専門学校は基本十六時で終業になる。まっすぐ帰宅するには早くて、遊びにいくには遅い時間だと常々思う。パートタイム・ジョブはしているけれどシフトは夜につっこんであるからなおさらひまだ。だからというわけではないが放課になったあとは近くのコーヒーショップで待ち合わせるのが日課になっている。べつに恋人だとかそういうつまらないくくりではなく、たんにおたがいひましているから。同じ校舎に通ってはいても学科がちがえばそうひんぱんに会えるはずもないので。 店内の奥まったところに席を取り、先に着いたことを待ち合わせの相手にメールで送り伝えてケータイのフリップを閉じる。ひと息ついてぐるりと首をまわせばばきばきと凶悪な音がたったので肩をつかんで軽く揉みほぐす。一日中ドレーピング作業をしていたせいですっかり凝ってしまっている。もともとの猫背なことは随分前から言われつづけていたがそろそろ本格的になんとかしなければとんでもないことになりそうだ。 小さな動きで関節をストレッチしながらもう片手では無意味にケータイを開け閉めする。メタリックオレンジのそれは家だと混同しやすいのでフリップ部分にタトゥーシールのうさぎが貼られている(事後承諾。貼ったのは愚痴った相手ででもわざわざ剥がすほどでもないから放置している)のだがブラック調なのかなんなのか知らないが数年前に問題を起こした某洋菓子店のイメージキャラクタ同様に舌を出していてときどきものすごく腹が立つ。なにを思ってこういうデザインにしたのかさっぱりわからない。片目を縫いつけられつつもぺろりと舌を出すうさぎ。センスはそれなりにいいとして。 「遅ぇ……」 ぱちんぱちんとフリップをはじいては閉めるのをくりかえす。本人はもとより返信が来ない。なんのためのケータイだ。常時携帯だからこその通称なのであって、かつ持っているだけで利用しないとかただのアクセサリのつもりなのか。なんのために毎月使用料払っているんだばかじゃねえのと余計なお世話的に考えたところでにぎっていた筐体が小刻みに震えた。反射的にフリップをはねあげて通信を切断、それからあらためてメールボックスを開けば待ちに待った(そうでもないけど)相手からのそれで。無意識的に動く親指がカーソルを指定フォルダに合わせてメールを開封する。 『どこ』 「二階。おれのも」 謝罪もない二文字のそれに回答と要求を合わせてかえす。ディスプレイに送信完了が教示されるとほぼ同時くらいに通信回線を落としてジーンズのポケットにケータイをねじこんだ。どうせ頼まないでも勝手に買っていたような気もするが。そこはあれ、水とバゲットのサンドイッチで三〇分近く待っていた分を奢らせて済ますという温情だ。ぶっちゃけサイドフードはアメリカンクラブサンドがここ最近この店で一等お気に入りなのでなんとなく頼んでしまっただけなのだがこのあとは日付変更ぎりぎりまでパートタイム・ジョブなのでちょっと早い夕飯ということで目をつむる。ほぼ毎晩のようにシフトを入れているので自宅には寝に帰っているようなもので、食事を共にしないことを現在同居中のきょうだいはひどく不満に思っているようだがあちらはふつうに大学生しているのだから都合が合わなくて当然だ。その分休みが長いのは多少なりともうらやましいけれどやりたいこと以外はやりたくない性分だから自由度高めな大学でも自分にはおそらくからだに合わない。 足を組みかえたり学校用にしているメッセンジャーバッグの中身を整理したりと待つことたぶん五分くらい。基本オーダーを受けてから淹れはじめるから時間がかかるのは承知済みだ。混雑時はかなり待たされることになるのだが今日はそうでもなかったようで、螺旋状の階段をたんたんとのぼってくる待ち人にひらり片手をあげて合図する。近くまで来たらとりあえず罵ってやろうと決めて文句を探して選んでいたら不運なきれい系優男の代名詞ニール・ディランディはトールのカップとフード皿が載ったトレイを両手にデフォルトのうすい笑みをこまったようなそれに変えて小首をかしげた。 「ハレルヤ、だよなあ?」 「……なんだそりゃ」 一瞬だけなにを確認されたのかわからなかった。そもそも確認されなければならないような覚えはない。たしかに自分は双子だけれどアレルヤの通う大学は環状線の外まわり内まわりでここから正反対の駅付近だ。彼と接触する可能性はゼロではないがかなり低いはずで。 「つーかなにそれ」 それよりも気になったのはニールの顔面半分を覆う包帯だ。それはもう重傷患者ですと言わんばかりの有り様に男前だとかからかう気にもならない。よくよく見れば袖がまくられた腕にも同様に包帯が巻かれていて思わずそこを凝視してしまう。こうもあからさまだと見るなと言うほうがむりだ。言われていなくてもマナー的に。けれどニールときたらふたり掛けのテーブルにトレイを置いて平然と椅子を引いて答えた。 「ちょっと階段から落ちて」 「はあ!?」 意味を反芻するより先に声が出た。だって階段から落ちたとか。 「……ばかじゃね?」 「自分でもそー思う」 ほとほとあきれたように肩をすくめ(その動きもどこかぎこちない)、トレイからカップを取ってこちらへ押し出す。ご丁寧にふたとホルダーがついているので中身は不明。これもたしかに好みではあって。カップを引き寄せてふたを開ければたぶんハニーミルクラテ。要求的にはシーズナルスペシャルのが飲みたかったけれどこのコーヒーショップに来て頼むものといえばこれなので不正解ではない。あいかわらずはずさない男だと思いつつ添えてあったマドラーでスチームミルクをくるくる混ぜる。顔に似合わないとよく言われるが猫舌なのだ。 対してニールのほうは温痛覚欠損なんじゃないのかとうたがいたくなるほど平然としてふたをつけたままカップに口をつけてはナプキンを巻いたミートパイをかじっている。彼もこのあといっしょに仕事なので自分と同じく夕飯にしてしまう気だろう。おたがいさまだがだいぶ不健康だ。 「でさ、階段落ちたついでに訊きたいっつーかたしかめたいことあるんだけど」 「ついでじゃねえよ、ついでじゃ。で?」 自分をないがしろにしがちな発言はもはや今さらだが付き合い的に一応つっこんで先を促せばニールはもごもごと咀嚼していたパイを飲みこんで油の付着した指先をなめる。比較的つめたい系の顔立ちをしているくせにこうも子どもっぽい所作が違和なく似合うのはなぜだ。けっきょくはナプキンで指を拭いてニールは表情を心もち改めたのでハレルヤもまた背筋が若干ぴんと伸びた。中途半端な重苦しさを演出しつつゆっくりと口が開かれる。 「記憶喪失らしいんだ」 「だれが」 「おれが」 「……は?」 今この男はなにを言ったのだろう。 まるで明日の天気でも話すような風のそれにはさすがに絶句した。きおくそうしつ。口のなかだけで反芻する。 「え、あんたいつ落ちたの」 「昨日の夜。あー、ここから三つくらい行った駅ら辺にある図書館でさ、手すりに思いっきりぶつけちゃって。もう青痣ひっどいの」 「んでその包帯かよ……ふっつうに笑いごとじゃねえよなそれ。病院行ったのか?」 「うんにゃ」 ためらいもなくカップを思いきりかたむけて熱々のコーヒーを飲みながらニールは空いた片手をひらひらと振る。 「とりあえずひと晩冷やしたら腫れも引いたし、隠しときゃ視覚的有害物にならないかなーって」 「包帯ってだけで十分有害だあほ。つか、え、本気で記憶喪失?」 「わっかんない。でも、なんだっけ……そう。階段落ちたときにいっしょにいたやつが『先輩、記憶喪失ですよ!』って言ってたからそうなのかと思って」 「あぁ? それこそ意味わかんねえし」 というよりもふつうはそこであっさり信じないだろう。そもそもいきなり記憶喪失だと突きつけられることもまずないが階段から落ちるという事故発生中に咄嗟に相手がだれだかなんて判断できるとは思えない。語り口調からして図書館にはひとりで行ったような雰囲気。そういうことをぜんぶひっくるめて半眼になってみやればニールは拗ねる風に唇をとがらせた。女かおまえは。 「おれにだってわかんねえよ。だってさあ、向こうはあきらかおれのこと知ってんのに覚えてないんじゃ記憶喪失って感じするだろ。しかもおれを先輩って呼ぶってことはあれ、年齢的に大学のときの後輩かもしれないし」 たんにわすれてたってならそれはそれで申し訳ないよなあ。もうひと切れあったミートパイをパイ屑が落ちないようちまちま食べすすめながらため息をつく。 どうでもいいがニールは絶賛モラトリアム中だ。それなりの工業大学の建築デザイン科を卒業しているにもかかわらず就職しないで服飾の専門学校にはいり直し、かつ二年制の学科カリキュラムを一度終えてほかの学科に移っている有様だ。本気で意味がわからない。単純にはたらきたくないのか技術を吸収したいのかさっぱりわからないけれど彼が昨年修めたという学科にハレルヤは在籍しているものだからややこしい。 「しかもそいつおれの恋人らしいよ。おれから告白したんだって」 「…………は」 芸のないことに先ほどと同じ反応をしてしまった。寝耳に水の二段構えだ。抜かりない。じゃなくて。 「つーかおれって恋人いたの? もしかしてそっからわすれてる?」 「……知らねーし」 少なくともハレルヤは知らない。大学時代はどうだか知らないがとりあえずここ数年でニールといちばん過ごしているのは自分だ。まず出会ったのが年齢をごまかしてはじめたパートタイム・ジョブの仕事場だし(ちなみに会員制のバーだ。知人の伝手で口を利いてもらった)、学科はちがっても放課後はだいたいいっしょにいる。土日もひまであれば買い物に行く仲だ。終電逃してニールの家に泊まったこともある。挙げ連ねてみれば微妙に自慢まじりで自分が気持ちわるくなったがとにもかくにも自分は彼の恋人など知らない。いくら一部が破たんしていようと性格も顔もいいのでモテるのはわかっているけれど特定のパートーナーがいるようにはさっぱり見えない。現在進行形で。本当にいたらいたで認めないけれどなんとなく。 「明後日デートだって」 「ざっけんな。日曜はおれとデートだろアリスタの新作見に」 「おれもそう思ったから訊いてるんだって」 デートという言葉は双方でスルーするとして。 十中八九で性質のわるい女に引っかけられたらしい。それも策士系の。さすがにその女がニールを突き飛ばしたというのはいくらなんでも考えすぎの第三者的被害妄想だがそうやって偶発事故を好機ととらえるからには相当頭がまわるらしい。あるいはテンパっていたか。とりあえず碌でもないことだけは確定。こちとらいろいろといそがしいのに余計なことねじこんでくるんじゃねえとばかりにハレルヤはカップの縁を噛みしめる。ストローでもなんでもがじがじ噛んでしまうのが昔からの癖でたびたび怒られるのだが以下省略。 「運がいいんだかわるいんだか、そいつもアリスタ見にいきたいらしいし」 「殺すぞてめえ。おい、まさかオーケイしたんじゃねえだろうな」 「当たり前だろうが。けどなあ、目の前で泣かれちゃフォローするよりほかないだろ」 泣かれたのか。こうなってくるともはやその女はただのストーカーな気さえしてくる。なにせこのお人好しは泣かれたときになぐさめるのが滅法下手だ。理由はかんたんで当人があまり泣いた経験がないから。泣いたときになぐさめられた経験が少ないとフィードバックはむずかしい。かえしてハレルヤは小さいころ兄がよく泣いていたので得意でもないがそれなりの対応は取れる。なるべくどころか全力で回避したい状況ではあるが。思えば兄は今でもぴーぴー泣いているような気もする。うざったいことこの上ない。身の丈一八六センチの男がめそめそしている光景はいっそホラーだ。真夜中に女の泣き声がするよりもダイレクトにぞっとする。身内なので表現に容赦はない。機嫌が良ければ良いでハレルヤハレルヤとしつこい兄を脳内から追いやって、今の相手は自称(他称か?)記憶喪失男をどうにかせねば。つーか余計なこと吹きこみやがった女殺したい。殺さないけれど。 「チ、……で、どこのどいつだよその成りあがり」 「成りあがりっておまえね……あー、そういや名前訊きわすれた」 「やっぱ一回死んでこい」 手はじめに半分以上のこっているカップの中身をぶっかけてやろうかと思ったのがコンマいくつかの差で先に察したらしいニールに取りあげられた。代わりに食べかけのミートパイを強奪して一時的に報復終了。両手にカップを掲げたまま苦笑っている男をにらんだまま手を出せばあっさり返却された。なにがしたかったのかはおそらく周囲で見守っていた客にはわからないだろうが当人的には相互理解があるので気にするべくもない。 「でも顔はわかるぜ」 油でよごれた紙ナプキンをくしゃくしゃっとまるめてニールは微妙に胸を張ったがそこでわからないと言われても逆にこまる。昨日の今日で覚えてなければ記憶喪失でなくて若年性健忘だ。ていうかそうやってちょっと偉そうな感じで胸張るのやめてくれ。単純にかわいいだけだぞ二四歳。罵詈雑言になりきれない文句をあまったるいラテで飲みこむ。沈澱しないスチームミルクは少しばかり飲みにくくて。 「こーんな顔」 なにやらレザーのバッグをごそごそ漁っていたかと思えば以前ファーストフードショップでなぜか粗品としてもらった小型の鏡。鏡面を向けると同時に言われたがそこに映りこんでいるのは当然左右が逆になった自分の顔。イコールで結んで単純明快。一年通して脳内花畑だと六割断定できる兄がずるりと引きずられる感じで導き出されてハレルヤは思わず額をテーブルに打ちつけた。 (ところでこれって両手に花? つかおまえさんきょうだいいるの?) (……だからてめえは全体ずれこみすぎだ馬鹿野郎!) |