「わたしね、後悔していないの」 ティースプーンで紅茶をくるくる混ぜながら唐突につぶやかれて思わず目がそちらに向いた。すらりとした脚をそろえてくずしている。レジャーシートなんて気の利いたものはないから直接座しているのだが青々としたやわらかい植物がクッション代わりになっていて傍目で居心地がわるいようには見えない。どことなくよろこんでいる節があるのはやはり彼女も宇宙で発生したからだろうか。はじまりの大爆発。生命の母は海だというのは地球をひとつの世界と見たときでその幅をもっと大きくとったのであればいのちがはじまるのは宇宙だ。サイズは原子。肉眼でとらえることができないのに当たり前のように知っている最小単位。同じくして宇宙が膨張をつづけていることも知っている。見たこともないくせに。だからそういう言い方をするのであればこの世に生きているすべてが宇宙生まれになるのだが、とつらつらした思考がそこまでたどりついてようやく投げかけられた言葉に返声する。問いではなかったから答えをではなく。 「イノベイターに生まれたことを?」 「ライルと会ったことを」 さも当然のように言われたこともあってこちらもさらりと納得する。 思えば彼女にとってイノベイターであることは当たり前なのだから。そう生まれたのだからそうあるべくしてほかにない。上位種としての生命体。それ以外のなにかを選べたわけでもないのだから生まれを後悔することも必要性もない。自由意思で発生したのでないならどう悔やめというのか。けれど彼女が弟と会ったことは選択意識の最終だ。きっかけはどうであれ、出会わないという結果も用意されていたはずの操作的運命。たしかに彼女はイノベイターで。おそらくはソレスタルビーイングを内部から瓦解させるため、あるいは単純にポイントマーカーとして送りこまれたのだろう。女性体だからその精神性はわからないけれどもしかしたらはじめはマイスターのひとりと同じような雰囲気をもっていたかもしれない。だとすればそれをやわらかくしたのは皮肉にもソレルタルビーイングの人びとで。だからこそ弟も惹かれたのだと勝手に思う。いくらなんでも兄である自分を知らないから、なんて考えが大半を占めてはいないはず。ゼロでないことは確実であっても。むしろそんな理由がほとんどだとしたら彼女に失礼だし、なにより彼女も弟に惹かれなかったと思う。脳量子波は相手の思考や感情をそれとなく読み取るのだということは今まで見てきた水の像でなんとなくわかっている。 適当に生えている植物の茎が長いのを根もとあたりからちぎって束ねてつなげていく。まとめてしばって継ぎたして彎曲させる。おぼろげにしか記憶していないやり方での手作業。グローヴをしていない手は草の汁ですっかり青くさい。心なしか指先も染まっていた。なぜか今日だけは気づいたら家ではなくて草原にいた。かたわらにはティーセットと菓子がつまったバスケット、もちろん魔法瓶も用意されていて。いつもなら外に出ようとするだけでドアが消えて箱になってしまう閉鎖空間で体感時間的一日を過ごすのに。カレンダーはもちろん時計さえない家だから今が何時で今日がどのような日なのかさえわからない。水が像を結べばそれでひと区切り。そうやって今までを暮らしてきた。 ほわほわと湯気を立ちのぼらせたままちっとも水嵩を下げない魔法瓶からポットに湯を注いでは飲み物を淹れる。紅茶だったりコーヒーだったり、フレーバーもさまざまだ。茶菓子はレーズンとナッツがはいったビスケットとドライベリーのスコーン、それからサンドイッチ。あきらかふたりでは食べきれない量だけれど時折それをつまむ彼女は楽しそうだ。今もクローバーの蜂蜜を溶かした紅茶に口をつけている。 「だからあなたが死んでしまったことについてはどうとも思わないの。もしかすると感謝すらしているわ」 「たしかに」 淹れてもらった紅茶をひと口飲んでうなずく。茶葉に乾燥した花びらが混ざった液体はそれだけでほどよく甘い。濃い目に淹れられているのはもしかせずとも好みがばれているようだ。弟は渋いのが苦手だったと思ったから。 「きみがイノベイターでなかったらよりも、おれが死ななかったらきみはライルに会うことはない。可能性とすればきみたちの役割自体が変わっていたはずだ」 「でしょう? だからごめんなさいもありがとうも言わないの」 にこりと笑んでみせた。たおやかなまでに。その表情にふくみはなにもないことがいっそすがすがしいくらいで、同時にこれが彼女なのだと再確認する。 人間とは異なって明確な存在意義を含有してあの世界に生み出された生命体。まことに勝手ながら考えてしまうのは、なぜイオリア・シュヘンベルグはイノベイターの人間と同じかたちでデザインしたのだろうか。モビルスーツにいたってもそうだ。なぜ頭を持ち、胴に四肢がつながって、腕を伸ばして手で剣の柄や銃把をにぎり、二足で地に立つ。人間と同じように。たしかに人間のかたちは人間の知るなかでもっとも機能的な形態なのだろう。けれどそれは主観的な意見であってそれ以上に機能的なかたちがあるかもしれない。モビルアーマーで留まっていたのであればただの兵器だったろうに。だからイノベイターもヒトのかたちでなかったほうが計画としては正解だったはずだ。他人事のようにそう考える。少なくとも恋愛にはならなかったはずで、下位種である人間となど触れあえなかったはずだ。その場合に理解しようという意思は生まれただろうか。 「でもわたし、きっとあなたを愛することはなかったと思う」 好意は抱いたと思うけれど、と彼女はつづけた。当然とわかっていることだが少しばかり興味が湧いてたずねかえす。 「それはまたどうして?」 「あなたを愛すのはひどくむずかしそうだもの。愛する方法なんてライルを想う以外知らないわたしだけど、少なくともあなたを愛するのは無理だわ」 カップをまわして水面に揺らぎをつくる。おそらく彼女は像をおそれているのだと推測。けれど水は望むと望まざるとにかかわらず像を結んでは拡散する。見たいけれど見たくない。その複雑な心境は手に取らずとも理解できるつもりだ。見ているだけでなにもできないのなら知りたくはない、でも自分の知らないところで危険な目には遭ってほしくない。なにもできないのに。舞台を降りた役者は脚本や演習に、ましてや進行に口をはさめるはずもなくて、ただ閉幕に向かう物語を客席とはちがう位置から観客とともに見なければならない。はけてしまったのならそこから先はシナリオのないドラマだ。おもしろいか否かを判断するのは観客であって役者は演じているつもりなどなくただ全力で物語を進め、あるいは停滞させる。 完成した草の輪をあたりに放って、ふたたび一からつくりはじめる。彼女は知らないだろうけれど故郷においては重要な日なのだ。かみさまという不可視的概念を信じることが伝わった日。だから今日この日だけ箱のような家から出ることが叶ったのだろう。望んだわけでもなかったから。けっきょくかみさまなんてものはだれに対しても平等であって身に起こった奇跡も不幸も存在しているのかわからないものに責任転嫁しているだけ。両親や妹と、それこそ弟がまだそばにいていっしょに教会に通っていたときからそれとなく疑問に感じていたことだ。かみさまなんていない。それなのに人間はなにかを信じてすがりたがる。自分がよわい存在であることを認めないくせに。その点を考えればおのれの限界スペックを知るイノベイターは高潔であって無力だ。可能性を信じられない、そもそも前提条件として自分を最終地点としていることが彼らにとっての不幸と考える。だからこそ彼女は弟を、人間を愛しわかりあえたことに固執するのだ。それはきっと幸福なのだろう。 ゆるやかに吹き抜ける風にはたはたと揺れるワンピースの裾は白い。水嵩の下がったカップをふわふわした草地に安定させて体勢を変更する。くずしていた脚をまっすぐそろえて三角座り。一度手指を組んでぐっと筋を伸ばす。 「ライルにはたくさん訊いてあげるの。知りたいと思ったことぜんぶを訊くの。でないとライルは本当のことを隠してしまうから。かっこつけで甘えたがりなの、あなたも知っているでしょう」 疑問を抱かない形式が好ましい。彼女にとっての弟は彼女自身が感じて知った情報と弟自身が話して伝えた情報とで構築されている。他者からもたらされた情報をはさまないそれはまさしく純粋な形状をしていることだろう。自分のなかの弟は家族の葬儀に際して帰ってきた十四のころで停止している。それなのに自分はなしくずしのままおとなになってしまったものだからどうしても庇護者として見てしまっていた。それはひどくうとましいことと思う。思うだけで変えなかったのはけっきょく弟に依存していたせいだ。半身を理由にしてしまった。だから自分がいなくなってはじめて弟はしあわせになれるのだと信じていて、実際にしあわせを手に入れていたはずなのに。邪魔をしたのは自分だろうか。自分の後悔といういらないものがGN粒子を媒介に純粋種として覚醒しつつあった彼に伝わってしまったせいだろうか。そう考えるとひどくやりきれない。 そして彼女の分析はとても正しいもので。甘えてもいいのだと場所を提供してやることが攻略の第一だ。いろいろ溜めこんでふさぎこんでしまうタイプだから自分から吐露させるよりもむりにでも訊きだしてしまったほうが弟にとっても楽なのだ。甘えたがりのくせにかっこつけて臆病者だから、相手が受け入れてくれると目に見えたかたちでわからないと弱音ひとつ吐けない。だと言うのに本人はそれを断片的にしか自覚していないせいでひどく恥じていて。だから弟が寄宿舎にはいると言い出したときは純粋に心配だった。同時にくやしくもあった。同じであることと同じでないことのジレンマにかられていた半身にとって、自分がどれだけ差異や同感を示してもそれはただの錘に過ぎなかった。 組んでいた指を解放して立てていた両膝を抱える。膝がしらに片頬をつけるかたちでこちらを見た。まるで仕方のないものでも見守るようなそれはおぼろげになってしまった母のそれとどことなく重なるものがあって。 「でもあなたには訊かないことがだいじなのね。そんな気がする。訊かない代わりにあなたはたくさん話してくれるからそれであなたを知ったつもりになるの。だからわたしにあなたを愛することはできないわ。だってわたしはライルを愛していて、彼にたくさんのことを訊いて、あなたが話してくれたおかげでわたしはあなたのことをなにも知らないのになにかを知っている気がするんだもの」 気づいていたことだが彼女は愛を言う言葉をためらいなく口にする。それはとても良いことだ。感情を脳量子波ではなく声に出して伝えるすばらしさを知ったからだろうか。ただの人間であった弟は感情を発音と態度、行動でしか伝える術がなかったはずだ。それを、言葉を声にする必要性のないイノベイターである彼女にこの短時間で教えてなじませたのはまさしく愛のなせる技だろう。調べればすべてデータとして客観的にわかってしまうことを直接訊くことを選んだのは進化なのか退化なのかは判然としない。少なくとも自分は仲間たちに同等のことができたとは思えない。たずねられることはなかったし、仮にたずねられたとしてもきっと笑ってごまかしていたと思う。胸のうちにあったものを伝えるには言葉が多すぎたせいかもしれない。 まるで思考をていねいに読み取ったようなタイミングで風が吹いた。白いワンピース、茎の長い草、それから彼女の髪をさらさらと揺らして通り過ぎていく。風が止まないうちから彼女は微笑んでいた。わからないことを苦としない口ぶりで、愛しいなにかを透かし見ている。 「あまり訊いてほしくないのはうまくこたえられないからでしょう。でもあなたはだれかを愛したいのよね。そのひとについてなにも知らないことを知っているから」 わたしといっしょね、人間なのに。 |