ルルーシュはそう大きくない花束を胸に抱いて歩いていた。丁寧にラッピングされた花束はトルコキキョウだ。レースを縫ったようなそれは端のほうがうっすらとピンク色をしている。この花はルルーシュが自らフラワーショップに赴いて選んだものだ。特になにを買おうと決めていたわけではなく、なんとなく目についたものをフィーリングでだが。
 事実、このようなもの気休めにもならない。
 太陽の恩恵を遮るように、石畳の道を沿って植わる木々は枝葉を鬱蒼としげらせているために昼間だというのにやけに暗く、心なしか肌寒い。しかしルルーシュは気にもとめずに石畳を抜け、苔むした階段をのぼっていく。すっかり様変わりしてしまった風景に、ひさしぶりに訪れたときは絶句してしまった。記憶にあるこの場所はもっと明るい生気に満ちていたはずなのに、それがどうだ、今はまるで他者を受けつけぬ死気のようなそれがいたるところからにじみ出ている。
 ひんやりとした空気が四肢にまとわりついているような感覚が不快で、ルルーシュは形の良い眉をゆがめて、しかし花束を持つ手には力を込めずに階段を駆けあがる。のぼりきった先には赤い――苔に覆われていたり塗装がはげていたりするが、思わず眩暈を起こしそうなほど連なった鳥居のトンネルだ。エリア11に遺されたものの一つで、キョウトにありながら枢木家が管理していた土地だ。
 べたべたと短冊が貼りつけられた鳥居のトンネルを通り抜けてルルーシュが向かうのはこの先にある巨大な殿舎だ。かつては仏閣として名を馳せていたらしいが日本占領の際に没落したそこは単なる廃屋で、だからこそルルーシュはそこを隠れ家の一つとして選んだ。ブリタニア人には昔ながらの日本家屋が理解しがたいものがあるらしく長年放置されていたのだ。
 ようやくたどりついた殿舎はしんと静まり返っていた。一望することすら叶わないほどの広さのそこはやはり木々に囲われ、まるで結界でも張られているかのような雰囲気だ。
 いつもの癖でぐるりと周囲を見渡してから、ルルーシュは朽ちかけた階(きざはし)を土足のままあがる。ぎいぎいと不吉な音を立てるそれを踏み抜かないように慎重に渡殿を歩いていく。
「C.C.! 出てこい!」
「呼んだか?」
 妙にすっとぼけたようなことを言いながら、少女が萌黄色の髪をなびかせてさかさまに顔をのぞかせた。どうやら屋根にいたらしい。降りろと目で指示すれば、C.C.はふわりと渡殿に着地した。以前着ていた白い拘束衣ではなく、鮮やかな模様が艶やかな蘇芳色の着物だ。なんのつもりか、首にはベルトのようなチョーカーを巻いている。
「あの男……スザクとか言ったか? それにしても気味が悪いな」
 わたしにまで笑いかける、とC.C.は乏しい表情のままルルーシュの前に立つなりそう言い放った。彼女のこれは毎度のことであるが、そのたびにルルーシュは殺意にも似た激情を隠せないでいる。自然と声が低くなった。
「おまえがあいつをああしたんだろう」
「わたしは然るべきことをしたまでだ」
 C.C.はつんと顔をそらした。琥珀の目をルルーシュに向け「違うか?」と駄目押しする。
 ぎり、とルルーシュは拳をにぎった。
 命を救われた手前、ルルーシュは大声をあげてC.C.を糾弾することはできない。それが二人の間で交わされた契約だからだ。彼女は科せられた条件に沿った行動をしただけだ。しかし、だからと言って許されるわけではない。
 罰というのもおこがましいがC.C.にスザクの目つけ役を命じたのはそのためだ。

 ナリタ連山でコーネリアを迎え撃ったとき、スザクもあの場にいた。憎き白カブト――あの化け物じみた白亜のナイトメアを駆っていたのだ。しかしルルーシュはそれを知らず、猛襲をしかけて戦況をひっくり返すだけにとどまらずルルーシュを追うスザクを妨害したのはC.C.だった。彼女が秘めた能力がどのような効果をもたらしたのか、ルルーシュは知れない。しかしその力がスザクの精神を蹂躪したのは確かだった。
 あの後ルルーシュがスザクとふたたび会えたのは軍部内の病院で、それも精神科だった。
 スザクの上官にあたるという優しげな面持ちをした女性に案内された病室で一人ベッドに身を起こしていたスザクは女性に名前を呼ばれて、まるで無知で無垢な子どものように邪気なく微笑んだ。
 雪のように、
 果敢なく、
 透明に。
 ルルーシュはその笑みを前に立ち尽くすことしかできなかった。
 七年前にですら一度も見たことのなかった満面の笑み。
 世界の穢れを知らず、家というせまい箱庭の中でしか存在しえなかったころのスザクはアルバムの中にしかいなかった。
 女性はルルーシュに脳に異常が多数見つかったと告げた。スザクの記憶は白紙に近く、人格もほぼ退行しており、一般常識すらごっそりと抜け落ちているため赤子同然だということ。また、声帯に問題ないのだが一切の発声ができなくなってしまったらしい。
 精神盲、ショック性記憶喪失、失語症。簡単に言うならば精神崩壊。
 それでもスザクは唯一、スザクという自身の名前のみには反応を示した。
 スザクの処分をどうするかという問題になり、ルルーシュは迷わず除隊書類に代理としてサインをした。本来ならばスザクの所有は異腹妹のユーフェミアにあったらしいが急を要していたし、そんなもの知るかと撥ねのけた。同時に退院手続きも済ませ、とりあえずクラブハウスに連れ帰った。ナナリーには話さなかった。話せなかった。
 ちょうど身の隠し場所としてキョウトにある、もとは枢木家所有の没した仏閣に目をつけていたので数日もしないうちにそちらへ移送した。ミレイにナナリーを頼み、そのついででルルーシュも学園を辞めた。
 以来スザクはC.C.とともにキョウトで過ごし、ルルーシュは拠点であるシンジュクとこことを行き来している。

 食事にする、とふたたび姿を消したC.C.の言ったとおり、スザクは以前来たときと変わらず最奥にいた。その部屋からだけは木々に遮られることなくキョウトの美しい景色を眺めることができ、唯一日の光がはいるのだ。
 色あせた畳の上に白いものが倒れていた。正確に言うならばそれはスザクだ。白い長じゅばんにだらしなく袖を通し、申し訳程度に赤い三尺帯を巻いている。むき出しなった身体はかつてあったような肉が削げて皮と骨ばかりと称すにふさわしく、薄くはなったもののいまだにさまざまな傷痕が残っていた。
 スザクは畳に四肢を投げ出して、ぼんやりと射し込む光に手を伸ばしていた。霞みがかったペリドットの双眸は茫洋としてどこを見ているのか定かではない。
 その痛ましいとしか言いようのない姿にルルーシュは顔をゆがめた。
「――……スザク、」
 ルルーシュが間を置いてから声をかければ、見えない糸に引かれるようにスザクはゆっくりと起きあがった。焦点の合わなかった目がルルーシュの姿を認め、無邪気に笑った。
 笑うだけで、なにも言わない。
「ひさしぶりだな、スザク。しばらく来られなくてごめん」
 ルルーシュは一応靴を脱いでから畳にあがると、ぽてんと座るスザクの肩に触れた。さらに薄くなったような気がするそれに内心舌打ちする。
 名前を呼ぶたびにスザクは笑う。まるで懐いた獣のそれに、ルルーシュは思考が冷えていくのが手に取るようにわかった。
 ルルーシュを見るスザクの目はただのガラス玉だ。ルルーシュを映しはしても見てはいない。現に今も彼はルルーシュの向こう側を見ているのだ。
 くすくすとは笑えどもにこにことは笑わず、
 けらけらとは笑えどもからからとは笑わない。
「スザ、クっ…………!」
 こらえきれず、ルルーシュはスザクを抱きしめた。みしみしと骨の軋む音がしそうなほど力強くかき抱く。スザクの薄い肩に顔をうずめて、あふれそうになる激情をやり過ごす。
 ルルーシュは喜んでしまったのだ。腕の中にあるこの存在を、どうしても欲しくてたまらなかったものを自分の手で殺さなかったことに安堵してしまった。
 スザクがブリタニアのものではなくなったことが、ルルーシュの純粋な独占欲をほどよく満たした。
 あまりにも醜い感情に吐き気がした。いかなる理由をもってしても正当化などできない狂気に満ち満ちた感情だ。
 ふと、スザクが手を伸ばした。放り出され、不恰好になってしまったトルコキキョウの花束。スザクは窮屈そうにしながらもなんとか一輪だけ手に取ると、なにを思ったぐしゃりと握りつぶした。はらはらと舞う花弁にスザクの表情がすうと消える。
 代わり浮かんだのは言い表せない混沌とした色。
 くすくす、くすくすと漏れる透過された笑い声。
「ごめんなさい、」
 言い馴れない謝罪をルルーシュは口にする。けれど一体誰に、なにに対して謝りたかったのかは、ルルーシュにもわからなかった。





ただそれだけだった。そばにいたいだけだった。それ以上は望まなかった。
(どこからまちがっていたのかなんて、)