ななめがけにしたプラスティックの虫籠と八○○円そこらの安っぽい虫捕り網を装備し、ささくれ立っているせいで古い印象のある(実際古いものだけれど)麦わら帽子をかぶった子どもがとくになにがあるでもない開けた空間を前に網の柄をぎゅうと両手でつかみ、
「刹那・F・セイエイ、目標を捕獲する!」
 助走もなしに駆け出した。見た感じ前傾姿勢なので機敏に動ける仕様だ。麦わら帽子に巻いた白いリボンの端が動きに合わせてひらひら揺れるのがなんともかわいらしいのだがあの子はいったいなにをしているのだろうか。刹那といっしょに家を追い出されたロックオンは自分も同じくかぶっている帽子の角度を微妙になおしながら真剣な表情で走りまわる子どもを観察する。
 お気に入りの青いスニーカーでかわいた土を踏みつけたかと思えば網を振りまわす――視力には自信があるのだが生憎となにも見えない。もしくはあの子だけに視えるなにかがいるのかもしれない。思えば自分は昔からそういった類のものには疎かった。
 いや、一度だけ遭ったことはあるけれど。
 類似する状況より想起される過去にロックオンは思いを馳せる。ひらひらと舞うリボンがないただの麦わら帽子を自分がかぶっていたときのこと、そういえばあれもこのような森のなかでのことだ。
 ざあああ、と。森が鳴って。
 気がついたときにはもう遅くてかぶっていた帽子が浮かびあがった。
「―――あっ」
 一瞬だけふわりとして、すぐさま風に転がされる麦わら帽子を見てニールは咄嗟になにもない頭を片手で押さえた。手が伝えるのは編んだ乾し草のざらついた感触ではなくてくるくるしたくせっ毛のそれだ。外へ行くのならと半強制的に貸しあたえられたものなのであの麦わら帽子はニールのものではない。イコールでなくしてはいけないものだ。もちろん自分のものであったとしてもうかうかと見逃したりはしないが。
「ちょ、こら待て!」
 車輪のように奥へ奥へと転がっていく帽子を追いかける。ふつうに考えてすぐに追いつけるはずなのに距離感はちっとも埋まらなくて、それに森なんて四方八方見渡してみても同じようにしか見えないからいつの間にか正確な現在地さえいまいちわからなくなってしまった。空間把握はふしぎと得意なのだが雑踏なんかよりもささやかな気配が多すぎる森にいてはちっとも役に立たなくて。一瞬だけ帰れない予感もしたけれどその間にも帽子は不自然なまでに停まらない。まるで意図的に障害物を避けているような気さえする――冷静に分析する自分がたしかにいるのにニールは帽子を追って足を動かす。慣れない森を走っているせいで中途半端に伸びた枝葉に腕や脚を引っかけてところどころ傷ができてしまった。地味に痛い。
「この、停まれっつってんだろ!」
 八つ当たりをこめて怒鳴りつける。無機物、風だから無生物に対して怒るなんてクールじゃないけれど本気で腹が立ったのだ。さっきから罠のように持ちあがっている木の根っこに何度もつまずきかけているせいもある。ぎりぎりセーフな感じで転んではいないがお気に入りのスニーカーはすっかり土でよごれていた。靴紐を色のちがうグリーン二本に変えたそれはおそろいで買ったものでだいじに履いていたからよけいにくやしい。腹いせにもうひと言さけんでやろうと軽く息を吸いこむ。肺は限界近かったがそうでもしないとやっていられない。
「もう、いい加減にっ――!」
「おまえたち、いい加減にしてやれ」
 ざあああ、と。また森が鳴って。ニールの声に重ねられた低い声に思いがけず脳が急停止を命令する。自覚以上に息があがっていたらしくぜえぜえと喉に酸素が貼りついて苦しい。両ひざに手をついて荒い呼吸をくりかえす。酸素不足で視界がまっしろになりかけたが息を整えているうちに頭痛もおさまって、上体を起こしてみたらそこには大柄な男がひっそりとたたずんでいた。
「人間のガキひとりからかってんじゃねえよ。低級どもが」
 ぱっと見て思ったのはあかだ。ぼさぼさの長い赤毛、筋肉が盛りあがる褐色のからだを渋い色の、たぶん経済特区の民族衣装みたいなものでだらしなく包むすがたはどこか獣じみた印象。腕なんてニールのそれを束にしてやっとなくらいふといのに足もとに転がった帽子を拾いあげる動作はひどくしなやかだ。
「ったく、なんだってこんなガキのためにおれが出てこにゃならん」
 ぶつくさとつぶやいて男は帽子を使って自身をはたはた煽ぐ。そこでようやく目的を思い出せてニールは思わず声をあげた。
「そうだ、帽子!」
「あ?」
 じろりと男の目がじろりとこちらを見て身がすくむ。グラスグリーン、中央には金色のフレアがある目がニールを上から下まで見分しているのがわかってよけいに居心地がわるい。はた、と帽子が意図されて風をつくる。
「気に入られたな」
 予想外を言葉にニールはぱちりとまたたいた。気に入られたって、いったいなにに。素直に疑問に思って問おうと口を開きかけたとき男は唐突すぎるタイミングで舌を打った。この上なくめんどうそうに向けられていたグラスグリーンが中空をにらみつける。その様子は今にもうなり出しそうで、連鎖的になんとなくライオンを思い出した。動物園でだらけているのではなくテレビのドキュメンタリ番組で見たサバンナに暮らす野生のライオン。考えてみればぼさぼさした赤毛がたてがみに見えなくもない。
「馬鹿妖精どもめ、おれの気配にびびって森閉じやがった」
 赤いライオンの低い声に目がまるくなる。今すごくメルヒェンな、それこそこの獰猛そうな男にもっとも似合わないと気がする初対面にしては失礼なのかもしれない客観的事実を堂々と裏切ったセンテンスに当然のごとくニールは首をかしげた。
「ようせい?」
「なんだ。おまえ見えないクチか」
 逆に意外そうな顔をされてしまうとちょっとこまる。たしかに森はいつの間にかしんとしていて気配がほとんど感じられない。とても先ほどまでと同じ場所にいるとは思えないほどだ。たしかに妖精の国とも呼ばれている土地だがそんなおとぎ話を信じる年齢はとうに過ぎた。夢見がちと夢がないことはぜったいに反対ではないと思っているだけに帽子で煽ぎながらうなずかれると事実としか思えない。真顔でなく心底かったるそうな表情がかえって真実味を増させていた。
「さっきまでうじゃうじゃいやがったぜ。あいつらおまえの顔が気に入ったみたいでな、ありゃしばらくあの顔だな」
 男の話にニールはわかりやすく眉をしかめた。いくらかゆずって妖精が存在するのはよしとしよう、なにせここはそういう国だ。しかしその妖精がすべて自分の顔をしているのは素直に気味がわるくて気持ちわるい。自分と同じ顔などもうひとりいればそれで十分だ。
「しょうぞうけんしんがい……」
「はっはあ。そいつは人間の言い分だ。おれたちには関係ねえこった」
 かんらからと男が笑う。獣のように笑い方は豪快で、こちらを見る目は遊び道具を見つけたかのように獰猛だ。この場合における遊具はつまりニールだができれば丁重にお断り申しあげたい次第。ぜったいにロクなことにならない予感がひしひしとする。
「ともかく。森が閉じちまった以上今は帰れねえぜ。運がなかったな」
 ちっともざんねんそうでない赤いライオン。おどろかされるのはこれで三回目だが今度のそれは過去二回よりもシンプルかつふつうに由々しき問題だった。頭がちゃんと理解するまでのロスタイムでコミックのようにひよこが歩く。きっかりたぶん三拍分。
「――はあ!? 帰れないって、ちょ、なんだよそれっ」
「おおっと。そうかっかすんじゃねえよ、カルシウムたりてねえのかおまえ。背伸びねえぞ。妖精どもが混乱している今は帰れないってだけでそのうち落ち着く。そしたら帰れ」
「うるさい、よけいなお世話。……で、そのうちっていつ」
「知らん」
 さらりとした返答に毒気を抜かれて思わず反射的に怒っていた肩がすとんと落ちた。
「知らん、てそんな……」
「知らんもんは知らんわ。もどればちゃんと気づくからそれまでおとなしくしとけ」
 暇そうに帽子をくるくる円盤のように回転させながら男はなんてことないように言ってのける。
 あまりに理不尽だけれど筋は通っているような感じ。どちらにせよ空間の把握ができない森にいるのではどの道迷ってしまうだろうからニールが選べるのは示されているただひとつだけだ。あまりに理不尽すぎるけれど。全体をどこから見てもニールは被害者で、男の口ぶりでは帰れるようになるまで責任持っていっしょにいてくれるようだ。ついでに道案内もしてもらえば一挙両得というやつだ。だいたい妖精なんて見えないものよりも正体不明で腹立たしくとも見える相手のほうが精神保全上マイナスにはならないはずだ。安心はできないが。
 そこまで考えてニールはひとつうなずいた。しげっているわけではないけれどやはり森なので空は低く、太陽のかたむきも見えないので時間の流れはわからないがこの状況はやはりフェアリーサークル的なあれだろうかと考える。さすがにチェンジリングに遭うような年ではないので貴重体験な気さえしてくるからふしぎだ。人間開きなおるとおおらかになれるものらしい。こんな状況で知りたいことではないし、そもそも自分は麦わら帽子を取りにきたのになぜアリスよろしくメルヒェンな事態になっているのかさっぱりわからない。
 ため息ひとつ。それから欠伸を噛みころそうともしない男が見えたのでとりあえず帽子をかえしてもらおうとそちらに一歩を踏みだす。
 かさり、と。葉がささめいた。
「――――おい」
 声がかかって、それと同時くらいに帽子ごと頭を押さえつけられた。吹きぬける風に瞬間的に目をつむったがあきらか強すぎる力のこめようと低い声にだれかなど考えるまでもなく犯人が知れてロックオンは肩越しに背後を振りかえる。
「ハレルヤ」
「なにやってんだ、あのガキ」
「さあ」
 もたれかかるように肩に突っ伏される態勢は吐息が首にかかった少しばかりくすぐったい。けれどそれを表面に出せば調子に乗ってくるので平静を装ってなんでもないようにかえす。実際にこの程度のことならばなんでもない。
 背後霊よろしくなハレルヤと同じように目を開けた空間にもどすと、刹那は網をふりまわしてはときどき虫籠になにかを放りこんでいる。しかしロックオンにはなにも見えないままで。
「なあ、ハレルヤにはなにか見えるか」
「あー……」
 ためしにたずねてみればハレルヤは露出させている黄金色の目を細める。横目で見ているとなにかを追いかけるように眼球がきょろきょろ動いているのがわかって、ふたたび問いなおそうと口を開く前にぱたぱたと虫捕り網をかついだ刹那が駆け寄ってきた。
「おー、刹那。おかえり」
「とった」
 満足そうに虫籠を突き出されたので条件反射でそれを受け取る。目の高さまで持ちあげて窓を覗いてみるけれどやはり空っぽには見えなくて。
「えーと、刹那。なに捕ってきたんだ」
 さあ褒めろと目で雄弁に語る子どもを見下ろしてロックオンはへらりと笑う。苦肉の策というやつだ。
「ちいさいロックオンだ」
「……とげとげしたボール?」
 無表情で胸を張る刹那と、疑惑に満ちた声でハレルヤが同時にこたえた。





夏の収穫祭(仮)