ライルがそれを見つけたのは勤め先に泊まりこんでいてひさしぶりに帰宅したときだ。
 一流商社ともなると仕事は比例したようにいそがしくて食事を筆頭に生活自体がおろそかになりはじめる。生活のために仕事をするのがふつうなのに仕事のせいで生活がままならないとか本末転倒極まりないことだ。労働の対価にストレスをもらっているというのもあながちまちがいではない。小さな不満や鬱憤はこまごまあれどその生活を気に入っていたのも事実だった。年相応の日常だと思ったから。
 年度頭に部署を異動したけれどいそがしいのはどこも同じだった。総務部ならば総務部の、営業ならば営業の花と苦労があるのだ。今までは見た目の良さを買われて外まわりの仕事を受けもっていたけれどデスクワークができないわけではないのでけっきょくはいいように使われている。おかげで最近もっぱらのたのしみは自宅にあるハイネケンやらバドワイザーやらキルケニーやらを片手にカップヌードルをずるずるすすることだ。自分で考えていてだいぶむなしい。自炊できないわけではないけれど時間がもったいないし手間をかかる。なによりミドルティーンのころにはすでに寄宿舎にはいっていて舌に慣れた思い出の味というのが食堂のそれなので料理をするとなったらまずレシピを探さなければならなくて。カップヌードル、というかインスタントラーメンは二〇世紀の経済特区東京発なので出まわっているのは主にユニオン領内だがAEUで買えないこともなく、むしろ便利だしうまいので麺をすすることに抵抗を覚えなくなってひさしい。フレーバーが豊富なのでローテーテョンも可能、飽きたら飽きたで日持ちするからそのままにしてもあまりこまらないのも利点だ。だめなおとなの自覚はあってあまりある。でもどこの国のアレンジだかは忘れたけれどシーフードフレーバーにはいっていた小さいホタテがおいしかった。
 暦的には春に近いある寒い日。エラーばかり吐き出すプログラムの書きなおしがようやくひと段落して借りているアパートに帰れた夜のことだ。いつものようにスーツのジャケットをベッドに放りなげ、一瞬だけシャワーかビールかで迷ったが疲れたからだはある意味正直で他人とくらべて長い指が冷えた赤い缶のプルタブを起こす。記憶にあるより水っぽい酒。そんなことばかり覚えている。だれがどんな風に飲んでいたかはおぼろげでもいたずらに舐めてみたものはしっかりと記銘して把持する記憶野だ。すり切れる、けれども上書きされないのは更新するものがもうないから。捨てるほどもないから減ることもまれな昔のこと。写真一枚すらライルは持っていないのは家が焼けてしまったせい。故意の放火をしてのけた犯人をきっと自分は知っている。
「だからってこんなもん、おれにどうしろって言うんだよ」
 天井床壁。六方すべてがパネル張りになった箱の一面に密着して設えられたライティングデスクにそれを転がす。五年か、六年か。とりあえず十年には満たないと思う時間をさかのぼった日にアパートの郵便受けにむりやり放りこまれていたものは濃紺のジュエリーボックスで。角のまるい、重たいサテンっぽい布が張られたそれは手のひらに乗る長方形。奥に向かって可動のあるふたをスライドさせればやわらかな布の台座におさまるアクセサリは思い当たる贈り主のことを考えてみても意図がさっぱりわからない。祖国ではよく見かけていて見慣れていたそれだけれどもどこにあってもライルには違和しか感じられないものだ。これを贈られたアパートだろうとプトレマイオス2だろうと同じこと。今となっては縁遠い、受けとった当時にはそういう未来も当たり前に訪れるだろう思って納得していたことを連想させる一対のアクセサリ。
「あんたはおれにどうしてほしかったんだ、にいさん」
 兄に対して勝手に抱いていたコンプレックス。それは永遠に埋まることのない溝をつくってしまったけれど後悔はあまりない。この私設武装組織(今じゃ正義のヒーローみたいな感じ。もちろん自分をふくめての皮肉だ)に参加するきっかけで伝えられた兄の死はあまりにらしすぎていやになった。あきれるくらい正しい道を無意識に歩いていたくせにいちばん最悪な踏みはずし方をしたのだからそれも当然だろう。憎悪や復讐心が生きる糧になるのは文字の上でだけで十分だ。現実に当てはめてしまったことからしてまちがっている。死んだらそこでおしまいだ。自己満足に復讐を果たしてみせたとしてだれも認めてくれやしないだろう。自分が満足して閉じてしまう。そこからつながっていかないことに意味を見出すことはあまりにむずかしい。少なくともライルにはむりだ。唯一生きのこった(と言うには語弊がありすぎる。だってその場にいなかったどころか知ったころにはぜんぶ終わっていたのだから)自分を勝手に理由に仕立ててしまった兄はどうだったか知らないし知りたくもないけれど。復讐を考える人間なんて狂っているとしか思えない。両親と妹は自爆テロで死んだというから実行犯も同様にいのちを終えているはず。ならばそれは天災と同じような気さえしてしまうのはきっとライルが現場に不在で両親と妹の亡骸を見ていないからだろう。遺体確認を行ったのも共同墓地への埋葬手つづきをしたのも同い年の兄だから。連絡が来たのはいっさいが終わってしまったあとだ。
 ピピッ。ロックしないまま放っておいた電子錠が音をたてて来客を知らせる。古参のクルーによればかなり改善されたそうだがそうであってもライルからすればこの艦の乗組員は他人への興味が欠如している。人付き合いが最悪級に下手なのが多すぎだ。なのでわざわざ他人の、それも新参であり一部のクルー以外にとって決して単純でない事情のある自分のコパートメントに赴いてくる人間はだいたいが固定される。可能性としては責任者らしい女性か整備主任、あとは最近乗艦した操舵士の彼女。まずありえないのが教官殿だ。だれが来たところでいっしょだけど。コミュニケーション能力が軒並み低下しそうな空気には肩が凝って仕方がなくて、ライルは軽くため息をつくとドアのほうへ移動する。待たせるのは本意ではない。
「どうぞ。って、めずらしいな。あんたがおれのところに来るなんて」
「イアンから言伝をあずかった」
 ぱしゅん、とドアがスライドする。立っていたのはガンダムに乗る四人のうちでリーダー役を担っている青年だ。飛び散らかった黒髪と赤銅色の目があいまって考えも表情もさっぱりわからない。
 艦内の無愛想どころ(だけでないのは訊かなくてもわかる)を一手になつかせていたという兄がすなおにすごいと思ったのは一度や二度でない。これで改善後というのだから尋常でない努力がしのばれるけれど同情はしない。あのひとが見せる苦労なんてどうせパフォーマンスばかりだ。好きで貧乏くじを引いているのだから好きなだけ引かせておけばいい。
「ケルディムの整備が遅れている」
「OSのチェックは?」
「整備が終了次第あちらから連絡するそうだ」
「りょーかい。おつかいご苦労さん」
 からかうそれにも刹那は眉ひとつ動かさない。かわいくないガキだと常々思う。と言うよりもこの組織は子どもがあまりにも多い。目の前の青年もオペレーターガールも五年前はまだミドルティーンだったはずだ(それにしてもこの組織、年齢や生年月日がだだ洩れでいいのだろうか)。子どもに人殺しさせてどうするんだ、そんなことを言ったならば美貌の教官殿にせせら笑われるだけなのは自明だ。変なところでシビアな組織だ、意味がわからない。
「メッセンジャーはそれでおしまいかい?」
「ああ」
 みじかい首肯。口数の少ない彼は思えば喉をあまりさらさして話すことがない。癖なのかとも思ったがわざわざたずねるような事柄でもないので気づいただけで終わりにする。情報は武器だが知りすぎれば毒だ。
 と、唐突に刹那が目を見張った。
「なぜおまえがあれを持っている」
「はあ?」
 反射で音をかえして、それからライルは視線の先を追いかける。六方パネル張りのコパートメントにはきっちりと溶接されて設えられたベッドとライティングデスクと椅子くらいが主な家具。デスクの上には端末と煙草、それから小箱。なかに閉じこめていたものは今は無機質なそこに転がっていて。
「なんだよ、おれが持ってちゃいけねえのか」
「あれはおまえの兄が身につけていたものだ」
「……へえ」
 ある意味予想していたことだ。そして意図的に断定を避けていたことでもある。対になっているからてっきり両親の遺品かと思っていたけれど兄のものだったらしい。
 ちょっと待ってろ、と刹那をそこに留めたままライルはデスクに転がるそれを手のひらで救いあげる。ひやりとつめたい石と金属。宇宙空間に出ればたったこれだけの大きさのデブリさえ脅威だというのに。
「ほらよ」
「なんだ」
「にいさん、狙撃手だったんだろ? 本当にこんなものしてたのか?」
「ああ」
 そっと手のひらを差し出されたので素手でないそこに一対を落としてやる。照明のひかりを反射させてきらきらとひかるみどり色グレンの石。ご丁寧に添えられていた鑑定書には良質の緑柱石とあってさすがにライルもおどろいた。青をふくんだそれはユニオン領コロンビアで採れるものの特徴だとかでだからこそ両親のものだと思っていた。
「覚えている。同じかたちなのに色がちがっていて、その片方が目の色に似ていたから引っぱったことがある」
「引っぱった?」
 片方という言い方もどこかおかしいのだがそれよりも気になったそれをライルは問う。そんなむりを強いなくとも言えばふつうに見せてもらえるようなアイテムだ。けれど自分で言ったとおりに兄はそういうものをしているイメージにないので保護なのか居候なのかよくわからなくなりつつある平凡っぽい青年のように首から吊っていたというのならべつだが。
 なつかしそうに一対の片方、青が強いみどりの石がついたそれを透かして見ながら刹那はいつになく表情をやわらかくする。レアなものを見た気分。実際にレア度はわりと高めだ。
 気にしないようにはしていたけれどここの人間はみんな兄のことが好きすぎる。現在進行形でコンプレックスに似たなにかが増えつつあるのがひたすらに申し訳なくなるくらいには好意的な矢印が浮かんで見えそうだ。相関図でもつくったらきっとおもしろいだろうけれど同じくらいややこしいことになりそうで最終的にぐちゃぐちゃしたなにかができあがることは本職の彼女でなくともかんたんに予報できた。
 つまみあげていたそれを手のひらに置いてもう一方とならべ、刹那が口をひらく。
「ロックオンはこの石を耳につけていた」
「それってつまり……うっわ、あんた過激」
「あいつも痛がって怒られた。後日思いなおしてねだったら手放したあとだった」
 あのようなことがあればむりもないが。ピアスを引っぱるなどという悪行をしてのけてなおそれ以上の惨事を思い出して笑むとはなかなかどうしてこの刹那という少年はあなどれない。もはややんちゃだとか利かん坊だとかそういうかわいげのある領域を突破している。できればスルーしておきたいけれどもなんとなく聞いてほしそうな雰囲気をうっかり察してしまったからにはそれもかなわない。他人にくらべて面倒見はよくないほうなのに。兄はもちろん対象外、あのひとはだれかの世話を焼く以外パーソナリティやらアイデンティティやらを保てないようなところがあったから(でもってライルはその性質が大きらいだ)。
「なにがあったか訊いても?」
 終局的に雰囲気負けして話をうながす。叶うならば本気で聞きたくない。だれが好んで予想できるスプラッタを聞きたがるものか。
「おれたちが本格的に武力介入を開始する前の実機テストの際にヘルメットを脱ごうとしてそれが引っかかった。危うくちぎれることはなかったが、今考えてもけっこうな流血沙汰だ」
「………………」
 痛い。なんというかふつうに痛い。引っぱられるなんて目じゃない、想像するのもいやだ。被害報告はピアスホールの開いている友人たちからちょくちょく聞いてはいたけれどまさか兄も被害者だとは、むしろあの兄がピアスをしていたとは思わなかった。
「じゃあこれどっちか血まみれってことか?」
「ルミノール反応は出るだろうが問題ないはずだ」
「や、そうじゃなくて」
 ひらひらと手を振って否定。しかし刹那はそんなライルが、自分でもふしぎになるくらい兄の血にどん引いていることについては理解できなかったようで小首をかしげてみせて、それから手のひらのそれをまじまじと見つめる。
「変わった指輪だな」
「クラダリングっつーの。微妙にデザインがちがうのはペアリングだからだ」
「この石は」
「あんたも大概無知だよなあ。これはみどりだからエメラルド」
 どうでもいいけれど淡い青ハガルならばアクアマリンになる。化学組成では同じ石で含有する色成分だけが異なるらしい。だいぶ前に付き合って別れた恋人が教えてくれた豆知識はまだ生きている。顔はとうに忘れたけれど。
「これはニール・ディランディの目」
 男性用にあつらえられた幅広の指輪をライルの手のひらに落として刹那がつぶやく。青みの強いみどり。思い出してみれば姿形は同じでも目の色は微妙にちがっているから目さえじっくり見させてくれればちゃんとわかるなんて言ったひとがいた。たぶん日曜日のミサに通っていた教会のシスターだ。あまり話したことはなかったのにそれだけはひどく印象的だ。顔も声も忘れたけれど。刹那がもうひとつ、女性用の細いそれをかるくにぎる。青がかった濃いみどり。一対なのに微妙に色がちがっているのが腹立たしい。石のかたちばかりが同じなそれ。さっき見たときからなにかに似ていると思って、今見てもそう感じるけれど脳が理解を拒んでいる。こういうことがわからないのは気持ちわるい。刹那に訊いたところで自分の感覚ではないのだから答えは得られそうにないのはわかっていても。
「これはおまえの目の色だ、ライル・ディランディ」
 抑揚を変えた声とともに指輪が落ちる。手のひらの弾力ですこしだけはねて、先に落ち着いていた対の上に重なって硬質な音をたてた。
「……なに、あいつ」
 時間を取らせた、とそれだけの言葉を置いて半重力に設定された通路を慣れた風に去っていく背中を思わず見送ってつぶやく。すなおにおどろいた。目を石にたとえるなんてレベルの口説き文句はだれの仕込みだろうか。現時点でも十分に末恐ろしい。なによりも発言に違和感がないことがこわい。
 返却された一対のアクセサリを片手にライルはかたわらのパネルをたたいて部屋をロックする。グローヴ越しに石と金属の温度が伝わる。兄がつけていたというピアスをこわしてつくったペアのクラダリング。ハートは愛情、王冠は忠誠、手は博愛と友情。『Let Love and Friendship Reign』の言葉とともに代々受け継がれる祖国発祥の指輪ははめる向きや指によって意味が異なる特殊性がある。祖母から母へ、母から妹へ伝えられるはずだったリングはどこへ行ってしまったのだろう。奇妙に停止した頭でそんなことを考えた。






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