ニールがそれを見つけたのは母に頼まれて二階にある書斎の本を整理しているときだ。 父が趣味で蒐集した古書はずっしりと重くてうっすら黄ばんでいて、そんなものが本棚を飛び出してところせましと床に積みあげられているものだからそう広くもない書斎はまるで図書館のような甘いにおいで満ちていた。エイミーは髪がほこりっぽくなるからと実に女の子らしい理由であまり近づこうとはしないけれど逆にニールはこのほこりの甘さを好んでいる。なんとなく落ち着くのだ。 分厚い本の内容はむずかしくてとても読めたものではなく、父も読むために集めているわけではないからジャンルもタイトルも著者もサイズもめちゃくちゃでただ積まれているだけのそれを整理しなおすのは重労働ではあるがパズルゲームのよう。母にいいように使われているだけな気もするけれど下手なことを言って好物である木いちごのタルトレットがティータイムに出されなくなるのはいやなのでそこはそう自分でうまいこと納得するようにしている。とりあえず進んでやることはあまりない。 暦的には春に近いある寒い日。エイミーは遊びに出かけてしまって家にはおらず、父も用事があるとかで母とふたりで家にいた午後のことだ。いつもと(と言うほどひんぱんではないが)同じようにうすっぺらいカーペットに上に積みあげられた本のタイトルをからだをかたむけながら確認し、持てるだけかかえて頭文字が同じアルファベットに運びわける。ここのところ見かけるのはI・S。厚さもサイズもまちまちなそれは建築物を集めていたり生き物についてだったり、果ては宗教や戦争のことにまでおよんでいた。どれも相当に古くて持ちあげただけでくずれてしまいそうで、けれど読んだ形跡はいっさいないからこの著者のファンというよりも完璧に趣味らしい。我が父親ながらあきれたくなってしまう。 「つーかこういうの買うお金ってどっから出てくんだろ。かあさんには内緒ってやつか?」 そうやってぶつぶつつぶやきながら(だって楽しいわけではない)ひと山ひと山どかして少しずつスペースを確保していく。でもってそこに父がまた古書を山にして置くのだから悪循環。でもそんな無責任に見えて書斎(と言うか書庫)になにがあってなにがないかわきちんと覚えているひとなので勝手の捨ててしまうわけにもいかなくて。それを黙認している母も母だ。片づけるのはニールだから勘弁してほしくても頼まれたら引き受けてしまう自分なので文句は聞こえないところで。 「これは、えーと……『ものみの塔』ってなんだこれ。とうさんどこで見つけてきたんだこんなもん」 邪教というかなんというかの機関誌は分類しようにも手に負えず、とりあえずドア付近のオブジェと化している椅子の上に放る。あれだろうか、号外なんかといっしょに持ち帰ってしまったとかそういうオチだろうか。日付もかなり前だし。 「捨てちゃだめかなあ…………あれ?」 アームレストに肘をついてなんとなくだれていたらふと視界になにかが引っかかった気がして視点を変えないままもう一度見まわす。空気の入れ換えのために窓をすこしだけ開けているので肌寒い感じ。積んでずらしてをくりかえしてつくったスペース。古くて分厚い本の山、山、山。以下略。 「あ」 ぐるりと見て気づく。今まで本があったせいで気づかなかったけれど本棚の一部が抽斗になっていてそこが中途半端に開いていた。遠目で見てなにかが引っかかっているのがわかる。 作業はひと段落しても本の塔が点在しているのでそれらを蹴倒さないように合間を縫って近づいてみれば引っかかっていたのは角がまるい小箱だ。興味本位で取り出してみると母が育てている薔薇の花びらに似た手ざわりで、空気にさらされていた部分はほこりで真っ白だがほかの部分は光沢のある濃紺の正方形。奥に向かって可動のあるふたをスライドさせれば書庫にはあまりにも不似合いなものがおさまっていて、ニールはそれを一度ごみになる予定の機関紙の上から椅子に置くと窓とカーテンを閉める。今日はここまで。時計がないからわからないけれどそろそろエイミーも帰ってくるはず。自分でも大概シスコンだとは思うけれどいくつか年の離れた妹はほこりっぽいのをきらうからシャワーだけでも浴びておきたい兄心だ。けれどその前に訊いておきたいことがある。小箱だけを手にニールは書斎を出て階下のキッチンへと移動する。 「かあさん、ちょっといい?」 キッチンに立って夕食のスープをつくっていた母がふりかえる。シャンパン色のエプロンは何年か前にきょうだい三人でお金を出しあってプレゼントしたものだ。発案者エイミー、色のチョイスはライルでデザインを選んだのがニールで以来母はそれを好んで使ってくれている。 「あら、ニール。書斎の整理は終わったのかしら」 「まさか。終わるわけがないよ。それよりもかあさん、これなに?」 顔をこちらに向けつつも鍋の中身をレードルでかき混ぜながら母はわずかに首をかしげたが差し出したものを見て大きく目を見張った。 「やだ。あなたどこで見つけてきたの」 「書斎の抽斗。これが引っかかって微妙に開いてたんだ」 はい、とコンロの火を止めた手に小箱を渡す。母はそれをかぱりと開けるとなつかしそうに微笑んだ。目つきがアルバムの写真を見るのに似ている。 深い青の布張りになったジュエリーボックスに閉じこめられていたのは かぶった白ぼこりを掃うように撫でる手がいつもとちがうような気がして、それだけ母にとって思い出のあるものなのだろうと判じてニールは口をつぐんで説明を待つ。 「これはね」 ひとしきり触れて気が済んだのか、母はふたを元通りにすると小箱をこちらにかえし渡された。それはもうぽいっと放ったかたちだったので咄嗟に受け取って数度またたく。 「お父さんと結婚する前にもらったのよ」 「でも、かあさんピアスホールなんて開いてないよね」 「ええ。開ける前にお父さんに止められたから」 「はあ? なにそれ。贈った意味ないし」 「ねー。でもあのひとったら、おれが贈ったものを身につけてくれるのならピアスじゃなくてこっちにしてくれって」 言いながら母はエプロンのポケットから結婚指輪を手のひらに取り出した。 「それがプロポーズ。今思い出してもおかしいわ」 「うわあ、とうさんって意外とキザなんだ。それでオーケイしちゃうかあさんもあれだけど」 「お父さんもお母さんも若かったもの」 結婚のきっかけを若かったで済ましていいものだろうか。むしろそんな微妙な加減で自分や弟妹が生まれたかと思うとぞっとするものがある。恋人時代や結婚直後などの話がよく聞かされていたけれどプロポーズ云々については初耳なだけになおさらだ。できることならライルとエイミーには伝えないままにしておきたい。それともニールが気にしすぎなのだろうか。 しばらくして母はリングをふたたびポケットに落とす。布の上から存在をたしかめるようにたたくのがなんだかふしぎだ。母はすこしだけ腰をかがめてニールと視線を合わすときちんと整えられた細い指先で小さなジュエリーボックスをつついた。 「このピアス、つけないのにもったいなくて捨てられなくて。だから片づけておいたと思ったんだけど書斎にあったのね」 「ふうん」 「なあに? そんなに気に入ったの、これ」 「うん」 からかいが混ざった問いに即答する。青がかった濃いみどり。話を聞いていたらそれがなにに似ていたのかを思い出して、それがわかったら手もとに欲しくなった。ねだったりするのはあまり得意ではないのだけれど。 「おれ、これがほしいな」 案の定、怪訝な顔になって、母。 「ええ? だって、あなた自転車がほしいって」 「いらない。自転車はライルかエイミーに買ってやって」 いつだったか夕食の席でほしいものをたずねられたときに自分を真似てかどうかはわからないけれど同じものをほしがっていたのを思い出す。ライルは寄宿舎にいるから必要ないかもしれないけれどあったほうがなにかと便利だろう。実際に使う使わないなんてことは考えない。単純にわかりやすくライルの所有物がいつも目に見えるかたちであってほしいだけだから。 しかし母はそんなニールの、自分でもちょっと変だと思っている考えまではわからなかったようでこまったようにため息をついた。 「もう……それだからライルが拗ねるのよ、って。わかってるのにやっちゃうのよね、うちのおにいちゃんは」 あきらめたような言い方に恥ずかしいようなくやしいような気持ちになって意識的に床をにらみつける。 両親だけでなく、日曜日のミサで会うシスターの言うことにはニールの考え方は他者をあいするすばらしい行動なのに度を越したところがあるらしい。自分としてはべつにライルのためを思ってやっているわけでもないのだけれどまわりからすればそう見えるらしい。いつか痛い目を見る前にほどほどになさい、と年がそこそこ近いシスターに耳打ちされたのはだれにも内緒だ。 あれがほしい、これがほしいと言うことはあるけれど。こういう風にものをねだるのは苦手で慣れていなくて、逆になにかを頼んだりするのはライルのがずっとうまかった。どう言えば効果的かなんてさっぱりだ。自分はライルやエイミーをたしなめてばかりいて、だからライルはそんなニールがいやになってしまった。兄であることにばかりこだわってまるで自分はおとなで同い年の弟は子どもみたいな位置してしまったから。自分がわがままで傲慢ということはとうの昔から知っている。それこそライルがなぜ寄宿舎にはいりたいとねだったその理由さえ。でも自分はこういう風にしかいられないから。ほかの役のやり方を知らない自分はだれよりもつまらない人間だとニールは心の底から思っていて。 「仕方のない子」 ぽつりとつぶやかれたそれに反射で顔をあげる。相手がなにかを言うときは目をそらしてはいけない。今よりずっと小さいころに言い聞かせられたそれをかたくなに守る自分はおかしいのだろうか。怒られたくないのもあるけれど、自分がそうしたくてそれしかできなくてライルの思ういい子でありつづけるニールは、 「自転車については置いておくとして、お父さんには内緒よ?」 「…………ありがと、かあさん」 「でもニール。あなた、そんなものどうするの? 穴でも開けるつもり?」 「べつに。ほしいからもらうの」 よくわからないけれどもらえたらしいピアスを小箱ごとパーカーの前ポケットに押しこむ。そこだけぽっこりふくらむのが気に入らなくて両手ともつっこんでしまって、それから自分がほこりだらけなことを思い出す。それから、エイミーが帰るまでにシャワーを浴びようと考えていたことも。 「ていうかエイミーには? そういうアクセサリ的なものあげないの?」 「あの子にはちゃんとべつのを渡すわ。わたしがあのひとからもらったのとはべつの、 話は終わったと見て鍋に向きなおっていた母は茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。たしかにこの国ではそういう習慣というか伝統があって、けれど代々伝わっていくようなものがふつうの家庭にあるのはめずらしいということを最近やっていたドキュメンタリで知った。ふつうだとばかり思っていたから拍子抜ける感じにおどろいたし、女性は尊重するものだと父からさんざん言われているニールではあるが。 「かあさん……そんなことおれに言われてもこまるんだけど」 「だってー。おとうさんはこういう話題いやがるんだもの。ライルは興味ないでしょうし、じゃあニールしかいないじゃない」 「消去法……つかおれだってエイミー嫁に出すとか今から考えたくない」 「あらあら、シスコンね。おにいちゃん」 完全にからかおうとしている母に背を向けて階段をあがり、部屋に駆けこむ。家のなかで走ると怒られるので程度として早歩き。ライルが寄宿舎にはいるかはいらないかのころに部屋を分けて、それはまでいっしょに使っていたからニールの部屋はひとりで使うにはすこし広い。家具なんてそうそう増えないから空いたスペースは書斎とちがってなかなか埋まらない。壁紙の変な日焼けを見ないようにするのはもう慣れて、ワードローブから着替えを引っぱり出してはベッドの上にぽいぽい放る。それから手のひらに乗るサイズの濃紺の箱をライティングデスクの抽斗の奥に押しこんだ。引っかからないように気をつけてきっちりと閉めきる。 「これでよし」 あとは忘れなければ問題はない。口に出してうなずいて、ニールはベッドに放った衣服をかき集めて抱えるとまた部屋を出て今度はバスルームへ向かう。ついでにバスタブ磨いてくれないかしら、なんてキッチンから声を発する母に応ではなく否をかえすことはひどくむずかしいように思えた。 |