも関わらずそらは人の智を超えた魔人のちからをもってしてでも叶えられない。そんなことが果たしてあってもよいのだろうか。しかし事象はさかしまに。訴えが声になることもなく。 「だが、いやだからこそ。おまえにはおれの供となってもらう」 「ぼくはかまわないよ、それで」 くるり、と男がその場で蜻蛉がえり。そのまま空をあおいでそのすがたを拡散させた。 「ランプの外にいようとなかにいようと、けっきょくは囲いのなかだから」 〈魔法のランプ〉は欲しくはないか。 そう路地裏でささやいたのは水煙草をくゆらせるみどりの髪をした女だった。
吹きすさぶ風は砂を巻きあげて(若い旅人の行く手を阻む) |