ぴしゃん、と愛用のマグカップになみなみ注がれたコーヒーが揺らいで波紋がひろがった。揺らぎに像がかき消えて代わりに自分の顔が映っても一瞬ほど前まで聞こえていたものが耳にこびりついて離れない。悲鳴。爆音。絶叫。怨嗟の声。水というものはところかまわず望む望まざるを考慮せずにふとした光景を映す。今日もそうだ。何気なくサーバーからコーヒーを注いでいただけなのに、予期できないタイミングで映し出されたそれにけっきょく二〇分近くも立ち尽くしてしまった。気に入りの豆をわざわざミルで挽いてから淹れたコーヒーはすっかり冷めてしまっている。味の下落など考えるにおよばない。けれどひと口も飲まないままシンクに流すのは良心が咎めるというよりもたんに貧乏性なのでサーバーをコーヒーメーカーにもどしてマグカップに口をつける。注いだときは芳醇な香りを立ちのぼらせていたそれは今やただにがにがしいだけだ。酷評するならまずい。豆はいいのに。ずるずると行儀わるくコーヒーをすすりながらフローリングの床をぺたぺた歩く。素足は慣れると案外快適だ。 はじめて水が像を結んだのは紅茶だった。金色の輪に縁どられた明るい水色に映っていて、それから湯を張ったバスタブやにごったバケツの汚水、降りしきる雨がスクリーンになったときもある。そんなことが一週間に一度ずつつづいて今日でたしか二〇回目。途方もない数字だ。今までいたところとはどうにも時間の流れがちがうらしくてもうすぐこちらで暮らして一年になる。だから計算して半年を過ぎるか過ぎないかくらいからはじまった奇妙な現象。ひとえに怪奇や超常のそれにくくってしまうには見慣れていた人びとが映っていて。 歩きながらコーヒーをずるずる飲む。行儀がなっていない自覚はあるけれどもそれを指摘するひとがいないのでは自分が許容して終わりだ。部屋だけはやたらとある平屋の家にひとりでいるのはなんとなくさびしい。とは言えここに自分以外がいたためしはそうないけれど。半同居人状態のやつは先週から出かけていて連絡のひとつもないことを少し不満に思う女々しさはにがいコーヒーで飲みこんだ。そういえば先週の像には半同居人が一瞬だけいた気もする。あれは基本寝すぎだからああやって暴れているに越したことはない。オープンキッチンからひとつづきになったリヴィングダイニングにひとりでいるのはさみしいけれど一年近くも暮らせばもう慣れてしまった。来たばかりのころは不謹慎にもにぎやかだったけれど時間が経つに連れて皆どこかへと行ってしまったから最近は常にひとりだ。半同居人や皆のようにどこかへ行けたらよかったけれどどうしてか自分はこの家から出られないから。消えてしまうドア。出かける意志をもつだけでドアも窓も壁になってしまう。家ではなく箱になる。内部にあるものといえばどこにも行けない自分と水が結ぶ像だけで。 ぴん、ぽーん。 気の抜けたようなチャイムに肩が跳ねて背後をふりかえる。ここに来てはじめて聞いた音。むしろチャイムなんてものが存在したことを今知った。なぜならこの家に錠はあっても鍵はなくて、つい癖で鍵をかけてしまっても半同居人はふつうに開けてはいってくるからだれもチャイムなんて必要としなかったから。出ていくときは消えるようにいなくなるくせに帰ってくるときはそう言えばいつもドアからだな、と連鎖的に思い出した。 ぴん、ぽーん。 ひかえめなチャイムがもう一度鳴ったので飲みかけてのマグカップをテーブルに置いてドアへ向かう。自分が出かけるわけではないからか、今日は壁になららないドアのハンドルをもって外へと押し出す。まぶしい。 「はいはい、どちらさん――――」 「こんにちは」 誰何の声はにこやかに微笑んで差し出された手にさえぎられた。小さくて白い手からつづく腕が接合する肩はまるい。シンプルなワンピース。足もとにはレトロすぎるトランクがひっそりと置かれているけれど実は身ひとつなのは知っている。さっきまで見ていたから。 「はじめまして。アニュー・リターナーです」 「はじめまして。ニール・ディランディです」 ハンドルから手を離して代わりに彼女のそれをにぎる。小さくて白い、けれどあたたかい手。たいせつにしたかった弟をあいしてくれた女性の手だ。だから彼女の手を引くのは自分の役目ではないので代わりにトランクをもちあげた。小型の見た目に反して重たいそれにつめこまれているのはきっと弟との思い出なのだろう、やわらかく名乗った女性はみじかく礼と謝罪を告げてトランクをうばっていったから。きっと自分だけが抱えていたいものなのだと判ずる。自分にはもうそんなものはひとつとしてないけれど。 とりあえずミス・リターナーを家へ招く。彼女が玄関でサンダルを脱いだ瞬間にドアは壁になってしまって、けれどおどろいた様子はなかったからもう出られないことを理解しているのだろう。やたらある部屋はひとによってはひと部屋にしか見えないようだから案内はあとにまわしてダイニングのテーブルにかけてもらう。女性だからコーヒーよりも紅茶のほうが適切、そう自分で言い訳をしてまずいコーヒーをシンクに流す。サーバーのもいっしょに捨ててしまう。ケトルで湯を沸かし、白磁のポットとカップ二客をあたためる間ちらりと盗み見たところミス・リターナーは椅子のそばにトランクを置いてそわそわしていた。背を向けるかたちで座っているので表情はわからない。プラスティックのトレイにポットとカップ、それからお茶請けにヴィネットのドライクランベリー入りのビスケットを油紙を敷いたバスケットに添える。ポットには茶葉とケトルから湯を注いで砂時計を引っくりかえした後に揺らさないようそっとテーブルに運んだ。 トレイを置いて、立ったまま紅茶をカップに注ぎいれる。あざやかな水色。芳しいベルガモット。品よく八分目ほどまで注いでソーサーごと据えた。バスケットは蜂蜜やメイプルシロップやジャムやバターの小瓶といっしょに中央に置いて、ポットの載ったトレイはそのままに反対側にまわって椅子を引く。 「ありがとう」 ぎこちなさもなくきれいに笑んだミス・リターナーはカップのつるに指をかけて口もとに寄せ、けれどすぐさま表情をこわばらせた。指先もかたかた震えているのに見開かれた目はカップから離れない。尋常でないその様子だがまたかとしか思えない自分は慣れてしまったからか。こちらに来ていきなり現象にかち合ってしまったのは不運だとは思うけれど。一瞬とも目をそらさない彼女にならったわけでもないが同様に水面を見やる。あかるい色の水が結ぶ像。そこにはかつて慈しんだ子どもをひたすらに殴りつける愛しい弟のすがたがあって。 「ライル…………」 せつなげに声を漏らしたのは自分ではない。弟を置いていった最低な兄にそのような声で名を呼ぶ資格はない。水が像を結ぶ現象はなにもできない自分たちへの当てつけなのだから。自分たちが去ったがゆえに起きてしまった物事を見せつけるためだけの。ここから出ていくことも叶わないのだからなぐさめることさえできやしない。目をそむけることはゆるされない選択だ。原因は結果を見届ける義務があるのだから。 子どもにすがりついて力なく泣く弟を痛ましいとは思わない。ただ、一瞬でもざまあみろと思ってもしまったことにひどく嫌気がさした。事実なので否定はしない。死ぬ覚悟も殺される覚悟もせずできずの弟だからうすっぺらい日常にいてほしかったのに。 「―――」 かつて子どもだった彼は自分の知らない時を経て青年へと成長した。少年老いやすく、という旧い東洋の言葉まさに彼のためにあるようなものだ。腫れた頬、切れた唇は効率的な受け流し方を身でもって獲得した彼とは思えない傷で。懺悔のつもりなのか。弟にとってすれば青年はきっと死神なのだろう。他人の主観なんて図れたものではない。たとえ肉親であろうともちがうからだだ。不完全な肉のかたまり。それが人間だ。しかし人間であることを嫌悪して、ではなにになるというのだろう。 ぴしゃん、とティーカップに品よく注がれたベルガモットフレーバーが揺らいで波紋がひろがった。揺らぎに像がかき消えて代わりに自分の顔が映っても一瞬ほど前まで聞こえていたものが耳にこびりついて離れない。悲鳴。絶叫。怨嗟の声。肉をたたく音。水というものはところかまわず望むと望まざるとを考慮せずにふとした光景を映す。今もそうだ。見たくないものばかりを見せつける。ふと顔をあげればミス・リターナーはカップを両手で支えてうつむいていた。ほそいストラップだけが引っかかる肩がこきざみに震えていて、かぼそい声が弟の名をくりかえしつぶやいていた。 ほわりと湯気のたつ紅茶に口をつける。先ほどはもう出られないと判じたけれど彼女はきっとここを出ていくだろう。あれだけおたがいを呼んでいるのだから出られないはずがない。むかえが来るのだ。いつの日か。だからそのときが来るまでに彼女の知らない弟のことを話そうと決める。そんなに多いものではなくてむしろ知らないことのほうが多いけれどほんの少しでも彼女のトランクの中身を増やしてあげたい。もう自分には必要のないものだから。彼女はきっとこの家を出ていくのだろう。むかえが来るのだ。おたがいを呼ぶ声があるのだからどこにいても見つけられる。ふりむくべき名前がわからない自分とはちがうから、どうか彼女がここを出て弟としあわせになれる道があるといい。そしてこの家は閉じていく。不肖ながらもライル・ディランディの双子の兄でかつてロックオン・ストラトスだった男を呑んで。点と点が遠まわって円になるその前にむかえが来るといい。半身などいない、最初からひとりでいたかっただろう愛しい弟。点と点が遠まわって円になりこの家が閉じてしまう前にどうかむかえに来てやってくれ。頼まざるとも来るだろうけれど願わざるにはいられない。カップを揺らせば紅茶の縁が金色にひかる。そして願わくばかつて子どもだった青年をゆるしてやってほしい。あとそれから、きっとこれこそ言われたくないことだろうけれど。 |