ひた、と。二十代後半にしてはいささか高すぎる体温をした手が腹に触れ、生理的に身じろぎそうになるのを理性で耐える。 「ほう」手のひらの持ち主であるグラハムは興味深そうに、やはり年齢に不釣りあいな大きさの眼をまたたかせた。「また、なんとも面妖だな」 「まあ奇病だしなあ。て、いいかげん手離せ」 「これは失敬」 口ではそう言いつつも心底名残惜しそうに撫でる手を強制的にはらいのけ、ロックオンはめくりあげていたシャツを下へ伸ばした。濃い色のそれを着るのは稀だが、こうでしないとひかりの反射具合で違和感が出てしまう。 「んで。好奇心旺盛なグラハムさんにはこれで納得していただけたのか?」 「一時的にはだが」 コーヒーでも淹れてこよう、と席を立つ彼をひらりとジェスチャーで見送り、ロックオンは行儀わるくもソファの上で片ひざを抱えた。 この部屋の主はたいへんな親日家であり、そのせいか彼の出身地ではなく日本式の――つまりは室内では靴を脱ぐというルールが保たれているのだがロックオンはどうにも慣れず、妥協としてスリッパと言うらしいルームシューズを借りている。当のグラハムはソックスだ。スリッパがたてるぱたぱたという音がわずらわしいのだという。 立てたひざ頭にあごを乗せ、さあどのように説明したものかとロックオンは考える。 先ほどグラハムに腹を見せていたのは痣や傷の具合がどうこうではなく(むしろそんなものをつくって隠しとおせたことがない。あいつの勘は野生の獣クラスだ)、さっぱりわかりやすく言えば彼が触れた部分のみ透過してしまっているからだ。 ロックオンがもう長いこと――具体的に言えばあの忌まわしいテロで家族を亡くしてしばらくしたあたりから患っているこの病は名を〈透明病〉という。症状は読んで字のごとく躰のいち部分が、ひどいときには全身まるごとが透明になってしまう奇病だ。発症例はほとんどなく、また躰が透けてしまうという一点をのぞけばいのちに害がないために薬はおろか治療方法も見つかっていない。唯一の難点は症状が現れる間隔や範囲に大きな個人差があり、どの程度が進行で遅滞なのかすらも不明であることだ。 現におとといの夜くらいから鎖骨の中央と左のわき腹一帯が透けている。前回は右手首がリストバンド状に透けて、それが二週間ほど前だ。 さいわいにもロックオンはいまだ全身が透けたことはないがそれもおそらくは時間の問題だろう。今は不定期に透けたりもどったりをくりかえしてはいるけれどいつ透けっぱなしになるかわからない。 痛みもなにもなく、はじめて躰が透けたときはとにかくおどろいた。同時にいろんなものに対する罰だと思った。けれど、そのとき行動をともにしていた男に闇医者の診断を受けさせられ、不治の奇病と知ったら知ったでぽかんとしてしまった。躰が透けているだけ。紙媒体のなかのことでしかないと思っていたことが現実にあるとは、と同伴していた男とふたり呆けた覚えがある。 「待たせてすまない」 「それほどでも」 「ミルクはなし。砂糖はティースプーンで一杯、だったかな」 「ん。さんきゅ」 両手に白いマグカップを持って再登場したグラハムから片方を受けとり、「あついぞ」忠告を右から左にスルーして冷まさず口をつける。生憎と猫舌ではないから火傷してもさして気にならないほうだ。 ずるずるとだらしなくコーヒーをすすっていると、対面のソファに腰をおろした彼がこちらの胸あたりを注視して片眉を撥ねあげた。 「内臓まで透けているというからコーヒーが喉を通るさまが見えるかと思ったが、いやはやどうやらはずれたようだ」 「はっ、ありがちなひっでえ発想。そういう魂胆かよ」 「そのつもりがなかったわけではない、と言わせてもらおう」 「はは、正直だな」 「きみに偽りを告げるのは心苦しい。それに、正直は私の唯一とも言える美徳なのでね」 「や、そうでもないだろう」 湯気を立ちのぼらせる黒茶の液体でくちびるを湿らせ、ロックオンはひらりと手をふってわかりやすく否定した。社交辞令半分、本気は二割だ。のこりの三割ほどはその真っ正直さのせいであおりを食ったことがあるのでマイナスポイント。 無意識につけ加えられたため息をどう受けとったのか、「ふむ。して、姫はほかにどのようなところを美点としてくれているのかな」ブラックのままのコーヒーを適度に冷ましながら飲み下していたグラハムは機嫌良さそうに笑んだ。 やたらきらきらした外見とあいまってまさしく童話のなかの王子さま然としたそれに思わずロックオンはうっすらと眉をしかめる。なんというか、彼に罪はないと努めて思いたいのにいらっとしてしまう。 「性懲りもなく姫呼ばわりするのはまずまちがいなく欠点だ」 「手きびしいな」 「当然だっての」 なにがどうして人通りの多い往来で姫と大声でさけばれた挙句鳥肌もののせりふを怒涛のごとく吐かれねばならんのだ。 「話をもどすが、見えるわけではないのだな」 「――まあな。ただ透けているだけで肉はちゃんと存在してるから、グロい中身をさらすっていうスプラッタだけは免れてるよ」 そう、症状は透けるだけであって欠けるわけではない。 わかりにくいのを承知で例えるならば挿し色のはいったビー玉だ。境界があるのはわかってもはっきりとは見てとれない。ロックオンの透過部分とふつうの躰の境界も同様だ。表面的に見て透けているだけであって、その部分を窓に内側を覗いてみても不可視の肉に阻まれてしまう。以前、肘から先が透けたときにたしかめてみたからこの仮説はおそらく正しい。それに、グラハムの予想で言うならコーヒーだけでなく胃で消化されているものや血液なども見えなければおかしいのだ。 余談になるが、ロックオンの躰でもっともひんぱんに透けているのが両手だ。この部分だけはなぜか同時に透過するので手を保護する以上にグローブが文字通り手放せない。狙撃はほぼ感覚・知覚の領域で行っているので手が見えようと見えまいと命中率に問題はないが、やはり気分はわるい。 もう十何年とつきあっている病であるがこの症状に慣れることはない。いや、努めて慣れないようにしている。慣れてしまえばそれこそ病状の進行を早めそうな気さえするのだ。 あえて非日常に慣れないことは、人間が“にんげん”にカテゴライズされる上でもっとも重要だとロックオンは考える。狙撃も同じ。だれかを害することに慣れてしまえばそれはただの機械化――退行的進化だ。 そんな心情を悟ってなのか、グラハムは茶化すように言ったロックオンに対してとくべつコメントしなかった。その気づかいがありがたいとすなおに思う。 「して、私のほかに知っている者は?」 「勤め先にいるドクターと、あと同僚にひとり。そういやあいつもあんたと同じで自力で気づいたんだよなあ」 「なんと! いくら逢瀬がごくたまにとは言え、その分濃厚な時間をともにしているというのに遅れをとったとは……このグラハム・エーカー、なんたる不覚!」 「なんのだよ。競うようなことじゃねえだろうに。つかそもそも逢瀬じゃないっつの、きもいこと言うな」 「これはやはりあれだろうか、姫を愛する者としてその同僚とやらに一騎討ちを申しこむべきか」 「姫言うな。話を聞け」 マグカップの把手を力強くにぎりしめ(そのうちコミックみたいに砕けたらどうしよう。ソファ白いのに)いきり立つグラハムに、ああもう聞いちゃいやしねえとロックオンは頭を抱えた。 さすがにドクター・モレノには話を通してある――というかエージェントがヴェーダに提出したデータのなかには当然カルテも混ざっていて、こちらから言うまでもなく月に二度のメディカルチェックを義務づけられた。 特徴的なヘアカットとサングラスを思い浮かべ、「あ、今月まだだ」口のなかでつぶやく。医者らしくくどくどとうるさいドクターが脳裏をよぎったが次に宇宙にあがったときでいいかとロックオンはぬるくなったコーヒーをもうひと口ふくむ。 あともうひとり、この視覚的厄介を知っているのは――自分でも意外と思うのだがハレルヤだったりする。曰く、そこにあるのはわかるのに見えないから気になった、だそうだ。どうしても隠さなければならないことではないので事情を話してはおいたのだが、殊勝にも彼は主人格であるアレルヤにはこれについてのいっさいを伝えていないらしい。ロックオンがそうと知れたのは直後アレルヤと会ったときにそれらしいリアクションがなかったためだ。必要ないと判じたのか、あえて遠ざけているのか。ハレルヤの思惑がどちらにせよ、自身の立ち位置的にあまり心配されたくないので彼にはこれでも感謝しているのだけれど。 「ま、知ってる人間は少ないほうがいいよな。いつぜんぶ消えるとも知れないんだし」 「聞き捨てならない言い方だな、姫。消えるというのはいささかの語弊があると思うが」 「厳密には、だろう。事象的に変わりはないさ、見えないんだから。いないのといっしょ」 人間の状態はいるか、いないかのふた通りだとなにかで読んだことがある。それは正しく真理だ。たとえ死んでいても躰があればそこにいるのだし、存在していたとしても不可視あるいはその場にすがたがなければいないのだ。 あらためて考えてみるとロックオンの死は他人とくらべてひとつ多い。ソレスタルビーイングでMSを駆っている以上死ととなりあわせなのは常だが、そこにいるのにいなくなったと判断されるのはロックオンだけだ。 もし、ロックオンが物理的に死んでしまうより先に全身が透過してしまったらだれがわかってくれるだろうか。 運がよければハレルヤ、欲張ればアレルヤもわかってくれるかもしれない。希望的観測を入れるならばライルも。けれど彼らにわかるのは“そこにいる”という存在だけで、おそらくだれもロックオンを“見る”ことはできないのだと思う。透明になったときに見えるものがあるのかはロックオンにもまだわからないけれど、どちらにせよ死んでいるのと同義だ。 そうだとするならばわかってしまう彼らがひどく哀れだ。これではまるで死んでなお死を認めることができていないようではないか。 思考がぐるぐると迷走する。わるいほうへ、わるいほうへ、と手を引かれているのをわかっていてもそれをふりほどくことができないのはロックオンが――たとえ概念的であっても――死をおそれているからか。たしかに死ぬのはいやだ。まだなにもしていない。けれど、それ以上にロックオンがおそれているのは―――― 「ニール」 ふと名を、今となっては彼の声でしか呼ばれることのないそれが音になった届いたことに気づいたときには、もうグラハムの手が頬に触れていた。 「こわい顔だ。なにを考えている?」 「なに、って……」 至近距離から覗きこまれ、思わず触れられているのとは反対に目を逃がす。 しかし、ロックオンのその反応が許しがたいものであったのか、グラハムはその無骨なりにあたたかな手で頬をするりと撫でた。 こちらから触れることはあっても触れられることはまずなく、ひとの温度が肌をすべるそれは古い記憶にしかないものだ。 こそばゆいような感覚をふりはらおうとしてわずかに首を動かした途端、ばちりと音をたてて視線がぶつかった。研ぎ澄まされたベリルから目を離せなくなる。惹かれているのではなく、本能的に退くことができない。 撫でる手を止め、しかし目だけはロックオンを釘づけにしたままグラハムが口をひらいた。 「よろこばしいことに私は五体満足の健常者であるし、多少悩むことはあれどきみの抱えるものほどではないと自覚している。だが、」 わずかにうつむき、攻撃的なまでの意志をもったグリーン・アイが隠れる。 その一瞬に安堵して無意識のうちにつめていた息を吐こうとした次の瞬間、ロックオンはグラハムの腕のなかだった。あまりの展開に思考がかたまる。これが平素であれば突き飛ばすなりなんなりと相応の反応を示していただろうに、本質的に沈着冷静であるロックオンにそうさせないまでのなにかが彼の目にはあったのだ。 「きみがそこにいると言うのであれば問題あるまい。だが、そのやわらかな髪や、静謐とした湖のような美しい瞳――きみをかたちづくるすべてが見えなくとも、私はたしかにきみを抱きしめてみせよう」 だからより克明に鮮明に、きみを私にきざませてくれ、と。 聞きようによっては恥ずかしいピロートークであるそれをロックオンはあえて深くは考えない。考えるだけ野暮だ。 視界の端にある金色がちらちらとまぶしい。先よりも触れあうところが増えていて、たしかに今ここにいるのだと感じざるをえない。 もしかしたら、とロックオンは思う。もしかしたら彼だけは透明になっても色つきの自分を見てくれるのではないかと夢想する。 抱きしめられるままだったのを、グラハムに体重のほとんどをあずけてしまう。ただかたいだけの胸板がひたいに当たって、でもそこから直接伝わる鼓動にふっと肩の力が抜けた。 数分前までの自分がなにをおそれていたのかが少しだけわかった。わかっただけでもちろん今も同じ気持ちだ。けれど先ほどみたいな焦りはうすくなっている。 慣れない手つきでグラハムが髪を撫で梳いているのをいいことに、ロックオンはひっそりと笑みを浮かべてみた。 たぶん、わすれられることがこわかった。
わたしの影とあなたでワルツを |