皇暦二○一○年八月十日。ブリタニア対日本戦が終結し、ルルーシュとナナリーはすぐさま本国へと送り届けられた。日本が制圧された時点で人質としての価値がなくなったからだ。今度こそ殺されるか、とルルーシュは絶望を胸に抱いていたが父であるブリタニア皇帝は意外なことに兄妹が無事であったことを喜んだ。 聞いた話によると、ルルーシュたちの母であるマリアンヌ皇妃暗殺の首謀者である第二皇子、皇女の母たちはルルーシュたちの殺害をも企てていたそうだ。それを事前に察知したシュナイゼルが父帝に進言し、人質という名目で日本に避難させたらしい。 マリアンヌは庶民の出身であったが聡明であり性格もおだやかであったのでシュナイゼルもコーネリアも彼女を尊敬し、慕っていたために暗殺を計画したのが己の母だと知れると迷うことなく母に剣を向けた。実力主義のブリタニアではあるが親殺しは罪となる。しかしブリタニア皇帝は子どもたちの反旗を黙認し、二人の皇妃は身分を剥奪され、本国から追放となった。 そんな中で知らされたのが日本の敗戦。慌てた彼らはルルーシュたちの安否を知るために使者を前線に送り、そのような顛末でルルーシュとナナリーは今ブリタニア本国にいる。 二人をやっかむ皇族は多いが、後ろ盾になにかと可愛がってくれていたコーネリアとクロヴィスがついたことで生活は安定している。特にコーネリアはナナリーの目や足の機能回復に力を尽くしてくれている。ルルーシュのエリア11の副総督就任が決まったときは彼女の妹であるユーフェミアがナナリーの擁護を申し出てくれた。 エリア11はクロヴィスが治めていた地だ。エリア11は年々テロが起きる回数が極端に増加し、ストレスを感じやすい彼は先日あろうことかトウキョウ租界で起きた毒ガス強奪テロを境に体調を崩してしまった。テロはすぐさま鎮圧されたが、報告を受けたブリタニア皇帝は非情にもクロヴィスを廃嫡した。しかし、もともと政治に興味を示さず、もっぱら芸術方面の才能があった彼にはちょうど良い機会だったのかもしれない。本国に戻ったクロヴィスは自分の離宮で療養中とのことだ。 代わりに総督に就任したのはコーネリアだ。彼女は先日中東地域を愛騎グロースターで陥落させ、エリア18としたばかりだ。ブリタニアの魔女、戦姫などという二つ名を持つ異腹姉は数多の兄弟の中でも秀でて勇ましい。掃討作戦ななどでも自ら先陣を切るほどだ。そんな彼女が父帝に総督の任を命じられ、同じく副総督として命じられたルルーシュと共に謁見の間を辞したとき「休暇ということだな」とどこか不満そうに漏らしていた。 本来、エリアの管轄は総督だけで充分だ。当初、エリア11に封じられるのはコーネリアのみであったが、ルルーシュは自ら父帝と異腹姉に申し出た。クロヴィスが去った今、皇族の中で最もあの国を知っているのだから是非ともコーネリアの役に立ちたいと。この七年間で策士としての功績あげていたルルーシュはその力量を認められ、またその真摯な言葉に渋っていたコーネリアもついには折れた(そう、なぜか父帝よりも異腹姉のほうが強敵だったのだ)。 当然、ルルーシュが副総督の座を欲したのはコーネリアの補佐をしたいからではない。こうして皇位継承権を復活させられ、母の仇討ちは果たされていたがブリタニア皇帝が日本に対して行なったことは到底許せるものではない。一年足らずではあったがルルーシュは日本で過ごし、少しだが日本の文化に触れたのだ。それを前触れもなく破壊され、多くの人が死んだ。 なによりもルルーシュが知りたいのは世話になっていた日本の首相――枢木ゲンブの嫡子であるスザクの安否だ。終戦の日、たしかに一緒にいたはずなにいつの間にかスザクはいなくなってしまっていた。父親である枢木ゲンブの処刑には立ち会っていたようだがそこから先の行方は誰に聞いても知れず、どうしてもスザクにふたたび会いたかったルルーシュは今までも何度かお忍びでエリア11に赴いていた。しかしそれでは埒(らち)が明かず、今回の副総督就任につながったのだ。エリア11に滞在するとなれば情報は集まりやすく、またそのための手駒も現地で調達できる。一石二鳥とはこのことだ。 ルルーシュがエリア11を訪れ、副総督として就任会見を行なってから数週間が経った。その間にもルルーシュは何度かコーネリアの目に止まらぬよう政庁を抜け出し、何人かのテロリストグループに顔と身分を隠して接触し(ついでにゼロと名乗り)知恵を貸す多少代わりにスザクを捜すよう命じた。伝えたのは外見だけ(それも七年も前の記憶だ)であったにも関わらず、先日一人の男がルルーシュにつないでほしいと言ってきた。聞けばその男は、スザクと似た容貌の人物が色町を歩いているのを見たという。 たったそれだけの情報を手にルルーシュは色町に足を踏み入れていた。 エリア11にも歓楽街は存在する。トウキョウ租界とシンジュクゲットーのちょうど狭間にその一角はある。エリア11にもともとあった色町という呼称をそのままに、そこでは見目の麗しいイレヴンだけが商いを許され、ブリタニア人を相手に酒と一時の快楽を売っている。色町が扱う商品は女だけではなく、客の嗜好に合わせて男も数多く取り揃えられ、また年齢層も幅広い。変わった性癖を持つ客もいれば、快楽を求めるのが男だけとも限らないからだ。 女の嬌声、男の媚びた笑い、むせ返るような酒のにおい。 七年前は知る由もなかったそれに、ルルーシュは夜なのを良いことにあからさまに眉をしかめた。こんなところにスザクがいるのかと思うと吐き気がする。しかし、ルルーシュは確かめなければならない。スザクは髪も目もありふれた色をしているから他人を介してでは本当に彼なのかわからない。ここにいるのであれば複雑ではあるが喜ばしいし、いなければまた振り出しに戻るだけだ。 ぱん、と頬を張るような音がしてルルーシュは足を止めた。別にその音に驚いたわけではなく、それは立ち止まるきっかけにすぎない。下手に止まればルルーシュを素見(すけん)と見た女が客寄せにしなだれかかってくるのは目に見えている。 色町には『商品』を扱う店――置屋というらしい――が軒(のき)を争っている。正直に申し開きをすれば半ばその場の勢いだけで来てしまったのでそこから先をルルーシュは考えていなかった。しらみつぶしに捜すにも店は多く、確認できるがルルーシュ一人となれば人海戦術は使えない(あえなく手玉にされて、いくらの金が飛ぶのかわかったものではない)。目だけは騒ぎを見ながらルルーシュは自分にどうすべきかを問いかけた。 騒ぎはだんだんと悪化していく。ルルーシュの立つ通りの反対側で連れの頬を張り飛ばした初老の女は一見して身なりが良いとわかった。できあがっているのか顔を真っ赤にさせてひたすら連れを殴り、大声でなじった。被害者であるほうはなにも言わずに、一方的な暴力に甘んじていた。 きんきんと頭に響く耳ざわりな女の声にルルーシュは眉根を寄せた。素見や女連れの客も何人か立ち止まり、またやっているとあきれたように口々に言っている。どうやらこれは茶飯事らしい。あの女はある置屋の女将で、やり手ではあるのだが酒がはいると豹変してああして仕事を終えた『商品』にあたり散らすのだという。それも相手は決まって見目の良い男の『商品』だとか。聞こえてくるそれらにルルーシュは鼻を鳴らした。くだらない。 「これだからイレヴンは嫌なんだ! 世話してやっているっていうのに、この、恩知らずっ!!」 ぱあん! 一際大きな絶叫と共に、先ほどとは比べ物にならないような打撃音が響き渡った。野次馬たちもさすがにぎょっとし、あたりにはちょっとした沈黙が落ちた。女が荒い息をしているのに対し、『商品』(話をつなげれば少年)はたたかれた勢いでわずかに顔をそらしただけだった。 ルルーシュにその顔をさらけ出すような形で。 「なっ…………!」 色町は場の雰囲気に重点を置いているために明かりは置屋から漏れるそれだけだ。しかし今夜は満月。月の光というものは思うよりもずっと明るいのだとルルーシュは今身を持って体験していた。 記憶にあるよりもずっと長い、くるくるとしたヘンナの髪が肩を流れていた。すっかり血の気が失せて紙のように白い顔には青痣ができ、口の端は切れて見るも痛ましく血がにじんでいる。しかし、それでいてなお美しさは損なわれず、逆に奇妙な色香を漂わせていた。 七年前とはあまりに違いすぎるその姿に、ルルーシュは動揺を隠せなかった。あれは違うのだと思いたかったがすでに遅く、ルルーシュの脳はあれがそうだという解答をはじき出している。幼いころの面影をそのままに、太陽のように笑っていた彼はまったく違うものへと変貌してしまっていた。 「スザ、ク……………………」 かすれた低いとした声が聞こえた。それが自分のものであるとルルーシュが気づいたのは一拍置いた後で、なぜこれほどまでに絶望しているのだろうと冷静な自分が首をかしげた。色町にいるかもしれないという情報がはいった時点でわかっていたことではないか。色町に並ぶ『商品』たちに拒否権など存在せず、一夜分でも金積まれれば誰が相手であろうと肌を許す。売るのは愚かな名誉ブリタニア人、売られるのは麗しきイレヴン、買うのは下卑たブリタニア人。色町に法などない。金だけがすべてだ。相応の、あるいは法外の金さえ支払えば『商品』を囲うも使い捨てるも買い手の自由なのだから。 ふと、かげりを帯びたモスグリーンの目がそろりと動いてルルーシュに向けられた。わずかに伏せられたまぶたが震え、それが酷く蟲惑的で背筋がぞくりとする。着崩れ、わずかにはだけた白い浴衣に、細い腰にからみつく結び目が今にもほどけそうな扇をあしらった緋色の帯が突如として降って湧いた情欲をあおった。申し訳程度に肩にかけられた大きさの合わない(明らかに男物だ)墨色の羽織がスザクを小さく見せている。 目が合った、とルルーシュが思った途端にスザクの目が大きく見開かれた。顔から落ちるんじゃないかと実際にはありえない心配をしてしまうほど、彼はルルーシュを見つめたまま微動だにしない。目は口ほどに物を言う。先までの翳りが一瞬だけ晴れ、しかしすぐさま双眸は憂いを帯びた。あからさまに顔を背けられ、誰が憤らずにいられようか。ルルーシュは歯噛みし、やけに長い上着の裾をマントさながらになびかせて大またに近づく。足音を察知したらしいスザクの肩が一瞬だけびくりと震えた。 それを怯え――抵抗と受け取ったらしい女はふたたび手を振りあげる。 「文句があるなら口でお言いっ! この、薄汚いイレヴンがっ!」 勢いを持って振り下ろされた女の手はスザクの頬に当たることはなかった。それよりも先にルルーシュが女の手首をつかんだからだ。 「な、なんだい、あんた……」 「この者は私がもらい受ける」 不可解そうな女を一言で黙らせ、ルルーシュは懐から小切手の束を取り出すとその場で一筆走らせて女の手にたたきつけた。金額は書いていない。スザクの値段など、ルルーシュが決められるものではない。 「じょ、冗談じゃない! そいつはあたしんところで一番の売りもんなんだよ! たくさんの客がそいつのために金を積んでいるんだ、あんたみたいな一見なんかにゃ売れないねっ!」 突然のルルーシュの申し出に、女はあわてふためいて金切り声をあげた。己の利益のみに重点をおいたそれは聞き苦しく、ぎらぎらと目を光らせる女の顔は化粧がほどこされているにも関わらず(それは二度もスザクを平手打った時点でわかっていたことだが)醜い。しかもルルーシュに対してそのような発言をするということは碌な学もないらしい。 ルルーシュは一切を無視して物言わぬスザクを抱きあげた。じゃらりと不愉快な音を立てる両手足の鎖とあまりの軽さに眉をひそめた。ナナリーよりも少し重たいくらいだなんてどうかしている。一体どのような日々を送ってきたというのか。ふつふつと煮え立つ怒りをこらえ(理由はスザクがとまどったような目を向けてきたからにほかならない)、いまだにわめきたてる女にルルーシュは侮蔑の目をくれてやる。 「文句があるならば政庁まで来るがいい。私の姉である総督がじきじきにお相手してくださろう」 瞬時に女の顔が青ざめた。かたかたと全身が震え出し、すり足で一歩、また一歩と後退る。それでも握った小切手を手放さないあたりはさすがというべきか。 スザクを手にした瞬間から色町に用がなくなったルルーシュは踵(きびす)を返した。スザクは身じろぎ一つせず、ルルーシュに抱かれたまま大人しくしている。七年前のスザクはルルーシュがとまどうほど身勝手で、鉄砲玉のようだったのに。ルルーシュはうつむけられているスザクの頭を見下ろし、待機させておいた車の後部座席に乗り込んだ。 ルルーシュが政庁にある宮殿の自室に帰ってすぐに行なったのはスザクを風呂に入れることだ。事前に連絡を入れさせておいたので備えつけのバスルームのバスタブには湯がなみなみと張られていた。人払いをすませ、一応ルルーシュが手伝いを申し出てみるとスザクはそれとなく断ってきた。すこし残念な気がしないでもないが意思はしっかりしているようなのでルルーシュはひとまず安心した。しっかりあたたまってくるように言えば彼はおずおずとうなずいた。 シャワーの音が聞こえはじめてからルルーシュはラフな部屋着に着替えると、メイドを呼びつけて十五分後くらいにホットミルクと紅茶、それとブランディを用意するよう言った。仕事を第一に考えるメイドはちぐはぐな組み合わせに怪訝そうな顔をすることなく「かしこまりました」と頭を下げた。 天蓋つきのベッドに身体をあずけ、ルルーシュは腕を交差させて顔を覆った。これからのことを考えなくてはならない。スザクを買ったはいいが、それだけだ。言い方は悪いが囲うとなればコーネリアにも紹介しなければならないし、好きにしろと言ったところで身一つであるスザクはふたたび色町へと逆戻りだ。スザクは聡いから、ルルーシュのそばに置く明確な理由が必要だ。あの様子からは想像しにくいが、自分がルルーシュの邪魔であると知れば行方をくらますことくらい簡単にやってのけそうな気がする。それでは意味がない。スザクを、あの太陽がよく似合っていた少年を暗がりに追いやることなど許されるはずがない。この七年間、ルルーシュはずっとスザクを捜していた。外交の道具として枢木家にあずけられた兄妹を救ってくれたように、今度はルルーシュが彼を助けるために。 ドアが開く音にルルーシュは仰け反っていた身体を起こした。ひたひたと浴室から出てきたスザクは浴衣の代わりに置いておいたルルーシュの寝間着を着ている。身長はそれほど変わらないと思ったが、袖や裾があまったのか丁寧に折り返されていた。水分をふくんだ髪が顔や首に張りついているせいで日本人特有の童顔であるスザクのユニセックスさを際立たせ、それが余計に艶かしい。 こわごわ視線をさまよわせはするものの、スザクはまるで人形のように黙したままだ。まるで話し方を忘れてしまったようだ。目の前で父が斬首され、またスザクも銀の水を飲まされた。ゲンブの遺した言葉を旧日本軍――特に伝説の将軍である奇跡の藤堂に伝えられるわけにはいかず、やむなく声を奪ったのだとルルーシュは史学の授業のときに担当教師から聞いた。あまりにもむごいそれに、数年が経った今でも言いようの怒りで脳が焼け焦げそうになる。 「スザク」 ルルーシュは呼びかけ、手招いた。しかしスザクはルルーシュの前で歩いてきただけだった。座るように示しても彼は動こうしない。仕方なしにルルーシュはスザクの腕を引いてとなりに座らせる。そのときに見えたスザクの肩に、目の前が真っ赤になった。 ぶかっとした襟首からちょうど右の肩甲骨が覗いた。そこには艶やかとはほど遠い墨色の蝶が刻まれていた。蝶に絡まる棘のある蔦の意匠の刺青は公娼であるという烙印だ。スザクはスザクのものではなく、買った誰かのものであるという生涯消えることのない、また現在の医療技術でも完全には消すこともできない傷痕。 ルルーシュはスザクの薄い肩を力任せにつかんで押し倒し、強引に口づけた。 白いシーツの上にやわらかな茶色が扇のように広がる。突然のことに驚き、揺れるエムロードから目を離さず、ルルーシュはさらに口づけを深めていく。やはりというか、スザクはキスに対して慣れたものでルルーシュが息を継がせまいとしても器用に酸素を取り入れる。たっぷりつづいた口づけは唐突に終わりを迎えた。からからとカートを押す音が聞こえてきたからだ。口の端からあふれた唾液をぬぐい、ルルーシュはスザクの顔をすぐ横に手をついた。 「ここにいろ、スザク。おれのそばを離れるな」 睨みを利かせ、鋭く言い放つ。ぽかんとしていたスザクはゆっくりとだが首肯した。ついで、にっこりと花が息を吹き返したように微笑した。 緊張がほぐれたのか、まとう空気がだいぶやわらいでいた。キスに酔ったわけではないらしいところが少々悔しいが、どうやらブランディ入りのミルクは必要ないようだ。微妙にしめっている髪に指をとおせば、スザクは心地良さそうにすうと目を細めた。ルルーシュは唇に触れるだけのキスを贈る。 「おやすみ、スザク」 どうか、眠りがおだやかなものであれ。
どうにもならない、絶望のような、愛情のような |