まっしろな空間。白い壁はなぜかきらいだった。パネルの床も、古ぼけたような白熱灯も。
 今はない研究所を思い出すだからだろうか、とソーマは自問する。自分に訊いても答えがないことは知っていた。それでもここの白さはなぜか好ましかった。家族と呼べるものなんてない自分を置いてくれている敬愛するあの人の家とはまったく正反対なのに、なぜか同じ感じがした。
 ソーマはその白さのなかに立っている。どこにもつなぎ目がなくてまっしろだからどちらが上か下か、どこからが床かさえわからない、まるで無重力のようだ。それでもソーマはそこに立っていた。
 本当は座ってもよかったのだろうけれど。なぜか座ってはならない気がした。
「ここは……」
 声に出して、それから、ああまたこの夢かと思った。
 眠るたびに、この夢を見るたびに思い出すのに、覚めてしまえばもう霧散してしまう夢だ。ここでは忘れていたことすら思い出せるのに。目覚めはリセットと同じだ。けれど人間は現実を整理するために夢を見るという。ならばここが現実で、あちらが夢? ――いいえ、そんなことありえない。ソーマは内心で首をふる。だってこちらにあの人はいないから。それとも、あの人は夢の生んだものなのか。
「心配しなさんな。おまえさんに現実はあちらだよ。ここじゃない」
 気がつけば、すこしだけ離れたところに青年が片ひざを立てて座っていた。見た目は成人しているようだけれどそのすがたはとてもじゃないがそうは見えない。着ているのはどこの陣営のものとも知れない深緑のアストロスーツだ。地球連邦直属治安維持部隊の制服もたしか深緑だったと記憶しているがそれとはまた異なっている気がする。
 同時に、これが自分が立っている理由なのだと思い当たる。この高さだとちょうど首を曲げずに彼を見ることができるのだ。
 そう、ソーマはこの夢に来るとかならず彼と会話を交わすのだ。もしかしたら彼を会話するためにこの夢に来ているのかもしれないけれど。
「なぜ、あなたは会いにいかないのです?」
 少々きつい物言いになってしまうのも仕方ないことだ。ソーマは彼を知らないから。彼もソーマを知らないはずなのに、なぜかソーマやあの人について多少の知識があるような話し方をする。最初はそれが不快で仕方がなかったはずなのに今ではもう慣れてしまった。そういう人なのだと理解した。あの人とはちがう、けれどあの人と同じ彼はおとななのだ。
「会いにいきたいのは山々なんだが、あそこにはおれをわかるやつがいないから」
「では、なぜわたしなのです?」
「そりゃあおまえさんがイノベイターのまがいもんだから、かな」
「イノベイター?」
 聞き慣れない、いやきっとはじめて聞く単語にソーマは眉をしかめる。
 基本的にソーマは首をかしげることはない。わからないことをパフォーマンスとして表に出すことは軍人である以上相手になめられた評価を与えることになる。ただでさえソーマには性別や年齢、出身による階級のせいでいろいろとやっかみがあるのだ(それらからソーマを守ってくれているのはあの人だ。これはあの人の部下がこっそり教えてくれたこと)。
 青年は、そんなソーマを痛ましげに見ながら(よけいなお世話だ!)立てたひざに肘をついて頬をくるんだ。仕草がやたらと絵になる。ニュース以外のメディアに興味のないソーマでもどこかしら惹かれるものがあるが、そう、なんとなくあの人に似ている。青年がおとなだから?
「脳量子波っていうんだっけ。おれもあまりくわしくないんだが、イノベイターは状況の把握だけでなくて思考や感情までそのままトレースできるんだそうだ。まったくふざけているよな……と、気をわるくさせたか」
 おれがここにいるのもたぶんイノベイターのせいなんだが、と肩をすくめる青年にはわるいが意味がわからない。
 脳量子波は超兵の特権のはずだ。他国でもあのような研究がなされているという情報はないし、ソレスタルビーイングの羽根付きガンダムによって超人特務機関の超兵開発施設が破壊され、旧人類革新連盟の残党狩りがある今、ソーマが知る中で脳量子波をもつのは実戦投入された超兵一号の自分とかつて脱走した被験体のもうひとりだけだ。
「それならばE-57が、わたしと同じ超兵がいる」
「それ、アレルヤのことか?」
 ふしぎそうに片目でまたたいた青年(そういえば右目は眼帯で覆われている。あれでMSを駆ったとはソレスタルビーイングながら尊敬に値する)にひとつうなずいた。アレルヤ。どこか引っかかりを覚えるそれが人名とわかるのはなぜだろう。
「あいつはなあ、ちょっと前ならたぶんわかったんだろうけど。今はだめ。欠けてるから」
 がしがしと自分の頭を乱暴にかきまぜながら青年が笑った。
 やわらかくて、どこか痛いような笑い方をソーマははじめて目にする。笑うという行為はうれしいだとか楽しいに直結するはずだ。なのになぜ彼は笑うのだろうか。現にこの状況は少なくとも彼にとってプラスではないと推測する。
「なぜ笑うのですか」
 だからソーマは問うてみた。
 これがあの人ならばもっとためらっただろう。けれど青年はあの人ではないし、これはどうせ夢なのだ。覚めれば消えてしまう事実。ならばなにを聞いたとてさしたる問題にはならないだろう。それこそ今さらな話、ソーマは彼がソレスタルビーイングのMSパイロットで、しかも先の大戦で戦死したことすらここでは知っているのだ。
 青年は短く息を吐き出した。あいかわらず笑んでいる。それからソーマに向かって手を伸ばしかけて、途中でやめられた手はそのまま横だおしになった彼の太ももに落下した。
 なにがしたかったのかいまいちわからない。青年について、ソーマは知らないことが多すぎる。それは当然だ。彼とは夢でしか会っていない。ソーマが知っているのか機密ばかりで表面のことはわからないことだらけ。知りたいとも思わないが、どうしてか疑問だった。
 しばらく言葉を探していたらしい青年はやっぱり困ったように笑ったままゆっくり口を開いた。
「あまり肩張らなくたっていいんだぜ? ま、死んじまったおれに、それもソレスタルビーイングに言われたかないだろうけど。だれだってしあわせになっていいんだって、おれは思うよ」
「答えになっていません」
「そりゃ、な。答えられるようなものじゃないし。おれとおまえさんのルーツはちがうからな」
「あなたになにがわかるというのですか」
「なにも。でも、おれはいいんだよ。心残りはあるし、満足してたわけじゃないけど。でもしあわせも不幸も個人のもんだから優劣つけたって仕方ないだろう」
 やさしすぎる目線に居心地がわるくなる。すべてを、見透かされている気分になる。
 青年はソーマを知らないのに、ソーマが欲しがっているものを知られてしまったような恥じらいが浮かぶ。
 ソーマは青年を知らないのに、彼がもっていたいちばんの秘密を暴いてしまったような罪悪感に襲われる。
 それなのに青年は笑った。愛しむように。哀れむように。
 笑顔が無表情であるかのように。

「自分で決めたことだけがしあわせじゃないさ。他人からでも与えられるしあわせもあると、おれは思いたいね」



 ―――目が覚める。
 いまだ慣れないやわらかいベッドからぼんやりする上体を起こして、ぐしぐしと目もとをこする。あまりやるとまた注意されてしまうから加減して。
 最近になってやっと料理にも手慣れてきて(もちろんあの人がいっしょだから)、今日の朝ごはんはどうしようかと考えつつ、あの人が選んでくれたうすいオレンジ色のパジャマのまま寝室を出れば、リビングにはもうあの人がいた。最初は寝坊したことに申し訳なくなって謝ってばかりいたけれど彼はそんなこと気にも留めずに撥ねた髪を撫ですいてくれた。
 手になじんだマグカップでコーヒーを飲みながらデイリーズを読むあの人がこちらに気がついて「おはよう」と頬をゆるめながら言ってくれたので、ソーマは乱れた髪をなおしていた手をおろしながら微笑んだ。
 だれかのように。
「――――おはようございます、大佐」
 ああ、わたしはしあわせだ。





誰かにとっては些細なことでも 君と僕にとっては特別なこと
笑え笑え。だれよりも強くあるために。それから泣こう。だれかのことを想うために。